【ショートショート】難読
「店を閉めることにする」
と私は言った。
親子代々の判子屋だが、時代の流れが変わってきた。
「お父さん、これからどうするの」
かねてからやってみたかったのが、難読判子の出張販売だ。
私は役所のロビーの一角に販売所を構えた。おそるおそるといった感じで客がやってくる。
「あの、わたし、あきなしと申しますが」
「あ、あきなしさんですね」
私はケースをくるくる回して「春夏冬」と書かれた判子を取り出す。秋だけ抜けているから「あきなし」なのである。
「ほんとにあった」
春夏冬さんは喜んで判子を買っていった。
ご婦人がやってきた。
「わたくし、にのまえと申します」
私は「一」の判子を取り出す。一だから二の前というわけだ。ウソのようだが、ほんとにこういう読み方をするのである。この手のクイズのような名前はたくさんある。
「わたしは、ふかがわと言います」
「深川さん。すみませんね。そういうよくある名前は用意していないんです。役所を出て、商店街の中にある文具屋さんに行ってもらえますか」
汗かきなのか、服をぐっしゃりと濡らした男は、
「違うんですよ。そのふかがわじゃないんです。私、魚の鱶に、皮膚の皮と書いて、鱶皮と読みます」
「ほお。鱶皮さん。それは珍しいですね。もしお時間がよろしければ、お彫りしますよ」
私は認め印を作る道具を机に並べた。
鱶皮さんは、
「ぜひお願いします」
と言った。
小一時間ほどかかって、私は認め印を作り上げた。
「ほー、これが判子というものですか」
鱶皮さんは喜びのあまり、サメの姿に戻ってしまった。
「判子をもったサメは私が初めてかもしませんなあ」
水もないのに、器用に泳いで去って行った。
(了)
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