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【ショートショート】井戸移動

 朝刊を取りに出て、ちらと庭を見た。金木犀が一本生えているだけの細長い空間だ。
「あっ」
 端のほうに見慣れぬ木枠があった。
「井戸だ」
 私は思わず呟いた。
 移動する井戸はSNSで拡散された都市伝説である。
 失踪した人は、井戸のなかにいる。だが、井戸はすぐに移動してしまうので、二度と地上に戻ってくることはない。
 ならば、それを言っているおまえは誰だと思い、いままで信じないできたが、本物の井戸を目にしたからには嫌も応もない。
 私はすぐにホームセンターに走り、縄梯子を買ってきた。フックを木の枠にひっかけ、不安定な縄につかまり、暗い土の穴に潜っていく。
 私には妻がいた。
 いや、過去形にすると不吉だから、妻がいるとしておこう。
 妻は三ヶ月前に不意に失踪したのだった。原因に心当たりはない。警察に失踪届を出したが、情報はなにひとつ集まらなかった。
 井戸の伝説が気になり出したのはそのころからだ。
 私は天を見あげた。
 頂点にかすかな光があった。
 なかなか底に着かない。
 数時間後、私は縄にしがみつくようにして休息をとり、ボールペンを放り投げた。
 だいぶ時間がたってからかすかな反響があった。
 底はあるのだ。
「おーい」
 私はときどき叫びながら、ゆらゆら揺れる縄梯子を下っていった。

(了)

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