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【ショートショート】越境

 私は化粧台の前で顧客の顔を赤く塗った。
 その上に大きな髭をつける。
 腕や足下には剛毛をつける。
 顧客は黙って自分の奇妙な格好に見入っている。
 私は自分にも同じ化粧を施し、練馬区の地図を取り出した。
「息子さんが住んでいるのはここで間違いありませんね」
「はい。三ヶ月前に来た隠密メールにその住所が書いてありました」
「では、出発しましょう」
 私は越境屋だ。分断されてしまった東京二十三区を自由に行き来することができる。
 顧客の女性は夫が腕のいいエンジニアなので、年収八百万円から八百五十万円の杉並区に在住している。ところが、独立した息子の年収は三百万円そこそこ。妻の収入を合わせても世帯年収は五百万円に達しない。彼らは泣く泣く練馬区へ引っ越していった。
 区境は厳重に閉ざされ、風俗も違えば、言葉すら違う。余所者が入り込むのはきわめて難しい。
 私たちはいま、杉並区と練馬区の境にある隠れ家にいる。一般道は監視の目が光っているので使えない。壁を押すと、隣の家のリビングに出た。
「やあ」
 と見張り役が声をかけてくる。
「変わりはないか」
「まあな」
 私たちは玄関から外に出た。この家はもう練馬区内になる。
 朝六時、まだ人影はまばらだ。練馬区風の格好をしているとはいえ、人との接触は最低限にしたい。
 すれ違う人たちはみんな赤い顔をしている。
 私は依頼人を指定の住所に案内した。
「お母さん!」
 と息子が叫ぶ。横にその妻もいる。まだ首の据わらない赤ちゃんもいる。
「よく来てくれたね」
「みんな元気? 可愛い赤ちゃんねえ」
 私はリビングのちょっと離れた位置で、家族の再会風景を見ている。私にとっては日常茶飯事だ。
 顧客はこの数時間に五万円を支払っている。
 帰り道でパトロールの警官に出会ったときはドキッとした。
「へらしすか」
 職質だ。
「わきゃきゃ。へま、どうま、どうも」
 練馬区のなまりで応答する。標準語も通じるが、疑われたくはない。鞄の中身も見せる。
「おーとらで」
 警官はうなずいて去って行った。
 その後はなにもなく、私たちはぶじ隠れ家へと戻り、化粧を落として杉並風の姿に戻った。
「あややとんぼり」
 顧客はよほど安心したのか、杉並なまりで礼を述べると自宅へと帰っていった。

(了)

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