【ショートショート】発散
近所に理髪店がある。いまどき、めずらしい。
私は月に一度、髪を切りに行く。形はお任せだ。髪を切り終わると、椅子を倒し、熱く蒸した蒸しタオルを顔の上に乗せる。
いつ見てもカミソリ一本で、髭をそぎ落としていくのは職人技だと思う。自分ではどうやっても真似できない。
私が理髪店から離れられないのは、この瞬間があるからだ。
蒸しタオルは「あっ」と思うほど熱く、肌を蒸されている瞬間は痛苦しい思いもするが、そのあとの刃が肌に当たる冷たさで気持ちがすーっと晴れる。
なにかイヤなことがあったときなど、カットなしで、髭剃りだけしてもらいにくるほどである。
理髪店の休みは月曜日。
窓から店の中を覗くと、たくさんのタオルが物干しセットに吊されている。
あれ。
なんだかいつもとちょっと違う。
タオルに染みのようなものがついている。
そういえば、血の染みはなかなか落ちないと聞いたことがあるが……まさかな。
中に店主がいた。
「こんにちは」
と声をかけると、
「こんにちは。お出かけですか」
と挨拶が返ってきた。
「ええ、ちょっと散歩に」
「いいですね。ぼくも行こうかな」
「行きましょう」
ふたりで大きな公園に行き、アイスクリームを食べた。
「ふーっ。やっぱり外を歩くとすっきりするなあ」
店主は芝生の上で両手を広げた。
「ふだん店にこもりきりですもんね。明日にでも切りに行きますよ」
と私は言った。
「ええ、待ってます。ひさしぶりにストレス発散ができたので、明日はうまくできそうです」
店主はなにげなく、恐ろしいことを口にした。
(了)
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