「自分語りはダサい、野暮だ」「いいや、むしろカッコよくて有意義だ」
「私の若い頃はね…云々」
「私って、ほら、〇〇じゃん…」
「うちの職場がさあ…」
「俺なんかさぁ…」
あの人はいつも自分の話ばかりでつまらない。
聞いてもないのによくもつらつらと。
自分語りする人ってダサいよね…。
んんん?いや待てよ。
本当にそうだろうか。
もしかしたら、これはいかにも人間にとって重要な営みなのではないかと。そう思うわけです。
今の僕は「自分語り」についてこう思うのです。
自分語りは大いにやるべき。
それはもう大気圏が膨張してしまうくらい、大々的に。
しかしそうは言いながら、多くの人にとって「自分語り」をする人はうざったらしい厄介者なわけです。
だって、「僕だって、私だって語りたい」のだから。
ということは、自分語りをする人が悪いというより、あの人ばかりが自分のことを話すからいけないのだと思います。自分のことを聞いてくれる人ではないのが問題だと思います。単なるミスマッチなのです。
なぜなら、私だって話したいのだから。
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僕はセラピストとして4年、カウンセラーとして2年の間、数々の対象者を相手に仕事をこなしてきました。
10代の若い人から、100歳超えの人まで、男女問わず、毎日。
その中で気づいたことがあります。
みんな、めっちゃ語るやん、ということです。
これはもう、人間に仕組まれたプログラムなのではないかと思ってしまいます。これこそが「人のやりたいこと」であり「人がやるべきこと」なのでは?と。
だから医療従事者として、これを見過ごすわけにはいきません。人の自然の姿を否定するわけにはいかないからです。
そのために、日々治療をして、良くなってもらったり、時にツラい訓練をしてもらうわけですから。
ですから、四六時中、自分を語ることが目的ではないにしても、幾らかの割合ではこの点、「自分を語ること」が一つの目的になっているはずなのです。
精神医学の世界では、ナラティブセラピーだとか、森田療法だとか、色んな療法が存在するわけですが、どれも「自己」の存在がテーマとしてあるのです。
この自己を確立するためには、やはり「語り手」の存在というのが不可欠だと思うのです。
それで、自己を語る上で最も信頼できる語り手とは一体何者なのでしょうか?
それは言うまでもなく「自分」ではないでしょうか?
自分のことを語るのだから、やはり自分が適任だと思うのです。他者の語る自分というのは、もはや単なる伝説でしかない。
だから自分語りというのは、必要だと言いたいのです。
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ただし、冒頭に出てきた通り、自分のことばかり話す人は嫌われてしまうし、そのうち語る機会さえも少なくなってしまいます。
話す場所なんてないし、聞いてくれる人もいない。これでは自分が自分であることの証明ができなくなってしまう…。
ならば、日記なんてのはいかがでしょうか。
日記とは自分語りです。自分で自分を語るという、人生でやるべきことの一つなのです。
あるいは、そういった「自分語り」を目的としたコミュニティでもいいかもしれません。
例えばアルコール依存などの物質使用障害の方なんかは、何人かで集まって自分のことを話すというセラピーがあったりします。中には、話す内容を書き込んだノートなんかを持ってくる人もいますよ。(他にもこういう会はたくさんあります)
この時ばかりは、自分のことをいかに話せるかが大事になってくるのです。でも、もしうまく話せなかったとしても、それはそれ。優劣は関係ありません。比較対象は他者ではなく、自分だからです。皆そのことをしっかり分かっているからです。それだけでなく、そういった集まりでは、話すことそれ自体が功績なのです。優劣の評価をしたり、あれこれ申し立てるのは、これこそ愚の骨頂というものです。
しかるべき「自分についての物語」を、しかるべき場所で、やってみませんか?
100円のノートと100円のペンで始められます。
生きている間に、自分のことを語っておきませんか?
以上、日記を薦めるための、私の自分語りを聞いてくれてありがとうございました。
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