読書と読書感想文について
「読書について」、未だ解けない呪い
「私は読書感想文が嫌いである……」
これは忘れもしない、私が中学の頃に提出した読書感想文の書き出しである。夏休みの宿題をほぼ全部すっぽかし、「これは提出しないと評定に1をつけますよ」と言われて、しぶしぶ冬休み前に先生に渡した。
何故嫌いなのか、理由はいくつかある。よく言われている通り、それが「感想文」ではないことが一つの理由だ。
自分ならこうする~とか、自分も似たような体験が~とか、本の感想に軸を置いていない自分語りが評価されるのが嫌だし、感想を強制されるのも、感想に優劣がつくのも気に食わない、などと言うことはあの時も書いた。
今になって考えてみると、そもそも読書という作業が嫌である。
胸を張って「この本を読んだ!」と言える状態になる場合、本全体や文章の内容どころか、言葉の意味の一つ一つを入念に検討し理解する必要がある。
そうするにはどれだけの時間と労力が必要だろうか。
今となってはそれなりに読書を重ね、速読も出来るようになり、流し読みで大筋を理解して必要な時に読み返す方法も心得てきたが、それでも途方もない作業量にだいぶ疲れている。昔から読書は得意だったはずなのだが。
長々と不満を投げつけてきたが、あの読書感想文を提出して先生に笑ってもらったときは、読書感想文を書いてよかったと思えた初めての瞬間であった。
そもそも文章を書くのは好きだ。人生の所々で評価されてきたこともあり、そんな人間が読書感想文を嫌っているのも違和感がある。
結局私が嫌だったのは読書感想文ではなくて、課された宿題全般がめんどくさいという、ありふれたつまらない理由だったのかもしれない。やりたくないことに理屈をつけて逃げていただけなのだ。
こう考えると、いつまでも読書感想文の呪いにとらわれる必要はないのだろうと、私はこの文章を書いて思えた。
「読んでいない本について堂々と語る方法」、聞き流してもいい話
これは読書というものについて信じられている、いくつかの常識や規範に対する問題提起の本である。タイトルから分かる通り、本は読まずに語ってもよい、というメッセージがこの本を貫く主張だ。
読んだ感じだとこの本もその主張に漏れず、全部を真面目に読まなくても要点を掴めるようになっている。序文と目次を読んだだけでもよい。
私は普段、これとは対極の読み方をすることがある。中世ヨーロッパの修道院よろしく、全文を写本する勢いで書き起こしたりするのだ。
そうでなくとも結構時間をかける場合が多いので、いっそのこと本を読まずに本を語ってみたい、という動機でこの本を読んだ。
こうしたわけで、先ほど『読書について』を一切読まずに読書感想文を書いてみた。いかがだっただろうか。
読まずに語る手法として、気後れしないこと、自分の考えを押し付けること、自分自身について語ることが挙げられていたので、それらを活用している。
こう考えてみると、読まずに語る手法と世の中で推奨されている読書感想文の書き方は、何とも酷似している。実は本を読まずに語る方法を教えてくれていたのではないかとも思えてきた。
親の心子知らずとはこのこと、面倒な作業を省略するための方法を教えてくれていたのに、それを面倒だと思っていたのだ。何という悲劇か。
まぁ読書も読書感想文も、もっと自由にやれということなのだろう。
真面目に読んでもいいし、流し読みでもいいし、序文と目次だけ読んで必要な時に取り出すだけでもよい。読まなくてもよい。
実際この文章を読んでいる人は、私が『読んでいない本について堂々と語る方法』に関して、上記4つの内どの状態であるのか分からないだろう。
一応答えはあるので、あまりにも暇なら探してみてほしい。ヒントはこの本に書かれた略号である。
「読書について」、を読んで
読書とは、他人の思考を自分のものにする行為だ。だから、読書なんて出来ればするべきじゃない……これが『読書について』に書かれているショーペンハウアーの根幹となる主張である。つまり、この本を読むこと自体が著者の主張に沿わない行為になる。読書そのものに対する問題提起だ。
ショーペンハウアーが最も大事だと主張しているのが、「自分の頭で考える」ということである。となると、読書はこれに反してしまう。もし読書をするならば、どうしても自分自身では何も思いつかない場合にのみ行い、本の内容を鵜呑みにせず自分の頭でじっくりと考えて咀嚼し、自分のものにしなければならないということだった。
確かに世の中には、読んだこともない本を、理解するどころか聞きかじった知識だけで語り、あまつさえ「自分は読みましたよ」というような雰囲気を漂わせる人は多い。これは読書に対する冒涜であろう。
これは読書に限らない。映画、アニメ、漫画、ゲーム、その他の創作物に関しても、自分の頭で考えることをせず、インターネットに落ちている感想を自分のものにしてしまいがちだ。そちらの方が楽なのである。
作品を見るという作業は時間、労力、お金という貴重なリソースを費やすことになり、感想を書くという作業は自分の頭で考えなければいけないという困難に直面する。しかしそこから逃げることなく努力して向き合うべきなのだ。
私も出来る限りちゃんと読み、自分で考え、語りたいと改めて思った。今まで自分で読むことすらせずに語ったことなど、天地神明に誓って一度もない。これからも自分を偽らず、自分の言葉で物事を語れるようにしたいものである。
「読書について」、を読んでPARTⅡ
ショーペンハウアーの『読書について』という本は、(光文社古典新訳文庫のものなので他二編を含む)実はそこまで読書について書かれていない。
じゃあ何が書いてあるのかというと、結構な文字数がドイツを中心とした文筆家の悪口に割かれている。むしろそこが見どころというレベルである。
せっかくなので書かれている悪口の一部を羅列してみよう。
自分もドイツの哲学者たちの古典を読むときがあり、そのたびに難解さで頭が痛くなって、「誰も真面目に読んでないだろこんな本!」と怒りに震えた時もある。しかしそれでも「ここまで言うか?」と思った。
ショーペンハウアーにとっては、その難解さこそがどうしても許せないようだ。理由を簡潔に言えば、「不必要に小難しい文章を書くことで、自分を知的に見せようとしている」ということである。ヘーゲル、フィヒテ、シェリングなどがその代表として批判されている。
確かに、賢く見られたい、出来る人に見られたいという感情は私にもあるし、誰にでもある。ただ、そうありたいならば、自分自身の体験と創作に対して誠実でないといけないし、出来ないこと、やってないこと、読んでいないことを認めていかなければならないのだろう。
「読んでいない本について堂々と語る方法」、を読んで?
この本から「読んでいない本について堂々と語る方法」を知りたければ、タイトルと序文と目次を読めばいいのは間違いない。
では、この本を「しっかり読んで語る」には何をしなければならないのか?とても恐ろしい事実に行き当たる。単純にこの本をしっかり読むだけでなく、この本の中に出てくる、『第三の男』や『薔薇の名前』をはじめとした、大量の本を読まなければならない。
何故ならこの本は「読まずに本を語る」、あるいは「読んでいない本について堂々と語る方法を実践する」ダメ読者を演じながら書かれているのだ。
そしてそれを看破する方法が、この本の中に出てくる本を読み、わざと間違った引用をしている部分を見つける、ということである。
著者が行ったこの辺りの仕掛けについては、本文中にも示唆されている。引用しよう。
よくよく見るとおかしな文章だ。「客観的に見て本の内容を正確に引用しています」とは言っていないのである。不正確な引用でも成立するのである。
……正直に言おう。私は今まで説明したような事実を「自分の頭で考えて」見つけ出したわけではない。訳者解説と、インターネットに落ちているレビューから知った。
他人の感想や書評によってその本を知った気になることは「ダメ読者」の典型だが、裏を取るためにこの本に割けるリソースは私にはない。最初から最後まで読んだ。それで十分じゃないか。恐怖に震えながら、この本を読み終わることにする。
「読書について」
私は読書が好きだ。本から新しい知識を得るのはとても楽しいし面白い。幼少期にはずっとスポーツをやっていたのに、中学や高校時代の記憶を辿ればほとんど図書室にいた。現在もそれなりの頻度で図書館に通っているし自分で本を買うことも多い。何か新しい趣味を始めようと思った時、最初に頼るのが本だ。スポーツ、ボードゲーム、学問、お絵描きなど、実用的な知識の多くを本から得てきた。
しかし人生を通して自分を悩ませているのは、本を読むと疲れるという事実である。本を読んでいると、その本からは分からなかった部分が見えてきて、また別の本を読まねばならないのだ。ただでさえ読了することに苦心しているのに、積読がどんどん増えてきて、最近気が遠くなってきた。
そんなとき私の目に飛び込んできたのが「#読書感想文の呪いを解く」という企画だ。せっかくなのでこの機会に、昔とても嫌いだった読書感想文という題材で遊びながらその呪いを解きつつ、さらには読書との付き合い方を再構成しようと試みた。
結果はどうだったか。失敗である。やっぱり読書感想文はその本の内容について文字数を割くのが大事だと思うのは変わらなかった。読書に関しても何かスタンスが変わるわけではなく、読まなきゃいけない本が二冊余計に増えただけだった。本末転倒である。
まぁ、これを書くために本を読んでいる間も、これを書いている間も楽しかったので、良しとしよう。ちょっとくらいは、肩の力を抜いて本を読んでもいいかもしれない。この後も大量に読まないといけない本があるので、この辺で失礼する。