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【ショートショート】記憶を落とす

 ぼくは電話アプリを起動し、「恋人」をタップした。
 彼女はなかなか出ない。
「どちらさまですか」
 用心深そうな声が聞こえてきた。
「なにいってるんだミサエ。ぼくだよ」
「ぼくと言われても……」
 ミサエは電話を切った。
 ぼくはすぐミサエの家に駆けつけた。
 彼女の両親はぼくのことを覚えてくれていたので、ホッとした。
 事情を聞く。
 ミサエは駅でケイタイを落としたらしい。もしかしたら盗まれたのかもしれないが、本人はなにも覚えていない。
 立ち往生していたところを駅員に送られてきたそうだ。
「前のケイタイがあったから復元したんですけどねぇ」
 と母親が言った。
 クラウド上のデータはきれいに消去されていたそうである。
「そのケイタイ、何年前のものですか」
「二年前よ」
「うわー」
 ぼくは頭を抱えた。ぼくとミサエが付き合いだしたのは一年半前のことである。あれやこれやの記憶が全部飛んだのだ。
「ミサエー。おいでー」
 母親が呼んだ。
 おそるおそるリビングに顔を出すミサエ。
「覚えてないでしょうけど、あなたが親しくお付き合いしていたタツヤさん」
「えっ、ほんとに?」
 ミサエは部屋に入ってきて、まじまじとぼくの顔を見た。
「私がこの人と?」
 ちょっと傷つくようなことをいう。
 その夜、ぼくはぼくとミサエの共通記憶を抜き出して、ミサエのクラウドにアップロードした。
 ようやく信用してもらえた。
 それからも、いろいろな人から共通記憶をもらって、ミサエの記憶はだんだん現在に近づいてきた。
 それでも自分だけの記憶はごっそり抜け落ちているので、どうにも落ち着かないみたいだ。
 いっそのこと、ぼくも一年半分の記憶を消去して、ふたりで最所からやり直したほうがよかったかなあ。

(了)

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