Don't be evil.
Don't be evil. 僕の倫理の中心。僕が常に心にとどめておきたい言葉。
Don't be evil.は、Googleのかつてのスローガンらしい。
少し前にGoogleがそれを掲げたとき、結構な話題になったことを覚えている。
残念ながら今はそのスローガンをやめてしまったらしいけれど。(そして今のスローガンは、Do the Right Thingだそうで、比べものにならないほど程度の低いものになっちゃったなぁ、と僕は思う)
Googleの動向とは関係なく、僕自身が感銘を受けた「Don't be evil.」は、これからも僕自身の胸に留めておきたいと思っている。
Googleの意図からは離れて、字義通りの意味の「Don't be evil.」を、僕はとても大切にしたいと思う。
Don't be evil. は「邪悪であるな」?
まず、この言葉をなんと訳そうか。
「邪悪になるな」とされることが多いけど、becomeではなくbeを使っていることを考えると、「邪悪であるな」という方が正確だ。
日本語としてはやや違和感があるけれど、「邪悪」という「(属性に)なる」ということではなく、「邪悪」という「(状態に)ある」ということが、ここでは重要だ。
その人が善人か悪人か、ではなく、今この瞬間、この行動をとるその人が邪悪であるかどうか。
「悪人になるなよ」なんていうことではなくて、もっとその瞬間にフォーカスして、「今、自分が邪悪でないか、常に確かめる」ということ。
それが、Don't be evil.だ。
「悪を成さないこと」は倫理の根幹
「善を成そうとすること」と「悪を成さないようにすること」は似ているようで大きく違う。
前者よりは後者の方が、ずっと実践可能で広く効果のある「倫理」ではないだろうか。
古今東西、「普遍的な善」が、明確になった試しはない。
誰かの「善」が、他の人にとってもそうであるとは限らない。
それに比べると、「普遍的な悪」というのは比較的明確なように見える。
例えば、「己の欲せざる所は人に施すなかれ」というのも、Don't be evilに通じるだろう。
これが「己の欲する所を人に施せ」だとしたら、それはとんだお節介になりかねない。
人はどんなときに「邪悪である」か
では、be evil(邪悪である)とは、どんな状態だろうか。
キーワードは「悪意」だ。
「悪意からくる行動」を起こすとき、人はbe evil(邪悪である)といえるのではないか。
ここで言う悪意とは「他者を不幸にしようという思い」だと定義したい。
ある人との関わりの中で不愉快な思いをし、その人を嫌いになったとする。
その人から距離を置き、関わりを避けようとすることや、これ以上害を被らないように不快であることや怒りを表明すること、それらは「悪意」ではない。
友人に対して、「あの人はこういうことをしたので、私はあの人が嫌いだ」
と伝えることも、それが真実の行為を伝えるのにとどまっている限り、悪意とは異なるだろう。
だが、相手への嫌悪をもとに、相手に不利益を被らせることを目的として、
自分がされたこととは無関係の単なる悪口を喧伝したり、相手の秘密を暴露したりする行為は、「悪意」と言えるだろう。
怒りや、嫌悪そのものは正当であっても、「それを口実に」、「相手に対して不誠実なことをしても構わない」と考えて行動するとき、その人はその瞬間、「邪悪である」といえる、と僕は思う。
嫌いな人がいて、憎悪の感情が生まれることは自然なことだ。
だけどその「悪意」から出た行動をとること、とくにそれを、SNSなどをふくめた「他の人に見える場所」で行うことは、「邪悪である」自分の姿を周囲に見せつけることであり、嫌いな人ではない人、自分の大切な人たちに不愉快を撒き散らす。
何かの行動を起こす前に、自分に問いかけよう。
「Are you evil now?」