【ショートショート】牛スジ
いい香りが鼻腔をくすぐる。
おでんの匂いに誘われて、オレはのれんをくぐった。
「やあ、熊さん」
とひげ面の店長が言った。
「花飾り」は午前零時に開店し、朝八時まで営業している深夜食堂である。カウンターだけの店だ。
オレはスツールに腰かけ、鍋を眺めた。
「大根とこんにゃくと、そうだな、がんもどき、ちょうだい」
「ちゃんと起きてる」
と店長が聞く。
オレはうなずいて、
「まだ薬は飲んでない」
と言った。
睡眠導入剤や抗不安剤を飲むと、欲望のたがが外れて、深夜のドカ食いをしてしまうことがある。そんなときは記憶が残らない。朝起きて、自分の腹具合にびっくりするのである。
薬の影響で食欲が異常に昂進している人は、無意識に動いているからすぐわかる。たとえば、いまオレの横で牛スジを食べている女性はちょっと危なそうだ。
「牛スジください」
「もう八本目だよ」
女性は返事をしない。一点を見つめている。視線の先にあるのは牛スジである。
店長は仕方なしに、皿に牛スジを盛って渡した。
次の日、会社に行くと、新人を紹介された。
「中途入社された板東香澄さんです」
「板東香澄です。よろしくお願いします。おでんでは牛スジが好きです」
「知ってるよ」
とオレは小さく呟いた。
昼休み、オレは板東さんを誘って近くの食堂に行った。
「板東さん、横巻駅の近くに住んでるでしょ」
「えっ、どうしてそんなこと知っているんですか」
「オレ、花飾りの常連なの」
「花飾りってなんですか」
無意識のうちに店に通っているらしい。
「いや、知らなきゃいいんだ」
昨日夜更かししたから、今日ははやく寝ようと思って、オレはいつもの眠剤を飲んだ。
「熊さん、こないだ、眠剤飲んでうちに来たでしょ」
「えっ、そうなの。記憶にないや」
「牛スジの女性と仲よさそうにしていたよ。あのあとどうなったのかと思って」
どうなったんだろうなあ。オレが知りたい。
その後、オレと香澄さんは同棲を始めたらしいのだが、オレはその場所さえ知らないのだ。
(了)
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