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【新刊書評&批評】『読めば分かるは当たり前?――読解力の認知心理学』犬塚美輪 -国語教育と社会の中心を変える-
こちらを読んで面白かったので紹介します。
第一部 書評…本の内容、魅力、位置づけ
第二部 解説…読解力の具体的な鍛え方について
第三部 批評…読解する意義と現在の国語教育について
この記事読んだ方が
「読解力とは何かわかった」
「読解力の身に着ける練習方法がわかった」
「国語教育とはなんだろう」
本論を読んで
「文章を通して見える世界」が
変わることを目指します。
基本情報
著作:『読めば分かるは当たり前?―読解力の認知心理学』
著者:犬塚 美輪 (著)
発売:2025/1/10
まえがき:言葉の奥行きを取り戻すために
読むとは何か。この問いほど、単純に見えて奥深いものはない。言葉は日々私たちの周囲に溢れている。情報を伝えるために使われ、感情を揺さぶり、時には思考を導くための道具となる。しかし、その本質に目を向けると、読む行為が単なる情報処理や効率的な技術では済まされないことがわかる。言葉には奥行きがあり、読むとはその奥行きに触れる行為なのだ。
本書『読めばわかるは当たり前』は、読むことを「表象構築」「感情を動かす読解」「批判的読解」という三段階に分け、それぞれが持つ意義を紐解く試みである。第一部の書評では、これら三つの段階がどのようにして読解力の地図を形作るのかを論じる。それは、読む行為が単なる言葉の理解に留まらず、感情や批判的思考を含む、豊かで多層的な営みであることを明らかにする。
第二部の解説はさらに踏み込み、読解力の実践的な側面を掘り下げていく。現行の国語教育の学習方法を補助線にして、読む際のメカニズムを現象学的に紐解き、「知る」から「できる」方法を導き出す。
第三部では、現在の国語教育や言葉を取り巻く社会的な状況が批評の対象となる。読解力を鍛えるとはどういうことか。それはただスキルを磨くことではなく、言葉と向き合い、自らのアイデンティティや文化的背景を見つめ直す営みである。読む行為は他者と向き合い、社会と向き合い、そして何より自分自身と向き合うための方法なのだ。
本書は、読むことが単なる効率や技術の問題に還元されがちな現代に対し、言葉が本来持つ力を取り戻そうとする挑戦である。読むという行為の中に潜む豊かさを再発見し、言葉がいかにして私たちを変え、私たちの世界を広げるのか。それを共に考えるための一冊である。
第1部:書評 「読解力の地図を描く」——読解力を知り、深め、自分を広げる旅へ
読解力を「地図」に描き出す新たな視点
読むとは何か。本書『読めば分かるは当たり前?――読解力の認知心理学』(以降『読めば分かるは当たり前?』)は、この問いに挑む意欲的な試みだ。著者は、読むことを「地図」にたとえ、その複雑な全体像を分かりやすく描き出す。読む行為を単なる技術やスキルとして片付けるのではなく、それが認知、感情、記憶の多層的なプロセスであることを明示する点に、本書の新しさがある。
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特筆すべきは、「読解力を高めるための地図」は、読解力を体系化させる手助けになるということだ。この地図は読者が自分の位置を把握し、目的地への道筋を見出すための指針を提供する。著者は、読解を「表象構築」「心を動かす読解」「批判的読解」という三つに分解し、それぞれがどのように私たちの思考や感情を形成するかを解説する。この視点は、読む行為が情報や意味の理解を超え、感情を動かしたり、批判的な思考を育むプロセスであることを教えてくれる。
読むという行為の複雑さを見える形にし、読むことに悩む学生や情報過多の時代を生きるビジネスパーソン、あるいは読書の喜びを再発見したい読書家に、新たな視点を提示する。
「読むこと」の本質を再考させる心理学的アプローチ
本書が独自性を発揮するのは、「読む」という行為を心理学的なプロセスとして解き明かしている点だ。まず、「表象構築」の段階では、文章を正確に理解し、その内容を記憶に留める仕組みを説明する。単に文字の解釈にとどまらず、読者自身の知識や推論を活用して「状況モデル」を形成する過程が示される。ここで示されるのは、読む行為が受動的ではなく、能動的な作業であるという洞察である。
さらに、「心を動かす読解」については、文章が感情にどのように作用するかを解説する。物語が読者に感動を与え、新しい価値観を形成する過程は、心理学の「移入」や「同一化」という概念によって説明される。読者が文章の中で登場人物と一体化し、その感情を共有する瞬間が、読む行為の深みを生む。この過程を理解することで、読むことが情報収集の手段ではなく、自己成長のための行為であることが明らかになる。
最後に、「批判的読解」では、情報を受け取るだけでなく、その信憑性や妥当性を吟味し、新たな視点を構築する能力が求められることが強調される。この段階は、私たちが情報過多の社会において、ただ与えられた情報を受け入れるのではなく、能動的に考え抜く力を鍛えるための基盤となる。
幅広い読者に届ける「気づき」と「変化」
本書のもう一つの大きな魅力は、多様な読者に向けた実践的な洞察を提供している点だ。たとえば、文章の要点を掴むことに苦労する学生にとっては、「表象構築」の箇所が具体的な手がかりとして役立つだろう。ビジネスの現場で迅速な意思決定を求められる社会人には、「批判的読解」が、膨大な情報を取捨選択するための道具となる。そして、物語を深く味わいたい読書家にとっては、「心を動かす読解」が、読む行為の奥深さを新たに気づかせるものとなる。
本書の内容が生き生きと伝わる理由の一つは、豊富な具体例にある。「除夜の鐘を聞いて一年の終わりを思う」という日常的な情景や、「物語の中で苦難に直面する主人公の心情を読み解く」といった場面によって、読む行為が記憶や感情と結びついたものであることを鮮やかに示している。これらの例示は、読者自身の読解プロセスを振り返り、つまずきや克服の手がかりを見つける助けとなる。
本書は、読む行為を「情報処理」から「自己発見」へと昇華させる旅路を示している。読むとは何か、その問いに対する答えを探る道のりを、この一冊が鮮やかに照らしている。
第2部:解説 読むことの地図を描き直す旅
言葉の奥行きと私たちの成長を結ぶ三つの読解力
読解力という言葉には、どこか平板な響きがつきまとう。それは、読むという行為が、文字の表面的な理解や情報処理として扱われがちだからだろうか。本書『読めば分かるは当たり前?』が独特なのは、この平板な概念を解きほぐし、三つの読解力を体系的に再構成したところにある。それぞれの読解力は、単なるスキルから、知識の発展や感情の深化、さらには社会を動かす力に変容させる。
読解力① 表象構築――読むことの基盤を形作る
文章を読むとは、言葉の並びをそのまま受け取るだけの行為ではない。それは、文章の中に潜む意味を頭の中で再現し、全体を一つの絵のように統合する作業である。本書が言う「表象構築」は、この作業を読解の第一段階として位置づける。つまり、文章を正確に理解し、その内容を脳内で視覚的・概念的に再現する力が、この段階の主題になる。
具体的な鍛え方
・知識の活用:文章内の情報を既存の知識と結びつける訓練を行う。未知の単語や概念が出てきた場合、それを周囲の文脈や既知の情報から推測する方法を練習。
・構造の理解:文章の構造(主題、展開、結論)を意識しながら読むことで、内容のつながりを明確に把握する。
・視覚化の促進:具体的な描写や出来事を頭の中でイメージすることで、内容を記憶に定着させる。
表象構築の核心は、既存の知識を活用して新しい情報を理解する能力にある。たとえば、「風が吹くと桶屋が儲かる」という言葉を初めて目にしたとき、その因果関係がわからなくても、文脈や言葉の意味から推測する力が働くだろう。この「推測力」こそが表象構築の鍵であり、本書ではこれを鍛える具体的な方法も提案されている。文章の構造を意識すること、そして記述された内容を頭の中で映像化すること――これらが、読解力の基盤を支える重要なステップになる。
読解力② 心を動かす読解――読むことが心に触れるとき
読む行為が単なる情報処理を超え、私たちの心に深く触れる瞬間がある。本書が提唱する「心を動かす読解」とは、まさにその感情の波を捉え、読む行為を自己成長の手段として再定義するものである。物語を読むとき、登場人物の喜びや悲しみを共有し、現実とは異なる世界に没入する経験が、私たちにとってどれほど重要かを改めて思い起こさせる。
具体的な鍛え方
・移入の強化:物語に没入し、登場人物の視点や感情を追体験する。これは、物語の世界観を現実世界と切り離して考える能力を養う。
・感情の整理:読んだ後、自分が何を感じたのかを言語化し、その理由を分析する。たとえば、「なぜ主人公の行動になぜ感動したのか」を掘り下げる。
・多様な視点の受容:異なる文化や立場の物語を読むことで、自分とは異なる視点や価値観を受け入れる訓練を行う。
たとえば、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を読むとき、単に「内容を理解する」だけでは物足りない。その詩が語る忍耐や共感の精神は、読者の感情に深く働きかけ、読む行為を通じて私たち自身に問うきっかけを与えるのだ。本書では、この「移入」の力を鍛える方法として、読んだ後に自分が何を感じたかを言語化し、分析する重要性を説く。感情的な体験を単なる感動に留めず、それを自己の内面へと統合するプロセス――これが心を動かす読解の真髄である。
読解力③ 批判的読解――情報過多の時代に必要な武器
私たちが日々接する膨大な情報の中には、真実もあれば虚偽もあります。それらを見極め、正しく理解するためには、文章の背景や意図を読み解く「批判的読解」の力が必要となる。本書が読解力の第三段階として示すこの能力は、現代社会においてますますその重要性を増している。
具体的な鍛え方
・背景情報の調査:文章の書き手や意図、時代背景を調べることで、情報の文脈を理解する。
・情報の評価:文章内の主張が妥当であるか、根拠や証拠が十分であるかを判断する訓練を行う。
・多角的な視点の育成:異なる意見や反論を考慮し、それらを踏まえた自分の意見を構築する。
たとえば、ニュース記事やSNS上の情報をそのまま受け取るのではなく、書き手がどのような意図でその内容を伝えようとしているのかを考える。その情報が正しいのか、あるいは特定の偏見や利益が反映されているのかを検証する能力が、批判的読解には求めらることになる。本書では、この力を鍛える方法として、背景情報を調べ、異なる視点を比較し、自分の意見を再構築するプロセスを挙げる。このプロセスを通じて読者は、受動的な情報の消費者ではなく、主体的な思考者へと成長するのだ。
「読む」という行為の核心に迫る
読むこととは、ただ目を文字列に滑らせるだけの行為ではない。それは、思考と感情、記憶が交錯する場であり、世界を“発見し直す”営みそのものだ。『読めば分かるは当たり前?』が提示する三つの読解力は、この営みを解きほぐし、理論的に体系化したものにほかならない。しかし、私たちはその理論を本当に自分のものとし、深めることができるのだろうか。本書は、理論と実践、この両輪を通じて、読むことの「地図」を描き出す。解説では、その地図の歩き方を具体的に示していこう。
実践の核心にあるのは、「止まる」という瞬間だ。この「止まる」瞬間こそ、読むという行為を決定付ける。それはまた、映像や画像といった「見る」と、「読む」の決定的な違いを浮き彫りにするものでもある。私たちが文字を追いながら、一瞬立ち止まる。なぜか。それは、言葉がただの情報として流れ去るのを防ぎ、その意味を咀嚼し、内面へと組み込む知的作業の始まりだからだ。
見ると読むの差異
映像が私たちに与えるのは、“流れる情報”である。それは視覚的で、瞬間的で、受動的だ。たとえば、小説が映画化されるとき、どれほど細やかな内面描写が削ぎ落とされるかを思い出してほしい。時間に制約され、視覚と聴覚に頼る映像は、表現可能な情報の量に限界がある。情報を流れるまま受け取る視聴者には、「止まる」余地がほとんどない。
これに対して、読む行為は根本的に異なる。読むことは、情報をただ受け取るのではなく、それを止めて咀嚼し、自らの中に吸収する作業である。たとえば、登場人物の内面に触れる一文に差し掛かったとき、私たちは自然とその言葉に立ち止まり、感情や経験と照らし合わせて考える。この「止まる」行為があるからこそ、読むことは単なる情報取得にとどまらず、内面的な変化をもたらす。
直接は結びつかないが、ひとつ根拠になりえる仮説を投げよう。心理学者アンダース・エリクソンの研究によると、成長する人としない人の差異は「一回の練習や作業フィードバック…いわゆるチェックポイント(修正しなければいけない点)を多く発見するかどうかで決まる」と発表した。映像など流れる情報は視覚・聴覚の情報を最初から自動的に与えてくれるので、思考処理の負担が少ないというメリットがある。それに比べたら読む作業は映像や音など自らすべて作りだす必要がある。だから、その物語の内容や喚起される音や画が作れないと自然に止めてしまう。しかし、だからこそ、理解(意識)しなければいけないチェックポイントが現れるのだ。「読む」行為は「見る」行為より、必然的に「止まり」「考え」「修正する」という能動的な過程を含む。その一瞬一瞬が、読者に新たな発見と変化を促す。
読むことの「深さ」をめぐって
「見る」と「読む」の違いを振り返れば、その本質的な差異が「止まる」という行為にあることは既に述べた。しかし、「読む」という行為そのものの中にも、さらに細やかな段階が存在する。たとえば、「見る」にも無意識的に風景を眺める場合と、意識的に対象を「観る」場合があるように、読む行為にも「字面読み」と「思考的な読み」という二つの次元があるのだ。
字面読みとは、文字をただ目で追い、文章の表層的な情報を機械的に受け取る行為である。その瞬間、その文章が何を意味するのかを考えることなく、目に入った文字を記号として処理してしまう。私たちが経験する「読み終わったはずなのに、内容が全く頭に残らない」という現象は、まさにこの字面読みの典型例だ。
一方、思考的な読みは、『読めば分かるは当たり前?』で紹介されてるような、読んだ文章を自分の知識や感情、経験や価値観、あるいは論理と結びつけて考える読み方である。このプロセスは、ただ文章を追うだけでなく、場面を想像したり、記述に対して内心で問いを立てたりするような能動的な姿勢が求められる。ここに、読み手の主体性が働くのである。
大切なのは字面読みから
思考的読みを促す練習・実践である。
-補足-
本書は三つの読解力が見どころであり、そのための鍛え方も丁寧に説明されている。しかし、その前段階の「見る(字面読み)→読み(思考的読み)」に至る実践は表象構築の読解と一括りにされている側面もある。解説では主にその0パートの実践に焦点を当てている。
字面読みから思考的読みへ
「読解力を鍛える」必要性が最も明確に求められるのは、学校教育や予備校の現場だ。これらの場で行われる読解訓練は、それを育むための重要な機会を提供する一方で、「読む力」よりも「解法」に重点が置かれていたり、その違いが明確に整理されていない傾向がある。その点を踏まえて読解力の学習・訓練について確認していこう。
教育現場で行われる読解力の鍛え方は主に
以下の三つの方法だ。
① 基本的な日本語のルールの理解
語彙の他に接続詞や助詞の役割を把握し、それらが文章全体の論理をどう構築しているのかを明確にする。たとえば、「しかし」や「だから」のような接続詞が、文章の論旨の展開を示す指標となる。
② 文章構造の型を理解する
「具体と抽象」「原因と結果」といった定型的な文章構造を把握し、筆者の意図を素早く掴む練習をする。
③ 要約
文章の主題や論旨を短い言葉でまとめる能力を養うことで、全体像を正確に理解する。
上記の三つの訓練は極めて大切である。自分の実力を確認して、適切な参考書で勉強していくと読解力は自然と身に付く。しかし、これらは本論の主張にとって直接的な解答や訓練法とは言い難い。そこで、字面読みから思考的読みの実践としておススメしたいのが『新現代文レベル別問題集』の序章である。
『新・現代文レベル別問題集』序章が示す読解の本質
こちらの序章は、まさに「字面読み」と「思考的な読み」
の違いを自覚することの重要性を説いている。
冒頭で示されるのは、次の問いだ。
「君は文章の意味を理解しながら読んでいるか?」
一見、平凡で当たり前に聞こえるこの問いが、実は私たちの「読む」という行為に潜む無意識を鋭く突いている。文章をただ字面だけで追い、内容を理解しないまま読み流してしまう――。そんな「字面読み」が、実際には多くの人々にとって当たり前の読み方になっているのだと指摘する。
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もう少し具体的に説明しよう。アイトラッキング(眼球運動)研究によれば、視線が一定の速度で流れる「字面読み」の人は、文章を表層的にしか理解できていない。逆に、速読と精読を交互に行い、眼球の動きが不規則になる「思考的な読み」をする人ほど、文章の内容を深く把握しているという結果が示されている。当然のことだが、同じ文章を読んでも、その読み方次第で理解の深さは大きく異なる。
では、自分がどちらの読み方をしているのか、どうすれば確認できるのだろうか。そこで登場するのが、序章に含まれる「間違い探し」の実践問題である。この問題は、字面読みかどうかを確かめるのに、打って付けの問題だと言える。たとえば、次のような問題を一度考えてみてほしい。
【問題】
次の文章中に一か所故意に誤記された箇所がある。その部分を下の例に従って本文中から抜き出し、正しく書き換えなさい。
例)と思っている→と思っていない
ーーーーー
言葉でリンゴといえば、それはリンゴだけをさし示しますが、画面のリンゴは避けようもなく、それを載せた皿やテーブル、背後にある壁紙の色までも伝えてしまいます。視聴覚イメージは言葉にくらべると、対象の輪郭を区切りとって、それを矢印によってさし示す機能が弱いのです。抽象的な観念を示す力が弱いのはもちろんのこと、たとえば、あるものがそこに「ない」という状態を人に注意させることは、ほとんど不可能です。
言葉は、一箇の特定のリンゴがそこにないことを表すことができませんが、画像はただ不特定の空虚、なにもない空間を示すことしかできないからです。
※正解はこちらの記事のコメント欄に書きます。
解答するためには、文章全体の文脈と論理を丁寧に追い、その意味を深く理解することが求められる。この練習は、解法テクニックの習得ではない。それを超えて、文章の奥行きを掴み取る「読む力」を鍛えるためのものなのだ。
もちろん、この問題自体はさほど難しいものではない。正解できる人も多いだろう。しかし、重要なのは、正解することではない。同じ文章を読んでいても、人によって見えている内容がまったく異なるという事実。自分が何を考え、何を感じながら読んでいるのか――その過程をどれだけ意識できるか。そこに「思考的な読み」の第一歩がある。
批判的読解について
これまでの解説で示してきた具体的な読解力の訓練は、本書でいう「表象構築」に該当する。言い換えれば、読解の基礎に位置づけられる部分だ。学校教育や受験指導で行われる訓練も、あくまでこの基礎を育むものである。その意義を否定するものではないが、読解力の真髄はさらに深いところにある。本書が論じる「心を動かす読解」については、批評パートで触れるとして、ここでは「批判的読解」に焦点を当てておきたい。
とはいえ、批判的読解に関する本書の記述には、一定の限界が感じられる。批判的読解とは、文章を超えた背景や意図を見抜き、情報の妥当性や信憑性を吟味する高度な作業である。この訓練に精読技術は欠かせないが、それを実際にどう鍛えるかとなると、やはり本書だけでは物足りなさを覚える。だが、それも当然と言うべきかもしれない。本来、批判的読解は学問的な訓練を要する領域であり、大学や専門機関で本格的に学ぶのが一般的である。本書がそのすべてを網羅するのは、無理な注文だと言えるだろう。
では、批判的読解に関心を持つ人が、その方法を深く学ぶにはどうすればよいのか。専門機関に属していない人は『独学の思考法』を薦めたい。
この本は、精読という言葉を初めて聞くような人でも、具体的なプロセスを追うことで実際に精読を行えるようになる優れた指南書だ。その手法は的確で、丁寧で、批判的読解の基盤を築くには最適である。本稿では、この本の詳細な解説を控えるが、いずれ別の機会にその価値を掘り下げてみたいと思う。それまでに興味があれば、ぜひ一読し、感想を共有してほしい。
また、ここで取り上げた参考書や、その他の読解に関する疑問があれば、気軽に相談してほしい。可能な範囲で、誠意をもって応えるつもりでいる。読解力を深める道は長いが、その旅路は必ず新たな発見をもたらしてくれるはずだ。
読解の本質――思考的な読みが生む力
さて、本題に戻ろう。
字面読みから思考的な読みへと移行する。この過程で最も大切なのは、読むという行為を単なる情報処理の手段やノウハウとしてではなく、自己の内面を耕す営みとして捉える視点であろう。『新・現代文レベル別問題集』は、この移行のための指針を見事に体現している一冊だ。「意味を理解するとはどういうことか」という問いに真正面から向き合い、読むことの喜びを私たちに教えてくれる。
字面読みから脱却し、思考的な読みへと至る道のりは、決して平坦ではない。逆に、それを無自覚にできる人もいるだろう。だが、自覚的に進むことでこそ、読むことの本当の意味が見えてくる。その瞬間、読むという営みが、新たな意識のもとでようやく始まるのだ。この本は、そんな新しい一歩を踏み出そうとする者たちのための確かな道しるべとなる。
また、わたしの解説は、本書の内容を教育現場の話題へと大きく挿げ替えている。実際に手に取り、読んでみると、本書の明快な文章と論理、そして視覚的に整理された図式によって、読者はさらに読解力に対する理解を深めるだろう。
だが、読解力というものに関心を持つ者がいるならば、ぜひ『読めばわかるは当たり前?』を手に取り、理解の範疇にとどめず、実践の領域まで踏み込んでほしい。本書は単なる指南書ではない。それを超え、「生きる力」を育むための鍵を確かに握っている。読むことが、世界と自己を結びつける行為である以上、この本が果たす役割は計り知れない。読解という行為の真髄に触れたい者には、これ以上の出発点はあるまい。
第3部:批評 国語と社会の中心を目指して
言葉の多層性――読解力と文化的自覚の新たな地平
これまで、本書が読解力を体系化することで提示した内容と、それを実践に落とし込む具体的な方向性を確認してきた。言い換えれば、「読解力を高めるための地図」を手に入れることに成功したわけである。そして、その地図が示す構造的な連関は、単なる技術に留まらない。読む対象を内面と結びつけ、自分自身を変容させる力である。この地図の使い方、すなわち目的地への歩き方についてこれまで論じてきた。
では、ここからどこへ向かうべきだろうか。本稿が最終的に問いかけるのは、読解力そのものの可能性の拡張、さらには言葉という存在の本質的な役割である。読解力を超えた「国語」の意味を考えることこそ、現代における文化的自覚を再構築する鍵となるのではないだろうか。
言い換えれば、この批評は、地図を手に入れた者たちへの問いかけである。地図は目的地へ向かうために使うものだが、その目的地がどこであるのかを決めるのは、他でもない私たち自身である。そして、その目的地に向かう過程で、言葉がどのように内面や社会に働きかけ、新たな文化的意識を形成するか――これが本稿の核心にある問いなのだ。
それでは、現在地から出発しよう。
現在の国語教育――その意義と限界
現在の国語教育とは
概ね以下のような方針が立てられている。
2022年度より高等学校で施行された学習指導要領では、国語科における科 目の編成替えが行われ、必修科目として「現代の国語」と「言語文化」が、また選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」が設置されている。 そしていわゆる「進学校」をはじめとする多くの高等学校では、全体の単位数や大学受験科目との関係から、多くの生徒が履修する選択科目として「論理国語」と「古典探究」という組み合わせが優先され、結果として例えば私立文系を志望する一部の生徒を除き「文学国語」を 履修する機会がなくなりつつある現状がある。
2022年度の学習指導要領の変更は、国語教育において一つの転換点を示した。科目の区分は「現代文」と「古典」という時代的区分から、「論理国語」と「古典探究」といった内容的区分へと移行したのだ。この変更は、一見合理的なように思える。しかし、「文学国語」の履修機会が縮小する現状を考えれば、それが抱える危うさに気づかざるを得ない。
つまり、文学を論理(“論理”国語)と対置させることで、非論理的なものとして矮小化され、大学受験の制度的な影響を受ける中で、文学は次第に軽視される対象になりつつある。その結果、「文学=娯楽」といった観念が助長され、文学に内包される文化的・感情的な価値や、読解的な意義を見過ごしてしまう危険性が生じている。
文学を読むとは、単なる感動を求める行為や娯楽ではない。それは、自己の内面を掘り下げることであり、他者や異文化への共感を育む営みである。この読解は、消費的に流れる情報をそのまま受け取るような行為とは異なる。それは、自らの経験や人生と結びつける、能動的な「血肉化」のプロセスなのだ。
現行の教育カリキュラムが、論理的文章を正確に理解する「表象構築」の基礎に重点を置いていることには、確かに一定の意義があるだろう。しかし、その方針に偏ることで、読解という行為の多層的な意義が失われる危険があるのではないか。本稿が問うのは、まずこの現在地についてである。
言葉を超える言葉――文学的読解の力
話を整理しよう。
現在の国語教育は、「読解力=表象構築的読解」という図式に画一化されつつある。その結果、読解という行為の本質が見失われる危険性を孕んでいる。「読解とは何か?」「文章を読むとはどういうことか?」この問いに対する答えが、次第に狭められている現状を見過ごしてはならない。読解の多層性を認識せず、表象構築だけを重視する教育方針は、「心を動かす読解」の意義を薄れさせ、最終的には「批判的読解」の基盤をも揺るがすことになりかねない。
では、従来の国語教育へ戻れば解決するのだろうか。
―そうは思わない。
従来の国語教育においては、そもそも読解力を鍛えるという意識が曖昧であり、それ自体が問題を孕んでいた。論理国語という科目分けが生まれた背景には、この曖昧さへの対処があったことを見逃してはならない。実際、教育現場でも「現代文はなにをすればいいかわからない」という相談があまりにも多い。本書が示す「読解力」の構造を明快にすることは、教育にとって極めて重要な視点である。では、どうすればいいのか。
従来:読解力がなにか分からない
現在:読解力の多層性が見失う可能性がある
提案:読解力の体系化を教育・学習に組み込む
読解力を「体系知」として捉え、教育や指導の中に組み込むことが急務である。この考えに至るのは、現代の教育現場や試験制度が、読解力の多層性を軽視し、「表象構築」偏重に陥っている現実が明らかだからだ。たとえば、日本の国語試験は依然としてマークシート形式や選択問題を中心としており、「表象構築」を試すことに特化している。学校の定期テストでも、小論文形式の出題は例外的である。このような環境では、学生たちは文章や情報を「正確に」読み取る技術を学ぶ一方で、独自の視点や感受性を育む機会は失われていると言える。
この問題は根深い。なぜなら、問題は「文学探究」という選択肢が存在しないことではない。それは用意されている。しかし、その選択肢を選ばせない仕組みが、巧妙に働いているのだ。自由主義の名の下に隠されたこの誘導こそが、受験制度の大きな問題ではないだろうか。
たとえば、総合型選抜(旧AO入試)は、個別性や創造性を重視する制度として注目されている。しかし、その実態はどうだろう。形式的には選択肢が拡大されたかに見えるが、実際にはこの制度に対応する教育が、個別指導や自主的な努力に依存している。授業や学校のカリキュラムの中で、十分な指導が行われていない。それは、「総合型」という名前に反して、教育現場が制度の目的に追いついていない証拠と言えるのではないか。(無論、これは教員個人の責任ではない。)
-論理国語の概要-
・実社会において必要になる、論理的に書いたり批判的に読んだりする力の育成を重視した科目
・社会的な話題に関する論説文や資料を読み、自分の考えを論述したり討論したりする
・複数の文章を読み比べて論じる
さらに言えば、総合型選抜における小論文の指導も、型にハマった解法に重きを置く傾向が強い。テスト形式の変更によって、複数の資料を読み取り、情報を整理する「表象構築」+「批判的読解(論理)」を求める傾向はある程度見られる。しかし、そこに独自の解釈や課題(argument)を持ち込む「批判的読解(創造)」の技術を鍛える余地はほとんどない。この状況を考えると、「論理国語」という科目が本来意図した範囲(上記の太字)もまた、教育や受験制度の中で限界を示していることがわかる。
どちらにしても「心を動かす読解」を取り除く偏重は、近年の共通テストでも顕著である。英語や数学、社会科目を問わず、求められるのは増加する文字数や資料の比較など情報を処理する能力である。それらは確かに、現代社会で生きるための重要な力ではある。だが、それとは異なる感受性や自己の内面を結びつける読解は、ますますかけ離れていく。
評価=客観の仕組み
なぜ、「心を動かす読解」は軽視され、受験制度が「表象構築」に偏るのだろうか。その理由は、端的に言えば「客観的な評価」が求められるからだ。公平な評価基準を設けるためには、解答が一つに定まる問題が最も適している。この要請が、受験制度の設計そのものに深く根付いている。
客観性を重視することは、平等な社会を目指す上で欠かせない視点である。受験に競争が伴う以上、受験生同士を比較し、成績を判断する基準が必要になるからだ。したがって、どの受験形式であれ「評価が明確に定まる」構造が求められる。たとえば、総合型選抜(旧AO入試)であっても、評価基準の統一は避けられない。それは、評価の公平性を保つために必要不可欠な条件であり、現行制度を正当化する強力な根拠ともなる。
客観性の基準を持つということは、主観性を排除することを意味する。実際、現代文の参考書には、まず最初に「自分の主観で判断してはいけません」という解法が記されている。この指導方針が示す通り、主観的な読みや解釈を評価に含めることは、コストの増加や公平性の問題を招きやすく、現実的な選択肢から排除されるのだ。
客観性を優先した設計は、読解力の基礎である「表象構築」に特化した訓練を促す。これは受験生にとって、情報を正確に読み取り、論理的に整えた解答を作成する力を鍛える意味では有用だ。しかし、その一方で、「心を動かす読解」や「批判的読解」のような多層的な読解力を軽視する結果を生んでいる。読解の多層性を包含する教育への道筋を模索するためには、この客観性偏重の社会そのものを見直す必要もあるだろう。歴史的背景を踏まえるならデカルト由来の〈主観—客観〉の二分法と向き合うことになる…
こうした構造が、教育現場においても多層的な読解力を鍛えるための授業形式を阻む壁となっている。客観性を優先した設計は、読解力の基礎である「表象構築」に特化した訓練を促す。それは、情報を正確に読み取り、論理的に整えた解答を作成する力を鍛える上では有用だ。だが、その一方で、「心を動かす読解」や「批判的読解」といった、多層的な読解力を軽視する結果を生む。このような状況に対処するには、読解の多層性を包摂する教育への道筋を模索する必要があるだろう。そして、そのためには、客観性偏重の社会そのものを見直さなければならない。歴史的背景を踏まえるなら、この問題はデカルト由来の〈主観—客観〉という二分法と向き合う事態なのだ。
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つまり、「心を動かす読解」の軽視は、単なる個人的な意識の問題に留まらない。それは現行の政治体制や日本だけに特有の問題でもない。もっと根深い、歴史的・社会的な課題がそこに横たわっていると言える。踏み込むなら歴史・社会を作り変える実践が必要になる。
主観の回復について――読解力の多層性を取り戻すために
つまり、私たちは「主観の回復」という課題と向き合わなければならない。主体の回復とは根本的に異なる、それは情報をただ正確に理解するだけでは終わらず、それを血肉化し、自己の視点や経験に結びつける能力を取り戻す試みである。
本書が示す読解力の本質は、その多層的な構造にある。すなわち、【表象構築↔心を動かす↔批判】の三構造が相互に連関し、補完的な関係を成している。この連関によって、読解力は単なる情報処理の技術に留まらず、感情や価値観を揺さぶり、新たな視点を生み出す力へと深化するのだ。しかし、現代の教育現場や社会において、この連関は次第に情報処理中心の【表象構築↔批判的読解】という方向に傾き「心を動かす読解」が抜け落ちつつある。また、批判的読解を磨く実践も、理念に反して、新しい視点を生み出す実践ではなく、異なる見解を検討する情報処理に留まっている。
「表象構築」と「批判的読解」の連携が、情報を正確に処理し、その妥当性を吟味する能力を高めるのは確かである。たとえば、フェイクニュースを見抜く力や情報の信憑性を評価する能力は、現代社会において喫緊の課題であり、その価値を否定することはできない。しかし、この連携が「心を動かす読解」の不在を補えるかと問えば、それは違うと言わざるを得ない。この点は十分に理解されるべきだろう。
「心を動かす読解」の本質は、単に感動を得ることではない。それは、読者の内面に変化をもたらし、感情や価値観を揺さぶる力を持つ。この段階を経ることで、読解は受動的な情報処理から能動的な解釈の営みへと変貌する。つまり、思考や情報を“自分事”として引き受ける営みと言えるだろう。
もし、この“自分事”が失われれば、情報を正確に読み取り、その妥当性を検討する能力こそ養われるかもしれないが、自己の内面を深めたり、他者への共感を育む力は衰えてしまうだろう。教育現場が「心を動かす読解」を軽視し、「表象構築」に偏ることで、読解が情報処理の技術としてのみ認識されるようになれば、いったいその技術を使う意義はどこにあるのか。それが受動的な目的に終始するならば、読解する営みは「代替可能な営み」であり、単なる効率追求へと堕する危険を孕んでいる。
(実際、chatGPTで大抵の文章は読解力を鍛えなくても読めるのだ)
だからこそ、【表象構築↔心を動かす↔批判】という連関を維持することが、読解力を人間的な営みに昇華させる鍵となる。この連関をどのように教育や社会に位置づけるべきか――これこそ、本稿が抱える中核的な課題である。
もっとも、現実的な話をすれば、「読解力の多層性をすべての教育現場に取り入れ、学習者全員がこれを身につけることを目指す」のは理想である。その実現には時間と努力を要するだろう。それを直ちに現実の問題として糾弾することは、かえって社会全体にネガティブな印象を与えかねない。
ここで本当に問題視すべきは、合理化の大号令の下で【読解力=情報処理技術】として画一化されているという事実だ。なぜなら、この画一化は、他の読解を高める意義を根本的に見失わせるだけでなく、そもそもそれを教育の場で問う意識すら奪いかねないからである。教育が問いを忘れれば、やがて社会全体が問いを忘れる。それを防ぐには、〈主観—客観〉の二分法を乗り越える理論や歴史を変える実践を突き進めながら、読解力の多層性――忘れさせないためにも「主観の回復」を訴え続ける必要があるのだ。
変化しないことよりも、
変化の余白を失うことの方が、
遥かに深刻な問題なのである。
現代における消費的読解の問題――読む行為の意味の喪失
「心を動かす読解」が失われるとき、読む行為は単なる情報処理の技術へと堕する。問題は明らかだ。読解が効率的な行為として切り詰められることで、言葉の深みや内面的な響きが排除される。それは、読むという行為が自己を変化させ、他者を理解する契機ではなく、一過性の情報収集に過ぎなくなることを意味している。
SNSやニュース記事、テレビの情報、さらには友人との会話に至るまで。読む者は情報を理解するためだけに文字を追い、意味を取り終えた途端、その痕跡を手放してしまう。ここに「見る」と「読む」の違いが浮かび上がる。「心を動かす読解」が失われた現代では、効率を最優先する仕組みに支配され、読み手は自己の感情や価値観を文章や情報と重ね合わせる機会を奪われている。
こうして、読者自身の内面に働きかける力は失われ、読む行為は単なる快・不快や一過性の情動に留まる。娯楽以上の価値を生まない読解は、読者に何も残さない。そしてその結果、読む行為は受動的な消費へと転落し、読者は文章の深い意味や背景を汲み取ることなく、次々と新しい情報へと手を伸ばしていく。一過性の消費的読解がもたらすのは、感動や価値観の変化ではなく、表層的な知識の処理に過ぎない。
ここで改めて問わなければならない。「心を動かす読解」が欠けた読解力は、本当に現代の力と呼べるのだろうか。読む行為が情報処理だけに終始するなら、それは記号を理解してるのであり、言葉自体に背を向けた営みである。また、AIの最先端技術も踏まえるなら、どこまで重要視できるのか懐疑的である。読解が生きる営みとして成り立つには、効率ではなく深み、処理ではなく問いかけが必要だ。
「読む」とは、目の前の言葉を通じて自己の内面に働きかけ、他者や世界との新たな関係性を築く行為である。この本質を見失うことこそ、現代の読解環境における最大の問題である。読む行為を再び「止まる」ものとして取り戻すこと。読んだことで自身の内面に「残す」こと。それは、消費的読解に陥った現代社会が再び言葉の力を見出すための第一歩である。言い換えれば、AI技術を踏まえるなら、読解=情報処理能力と認識している場合、「読解不要」がある程度、合理的な判断になる。
繰り返すが、「心を動かす読解」の力を再認識し、その重要性を教育や社会の中で位置づけ直すべきだ。この問いに答えること、社会を変えることが、読む行為を再び生きる営みへと昇華させる道筋となるだろう。
『国語の本質』の内容と意義
「心を動かす読解」の力を再認識し、
その重要性を教育や社会の中で位置づけ直すべきだ。
この言葉は、読解力の再定義の核心を突いている。本書『読めば分かるは当たり前?』が示したのは、情報処理に留まらない読解の多層的な可能性であり、それが人間的成長を支えるという新たな視座であった。しかし、この再定義が単なる個人の技術に止まるならば、社会の偏り――近代以降の客観性の偏重や現代の消費的読解――は解消されないだろう。では、読む行為が「個人を超える力」を持つとすれば、その力とは一体何なのだろうか。
掘り下げて考えてみよう。昨年、山田孝雄が著した『国語の本質』という書物がある。この本が提起する視点は、現代の国語教育が抱える問題を考える上で極めて重要だ。山田が示したのは、国語を単なる情報伝達の道具として扱うのではなく、それを日本の文化的・歴史的記憶の「器」として捉える必要性である。この視座は、現代教育が見落としがちな言葉の本質を捉え直す契機を含んでいる。
たとえば、『読めば分かるは当たり前?』が「読解力の多層性」を浮き彫りにしたとすれば、『国語の本質』が描くのは「国語の多層性」そのものだ。言葉には、歴史的な背景や共同体との結びつきがあり、さらには感情や価値観を共有する力がある。これらは、国語の中核に据えられるべきものであり、山田はこれを明確に指摘している。これらを見失えば、読解は単なる技術に成り下がり、文章を深く理解するという行為そのものが空虚なものになってしまうのだ。
山田が例に挙げる「春雨が降らない」という表現を考えてみよう。この一文には、単なる否定的な情報を超えた、情緒や期待感が込められている。そこに宿るのは、日本人の文化的な記憶であり、共同体の感覚である。こうした視点に立つと、読解力とは単に文章の意味を理解する技術ではない。それは、言葉の奥行きに分け入り、その深みを掘り下げることによって初めて成立するものなのだ。そしてさらに踏み込むなら、読解とは日本人としてのアイデンティティを呼び覚ます行為でもあると言える。
情報処理の技術を超えたもの、すなわち自らの内面と国語という文化の記憶が響き合う交錯によって、読解力は個人を超える意味を獲得するのではないだろうか。大げさに言えば、この問いを考えることが、今日の国語教育における最大の可能性であり、その答えが未来の教育を方向付けるのだ。
国語の本質――合理性を超えた「時間の産物」
現代社会――本稿の議論に基づくなら、近代以降の社会――は、合理性と効率性を何よりも尊ぶ時代だ。その影響は教育や文化にも及び、言葉というものもまた、その例外ではない。しかし、山田孝雄の『国語の本質』が教えてくれるのは、言葉が合理性では測り得ない「時間の産物」であるという事実である。言葉は単に情報を伝える手段ではない。それは、歴史や感情を内包し、文化の記憶を刻み込んだ表現の器である。
これを思うと、言葉を単なる情報処理の道具として扱うことがいかに危険かが鮮明に分かる。言葉の深みや本質を見失えば、そこには単調な記号のやり取りしか残らない。そして、その危機は既に目に見える形で現れている。たとえば、国語改良論や漢字廃止論といった動きがそうだ。また、国語の範囲を超えた、消費的読解の動向もその一例と言える。それらの動きは、言葉を単純化し、効率化しようとする。しかし、こうした試みは文化的な深みを削ぎ落とす恐れをはらんでいる。
漢字を考えてみよう。漢字には、多義性や語感、訓読みを通じて生まれる独特の表現力が宿っている。これらは、言葉が「国語」であることの根幹を支えているものだ。もし、言葉が効率化の名のもとに単純化されれば、この豊かさは失われてしまうだろう。合理性に基づく改革は、必ずしも進歩を意味しない。それは、文化を犠牲にする選択でもあるのだ。
言葉が「時間の産物」であるとは、つまり、言葉が歴史や文化の積み重ねで形作られたものだということである。それを忘れれば、言葉はその意味を失い、道具へと貶められてしまうだろう。言葉を取り戻すこと――それは、文化の記憶を守り続ける歴史的実践でもあるのだ。
「心を動かす読解」から始まる改革――個人と共同体が紡ぐ新たな国語教育
本書の地図を手に入れることで、「心を動かす読解」が失われる現代の教育制度の問題に気づくことができた。合理主義と効率性を重んじる近代以降の社会的価値観――その影響を受けた教育制度は、情報処理能力の育成を最優先とする方針を打ち立てた。この価値観を問い直すには、教育制度単独の改革だけでは不十分である。社会全体の価値観や文化的背景を再考する必要がある。
ここで、山田孝雄の『国語の本質』に目を向けるべきだろう。山田は、国語とは単なる情報伝達の道具ではなく、共同体の文化的記憶を呼び起こす「器」であると説いた。この視点が示唆するのは、共同体の記憶――つまり個人の内面と歴史の交錯点――を再発見する重要性である。国語の実践は、個々人を歴史や共同体と結びつける力を持つ。
この実践が自覚的に行われるとき、歴史は単なる外在的な過去としてではなく、個人に内在化される。こうして呼び起こされた文化的記憶は、現在の社会的課題に応じて再解釈される可能性を秘めている。現実的には今すぐ、現行の国語教育制度を即座に変えることは難しい。しかし、制度外での国語の実践――たとえば、共に言葉を紡ぎ、共有する読書活動――が進めば、教育の受け手たちは社会の現状に気づき、新たな問題提起や現行制度とは異なる読解文化の創出に向かうだろう。
その影響は徐々に広がり、社会全体の価値観の変化を促す。そして最終的には、教育制度そのものの再構築に至る可能性を開くだろう。教育制度の変革には、社会全体の価値観を根底から見直すことが求められる。その起点となるのが、言葉が持つ「個人を超える力」――国語の実践そのものである。
新しい読解の地平――読解力と文化的自覚の融合
これまで批評の中で語ってきたのは、読解力の訓練とその意義についてだった。それが国語教育にどのような影響を与え、変化を促すかを考えた。だが、ここにもう一歩踏み込んでみたい。「読解力」という個別の技能を超えて、そもそも「国語」とは何かという問いを立て直すなら、そこに新たな地平を見据えたとき、読解力の持つ可能性がより明確に浮かび上がる。
読解力は単なる情報処理の技術ではない。それはむしろ、「文化の再発見」としての力を内包している。読解がもたらすものは、自己と共同体の形成であり、それは単なる技能訓練を超えた次元に存在する。たとえば、「心を動かす読解」を思い出してみよう。これは、単なる感情の揺れではない。それは、言葉を読む過程で「立ち止まり」、その意味や背景を探ることで、自身の体験や感覚と結びつくプロセスを指している。この「止まる」という行為こそ、自己修正の場となる瞬間だ。
修正とは、過去の自分の理解に向き合い、新たな視点を得ることに他ならない。それを繰り返すことで、読解は技術ではなく、文化的自覚を育てる営みとなる。文化とは他者との共有の中で成り立つものだ。その意味で、読むことは文化や共同体を逆説的に再構築する営みなのだ。
私たちは、読むという行為が持つ力をもっと深く理解する必要がある。それは、言葉の表層をなぞるだけでなく、その背後にある世界を探り、そこに自分自身を位置づける作業である。そして、その作業を通じて、人間は他者と結びつき、新たな共同体をつくる。読む行為が単なる情報処理から解き放たれ、「文化の再発見」となるとき、そこに新たなの読解力が現れるのではないだろうか。
批評を通して描く社会――個人的な吐露
最後に、私の
これからの考えと実践を述べておきたい。
読むという行為には、人を変える力が秘められている。それは、自らを揺るがす余白を持ちながら、その内に揺るがない軸を育む営みだ。しかし、変化を求めすぎれば、終わりのない追走に疲弊する。一方で、変わらないことに執着すれば、人生は息苦しいものとなり、他者とも世界とも隔絶された孤独なものに陥る。それでは、読むことの意味はどこにあるのか。
ここまでの文章を読んで、「読むとは状況に応じてバランスを取る作業に過ぎない」「状況を見て読解を使い分ける」「中庸が大切」と結論づける人もいるかもしれない。だが、それではここで語ってきた問いは、すべて「知っていること」をなぞるに終わる。読む行為が内面を揺るがす力を持つことも、人間や共同体の豊かさを生み出す力であることも見失うだろう。なぜなら、現在の社会を確認すれば「読む」という営みは単なる情報の消費へと堕落していくに違いないからだ。
「読解」を軽視する風潮は、すでに危機の兆しを見せている。日本はかつて、この危機に応えようと「読解力」という言葉を掲げた。だが、その実態はどうだろうか。本書が示した「読む」力の多層性――表象構築、心を動かす読解、批判的読解――これらは、ひっそりと画一化され、見過ごされていくように思える。それを「見て」済ませてはならない。「共に読もう」と呼びかける必要がある。それこそ、本稿で到達した教育制度外の国語実践である。
読むことの意味を問い直し、言葉の力を取り戻す。
それは、教育者が人文学に向き合う
ひとつの在り方ではないだろうか。
共に読もう――これからの危機
国語の実践――制度外の実践の原点は、「共に読むこと」だと考える。同じテクストを読み、共有すること。それは単なる個人の読書ではない。共同体の記憶を呼び起こし、その中で新たな価値観や文化を形成する営みなのだ。たとえば、聖書を読むことで生まれた共同体が、歴史や価値観の形成に与えた影響を思い浮かべてほしい。それは近代以前だから成立したものだろうか。そうではない。現代においても、一つの作品を「共に読む」ことで価値観を共有し、文化を再構築することは十分可能だ。
では、なぜ今、「共に読む」という営みが重要なのか。それは、「読む」という行為が社会の中で孤立しつつあるからだ。読むこと自体は禁じられていない。むしろ、書店や図書館、デジタル書籍など、言葉に触れる手段は無数にある。それでも、多くの人々が「読む」という選択をしなくなっている。選択肢は豊富だが、合理性や効率性を重視する習慣が、読む行為そのものを自然と避けさせているのだ。
――ここに“も”、自由の名のもとで
見過ごされる危機が潜んでいる。
たとえば、書店を訪れると、話題の小説やビジネス書が目立つ場所に並び、選択肢に事欠かない。しかし、多くの人は「効率的で役立つ」一冊を探し求め、文学や批評書に手を伸ばさない。それは、文学が「非生産的」と見なされ、時間の浪費とされる風潮の中で、合理的でない選択肢として排除されているからだ。同様に、SNSやニュースの速読、要約が重視される社会では、深く「読む」という行為が次第に排除されている。読むことが情報処理技術に押し込められ、そこから溢れるものは「無用」とされてしまうのだ。読み手は孤立し、縮小していく現実の一端を物語っている。
共に読もう――読解のプロはどこにいる?
今、「読む」という行為に真摯に向き合うプロフェッショナルは、多くの場合、人文学の世界に身を置いている。そして、「読む」という営みが蔑ろにされる中、人文学自体が社会の中心から周縁へと押しやられていく――いや、既に押しやられているのだ。そして現在の教育方針は、その周縁化をさらに推し進めようとしている。
千葉雅也が『勉強の哲学』で語ったように、読書(勉強)の営みは「ノリが合わない=変容する」ものとして社会のテンポやリズムから距離を取る性質を持つ。「読む」という行為そのものが、現代の文化の速度や効率性に背を向け、異質なものとして浮かび上がる。大胆に言い換えれば、「読み」とは、大きな世界(社会)から小さな世界(人文界隈)へと移行するためのパスポートであるとも言えよう。
読むという技術は、人類が長い歴史の中で培ってきた貴重な営みの一つだ。それは完全に消え去ることのない技術である。しかし、もし社会が読む行為を単なる「情報処理技術」として狭く定義し、それ以外の読みを「少数派の営み」として周縁に追いやるならば、何が起きるだろうか。読む行為そのものが不要であり、消費的な選択肢の一部へと統一化される危険性があるのではないか。
読むことを追求する。それは、今日では人文学の専門家たちにとって、狭い社会へ閉じこもる行為を意味している。国の教育方針に従えば、多層的な読解を磨く努力は大学や研究機関という専門領域に限定され、一般社会から切り離された「無用な技術」と見なされる。そしてその結果、「文学を研究して何の役に立つのか」という冷たい視線に晒されることになるだろう。いや、既にそうなっている。
この批評を通じて、私が気付いたこと。
「心を動かす読解」と「批判的読解」という二つの読解力が、ある意味で反社会的な技術と見なされる可能性があるということだ。読むという行為が社会から切り離され、孤立し、無関係なものとされる現状に、沈黙していてよいのだろうか。それは、読むという行為が持つ本来的な意義を再び問い直し、社会に響かせる責任があるのではないだろうか。
読むことの力を知り、その意義を再確認した者たちは、読むという行為が忘却され、軽視されていくことに対して沈黙するべきではない。それこそが、気づいた者たちの責任ではないだろうか。
共に読もう――これからの実践
この危機は、安易に現在の政治や教育制度に結びつけるべきではない。この原因は読む行為そのものが曖昧なまま軽視されてきた歴史に根ざしているからだ。たとえば、「文学を読む意味は何か」と問われたとき、私たちはどう答えるだろうか。「感動するから」といった曖昧な返答で済ませてきたのではないか。その曖昧さこそが、読む行為を合理的な選択肢の外側へ追いやり、その価値を縮減してきた。
しかし、本書が示す「読解力の地図」を手がかりにすれば、読む行為の多層性を明確にし、不透明だった読むことの価値を具体的に示すことができる。さらに、山田孝雄の主張を援用すれば、読む行為を単なる個人の技術ではなく、社会的な営みとして再定義する可能性が見えてくる。それは、読解力を文化や共同体の基盤として捉え直す試みと言えるだろう。
ゆえに、読むという行為を社会に溶け込ませる方法を模索する必要がある。そのヒントとなるのが、「制度外の国語」という理念・実践である。たとえば、読書会や鑑賞会といった「共に読む」場を作り、同じ本を通じて多様な読解を共有する営み。こうした場は、読むことを孤立した個人の作業から、共同体の中で文化を育む営みへと変えていく。
まさに、共に変化し、
共有する瞬間を創造していこう。
たとえば、宇野常寛の主張に反するが、個人を意識させない「庭」を築く挑戦も考えられる。また、三宅香帆の『好きを言語化する技術』が提唱するように、自分の感動や解釈を言葉にし、それを他者と共有する書評・批評文化を育むことも一つの道だろう。他にも多層的な読解を根付かせる価値ある周縁の営みは様々あると考える。
重要なのは、読むという営みを孤立した個人の活動や小さな世界のためだけに扱うのではなく、もっと大きな社会の中に溶け込ませることである。それは単に読む力を鍛えるだけでなく、読む行為を通じて人と人を繋ぎ、自己と歴史を繋ぐ、文化的な営みだ。この試みこそ、現代社会が失いつつある「読む力」を取り戻す道筋ではないだろうか。
私自身もまた、他者の力を借りながら、この「読む」文化を広げていく活動を続けたいと思っている。それは一人の力で成し遂げられるものではない。多くの人々と共に読むことで、教育制度から離れた「国語の実践」を突き進め、言葉の可能性を再発見し、それを今の世代、そして次の世代へと伝える文化を作り上げていきたいと願う。
もし、この批評を読んだ誰かが、「読む」ことに情熱を持ち、それを共有する意志を抱くならば。教育の現場でも、文化活動の場でも、あるいはそれらを掛け合わせるかたちで――共にこの道を歩む仲間となることを願っている。
それが、この批評を締めくくる私の思いである。
あとがき――結局、読むとは。
読むとは、何だろうか。言葉を追い、情報を得ることか。それとも、知識を蓄え、効率よく物事を理解する技術か。しかし、そんな表層的な説明が読むことのすべてだと言われたとき、私たちは何を感じるだろう。それで本当に納得できるだろうか。読むとは、もっと深いものだ。読むという営みには、目に見えない震えがある。その震えが、私たちの心を揺らし、記憶を呼び覚ますのだ。
金閣寺が焼け落ちたとき、それはただの建物の崩壊ではなかった。黒煙の中で崩れゆくその姿は、日本全体の不安や空虚を象徴する出来事となった。しかし、その金閣寺は再び建てられた。新たな金閣寺は、かつての記憶を引き継ぎながらも、違う姿でそこに立っている。焼失と再建の間に生じた、この断絶。この断絶こそが、金閣寺をただの建物ではなく、記憶の象徴へと変えたのだ。
だが、その記憶は、焼失と再建の記録だけで完結するものではない。三島由紀夫が『金閣寺』を書いたとき、この寺はまた別の意味を帯びた。三島の文章に描かれた金閣寺は、美への執着と、それを破壊したいという欲望の象徴となった。その金閣寺を読んだとき、私たちはある種の恐ろしさを感じる。何かを愛するがゆえに壊してしまう――そんな矛盾した人間の本性が、金閣寺の中で生々しく響くのだ。
読むとは、このようなことだ。
目に見えるものの奥に潜む何かを捉え、それを言葉の中で再び形作ること。金閣寺という「記憶の場」を読むとき、その場に込められた記憶はただの過去の事実としてそこにあるのではない。それは私たちの感覚や記憶を通じて、今この瞬間に呼び起こされ、新しい意味を宿すのだ。読むとは、象徴を生き返らせる営みなのだ。
思い返せば、言葉はいつもそうだった。子どもの頃に読んだ物語がなぜあれほど胸を打ったのか、大人になった今でも答えられない。それでも、あの時の震えは確かにあった。言葉の一つ一つが心を揺さぶり、私をどこか見知らぬ場所へと連れ去ってくれた。そしてその経験は、私の中で静かに形を変えながら、今も生きている。
読むことの本当の価値は、効率や情報量にあるのではない。読むことで私たちの中に何が残るのか。それを問うてみるがいい。言葉を通じて記憶を紡ぎ、問いを重ね、新たな象徴を見出していく営み。それが読むことの力であり、読むことの喜びだ。読むことで私たちは過去と対話し、未来をつくり出す。そしてそのとき、読むという行為は個人を超え、社会や文化をも変えていくのだ。
金閣寺はただの建物ではない。それを読む私たちの記憶や感覚が、金閣寺を象徴へと作り上げたのである。言葉とは、それを可能にする唯一の力だ。読むとは何か。この問いへの答えは、きっとこれからも定まることはないだろう。それでも読むことで私たちは、言葉の力を信じ、記憶を紡ぎ直し、新たな地平を切り拓いていく。その可能性を信じるほかない。
一二〇名の執筆者を集め、全七巻一三五編からなる壮大なプロジェクトだ。フランス人の集合的記憶が結晶化している諸々の「場」を分析することで、「フランス」を象徴するものの広大な「地勢図」を描こうとしたものである。ノラ自身が「記憶を通したフランス史」と呼んでいるように、人々が、さまざまなシンボルを媒介として、自分たちの過去をどのように想像し、そうして自分たちをどう定義してきたかを探る。
歴史を超える記憶の実践は既に行われている。
参考文献
・『読めば分かるは当たり前?――読解力の認知心理学』2025 犬塚美輪
・『独学の思考法』2022 山野 弘樹
・『超一流になるのは才能か努力か?』2016 アンダース・エリクソン
・『新・現代文レベル別問題集』2021 輿水 淳一 西原 剛
・『「文学国語」と「論理国語」を対置させることの危うさについて ――「高瀬舟」「トロッコ」を例として』2024
・『国語の本質』2024 山田 孝雄
・『勉強の哲学 増補版』2020 千葉雅也
・『庭の話』2024 宇野常寛
・『好きを言語化する技術』2024 三宅香帆