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社会とつながる

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僕は学者でもコメンテーターでもないけれど、社会の中で生きるひとりだ。 それなら僕も、社会について思いを馳せることが必要だと思う。
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#コラム

日本人は人権を知らない

アメリカの人種差別に反対するデモがすごいことになっている。 こうした状況に言及して「日本では差別というのは身近ではないかもしれないが……」というような発言をいくつか目にして、僕がふと思い出したのは「人権標語」のことだった。 日本全国のさまざまな自治体で「人権標語」を公募して、受賞作を看板にして街頭に立てたりしている。特に田舎で多いような気がする。名目は「人々の人権意識を啓発しよう」。 ところがこの「人権標語」の受賞作を眺めてみると、日本の社会に「差別から必死で目を背けようと

Don't be evil.

Don't be evil. 僕の倫理の中心。僕が常に心にとどめておきたい言葉。 Don't be evil.は、Googleのかつてのスローガンらしい。 少し前にGoogleがそれを掲げたとき、結構な話題になったことを覚えている。 残念ながら今はそのスローガンをやめてしまったらしいけれど。(そして今のスローガンは、Do the Right Thingだそうで、比べものにならないほど程度の低いものになっちゃったなぁ、と僕は思う) Googleの動向とは関係なく、僕自身が感

男子学生も男尊女卑の被害者~「東大祝辞」に関連して~

女性学の上野千鶴子教授の東大入学式での祝辞が話題だ。 この祝辞、各方面から絶賛されているみたいなんだけど、全文を読んでみて、僕はどうにも居心地の悪さを感じてしまったので、思ったことをつぶやいてみた。以下、Twitterの引用。 東大の新入生祝辞の話、内容はとてもいいと思うけどあれが「新入生祝辞」であるという点で、やはり聞いていた男子学生にとってはパワハラに他ならないし、評価できないなぁと思う。 不正に優遇されている側も「被害者」なんだよ。 社会をつくるのに携わっていない

「男らしさ」は卒業したよ。

30代も半ばになってやっと、だけど。 自分が男らしくあることを少しずつ脱ぎ捨てていって、ふと気づいたら周囲の誰ひとり僕に男らしさを求めなくなった。 むしろ最近では、なんだか中性的な扱いをしてもらえるようになった気がして、とても居心地がいい。 僕は生まれつき極端に痩せていて、体重は女性の平均にも遠く及ばない。 「一般的に男性は女性より腕力があるから、女性にとって男性は恐怖の対象」だとよく言われるし、それは真実だけど、何事にも例外はある。しかも「か弱い女性」とちがって「か弱い

体力が、ない。

生まれてから今まで、体が丈夫だったことは一度もないけれど、それにしてもここ数年で体力がなくなったと思う。 まだ加齢のせいにするには少し早いと思うので、ストレスと運動不足、あともしかしたら、引っ越してきたこちらの気候が合わないのかもしれない。 体力が人並み以下になってみて改めて、世の中は体力がある人を基準に作られているなぁ、と実感する。 長時間労働が当たり前の社会。効率よりもやる気を見せることが評価される社会。体力がない僕には、それは無理だ。 そもそもが集中力に癖があっ

日曜日の夜中に心に浮かぶ由無しごと

今日はなんだか思いつくままに書き散らしたくて、あえて推敲なしでだらだらと書きます。 35歳になっても依然として安定とはほど遠い生き方をしておりまして、今の職場も、長くてあと一年ちょっとかなぁと思いはじめたりしていて、次は何をして生きようかなぁと考えることが多くなってきた。 そんな風に自分の生き方を考えることは、たぶん人よりずっと多くて、どの会社に勤めようとかどういう職種にしようかとかよりも、「自分が何をして生きていくのか」というような根本的なところについつい想いがいってし

「年下は年上に敬語を使うべき」って文化はなくした方がよくない?

僕は日本語の「敬語」の文化はとてもいいものだと思っているんだけど、日本の、「年下は年上には敬語を使うべき」という文化はとてもよくないものだと思っている。 「年齢に関係なく親密な関係になるまではお互いに敬語、親密な関係になったらお互いに敬語をとってフランクに」というマナーの方が絶対いいと思うんだけどな。 敬語は尊敬の念をあらわしているんだから、基本的に初対面同士は「お互いに敬意を持ち合う=どちらも敬語」というのが理想だと思う。 ビジネスの場でも大人同士の交渉の場でも、相手

「特別な日」はなくてもいい。

クリスマスでした。 クリスマスだからというわけではなく年末の三連休なので、東京に出かけてデートしたりライブに参加したりするぞ!とウキウキで出かけて東京に着いた途端、原因不明の歯茎の激痛に襲われて、すべての予定をキャンセルして帰ってきた悲しい文月煉です。 (ちなみに今日病院に行ったのだけど、未だに原因は不明で、治療は保留になってしまった。いつ激痛が来るかわからないって怖すぎる……) さて、それはともかく。 僕は普段からあまり特別な日というのを意識しない。 クリスマスだ

SNSと承認欲求

「承認欲求を満たすためにSNS依存になるのは不健全」というのがたびたび話題になる。そのとおりだと思うけど、「ネットやSNSのせいで承認欲求中毒になる人がでてきた」というのは違うと思う。もともと日本では多くの人が承認欲求を「社会的地位」で満たしてきたんじゃないかな。 逆に言うと、社会的地位を得にくい女性や子どもには、承認欲求を満たす手段がほとんどなかった。田舎の集落でずっと専業主婦をしてきたおばあちゃんに会うと、びっくりするほど自己肯定感が低いことが多い。承認欲求を満たすこと

広げた風呂敷を丁寧に畳むこと。

最近いろんな作品が「勢いに乗っているうちに急いで出す」ことにこだわりすぎて、完成度を高めることが疎かになっている気がする。「面白くなりそうな設定」だけを匂わせておきながら、全く回収できずに風呂敷広げたまま放置、みたいなことが多い。 ジブリの映画も、ハウル、ゲド、アリエッティとかすごくそんな感じだった。原作の偉大さに比べて、ちゃんと回収できる能力が足りていなかったのだろう。 僕が、伊藤計劃や上橋菜穂子、九岡望を尊敬しているのは、広げまくった風呂敷を、丁寧にちゃんと回収するか

「家族」を排他的なものにしない――非独占愛の発展

世間では、多くの場合「家族」というのは恋、性、愛と不可分に結びつく、と考えられている。 恋人をつくらないと、結婚をしないと……「将来孤独だよ」などと言われてしまうのは、「家族」の前提に「恋」(そして性)があるとされているからだ。 そして恋と性は「独占的で排他的」なものだとされるので、必然的に「家族」も独占的で排他的になる。 しかも、そうしてつくられた「家族」は、生活、経済、責任の単位であると多くの場合考えられている。日本の場合特に、生活の最小単位は、「個人」ではなくて「家族」

呪いを解く人になりたい。

現代の日本には(外国に住んだことはないので、比較して、ということではないけど)、 「誰かを呪う言葉」があふれていると思う。 呪いは、僕たちに「ねばならない」を強制し、今いるところに縛り付ける。 「普通でなければならない」という呪い、 「多くの人ができることはできなくてはならない」という呪い、 「他人に違和感を与えてはならない」という呪い、 年齢の呪い、性別の呪い、恋愛の呪い。 親からの呪い、恋人からの呪い、地域からの呪い、職場からの呪い、 そしてメディアで目にしたことによる

マイノリティは「あちら側」の人たち?

週末に我が家に恋人が遊びに来ていて、「わたしはポリアモリーです、って宣言したりするの、なんか違う気がするんだよね」という話をしたりした。 僕はかつて「僕はポリアモリー」っていうブログ記事を書いたけど、確かに今になってみると「これって宣言するようなものじゃないかもな」と思ったりもしている。 ポリアモリーは「性質」なのか「ライフスタイル」なのか、っていうのがたびたび話題になる。「性質」というと属人的で、「人」が(先天的であれ後天的であれ)そういう特徴をもっているということにな

「5年後にはまだ想像できない何かを成し遂げていたい」と思いながら生きること。

26歳で、新卒で入った会社を辞めたとき、「これからの人生は自分の選択によってどうにでも決まるんだな」と実感した。 1年後に自分が何をやっているかもわからないという、大きな不安とわずかな期待の中で、「未来が分からないのならいっそのこと、いつでも5年後が想像できない生き方をするのも悪くないかもしれない」なんて思ったりした。 そしてそのときに思ったのは、これからは5年の区切りごとに「僕はこれだけやったな」と、満足できるように生きたいということだった。 1年で結論を出すのは早す