何事も愛を通して以外言葉を発しては ならぬ・・・
強い言葉ですねえ!
でも、本当に そうだなあ!と思います
この言葉は、一番上の姉から教わった「聖書のなかの言葉」とのこと
私は考えました
原始の時代
人は コミニケーションをとるために 言葉という方法を考えついた
最初は 種族を増やすための「愛」を伝えるために
次に 集団生活をしていくために
そして、その生活を スムーズにしていくために
そして、よりスムーズにしたいがために
自己と違う他者の考えを 自己の考えと同じにしたいが為に
そして、又自己の考えの枠の内に 囲いたいがために...
その方法の一つが 「責める」では なかったか?
「責める」より 少し軽い
「いじめ」が 横行したのでは?と
そして、私が思うのには
「いじめる人は 強がりたい」のであって
本当のところ「弱い人」なのでは ないのか?と
その証拠に
いじめる人ほど 「他人を取り込んで 仲間をつくりたがる」
その方法として 一番手っ取り早い方法としての「言葉のいじめ」
以前
「ロジハラ」でも 書いたように
「正論=正しいこと」を言ったにしても
「正論を言う」だけでは 人の心に届かない
どうすれば人の心に届くのか?
そこで「『愛』を通して」となる
「愛」とは
「受け取り手」への配慮 つまり「思いやり」
反論する時も 一旦「肯定」した上での説明や説得
なのではないか?
それをする限り「ロジハラ」や「いじめ」は おこらないと思う
そこで、「愛を通して以外 言葉を発しては ならぬ」に
行き着くのだ。と、ガッテンした
以前、心療内科の先生に 質問されたことがあった
「人を 『許す』のに、あなたは どんな方法をとりますか?」と
私は 今まで自分のやってきたことを答えにした
「その人の 背景を思い巡らせ、落としどころを見つけます」
正解か不正解か 分からないが
先生は なにも言わなかった
どんな言葉も 原点は「『愛』を伝えることから始まった」と考えれば私達は 納得できるのではないか?と思えるのですが、
皆様は どのようにお考えでしょうか?