やる気は、ひとつの夢や目標に固執しない方が育つ
前回、やる気の出し方がついにわかったかもしれないという話を書いた。
やる気の素になるのは「妄想」で
僕らは、叶わなかったときの絶望が怖くて、妄想にブレーキをかけがちだから
妄想は中断せず、怖がらずに育てていこう
という話だ。イメージが原動力になるなんて十分に理解しているつもりだった。しかし、妄想にブレーキをかけていることに僕は気づけていなかった。ブレーキから足を離したら、自分のなかで色々なものが蠢き出したのだ。
しかしながら「そもそも妄想をふくらませすぎると痛い思いをするから、それを控えるようになった」という話もした。
目標(夢)がなかなか叶わない日々が苦痛で、あきらめることが苦痛で、いつしか未来を思い描くことを控えるようになったのではなかったか。
妄想はたしかに生きる原動力になるかもしれない。でも、妄想がもたらす苦痛には、どのように向き合えばいいのだろう。
今回はその疑問に応えていきたい。
また妻の話からさせてほしい。妻には、やりたいことがたくさんある。
理想の間取り。理想の台所。ねこの食器をたくさん揃えたい。
開けたときに甘い匂いが広がるクッキー缶をつくりたい。
アフタヌーンティーをカフェで提供したい。季節に合わせてアレンジを加えたセイボリーやスイーツを、たくさんのお皿に乗っけたい。もちろん、一つひとつの小さな料理たちも、それを並べる二階建てのお皿も、全てねこを象っている。
スコーンをもっとかわいく、おいしく焼けるようになりたい。
いろんな味のジェラートをつくりたい。
大阪のねこイベントに出店したい。
ひとつひとつの妄想を、彼女は一緒くたに、頭のなかで膨らませている。おそらく、僕がまだ聞いたことのないもの、まだ彼女自身も自覚していないくらいにぼんやりした妄想もあるのだろう。
こんなふうに妄想をたくさん抱えているとどうなるか。月1ペースで妄想が現実になる。しょっちゅう、夢が叶うのだ。
彼女を傍目からみていると、自分から夢を叶えにいくというよりは、現実のほうからきっかけがやってきているように見える。しかしそれも不思議ではない。たくさんの釣竿を使って、いろんな釣り場で魚釣りをしているようなものだからだ。
もちろん、彼女もただ待っているだけというわけではない。妄想はたくさんあっても身体はひとつしかない。妄想のうちから、いまの自分が叶えるべきものを選び、それを形にすることに今日の命を使う。
「カフェをやってみたい」という夢を形にし始めたころは、池袋のレンタルカフェで月に一回の営業をしていた。それだけでも十分に忙しかった。通販もやってみたいと思いながらも、カフェ以外のことをやっている余裕はなかった。
ようやく軌道に乗ってきたころ、コロナでカフェができなくなってしまった。しかし彼女は、がっかりしたり落ち込んだりする暇もなく「じゃあ、クッキー缶をやってみようかな」といいはじめた。次の妄想が彼女を引っ張りはじめていた。
カフェの夢が頓挫してしまったことに凹むこともできたはずだ。そうならずに済んだのは、彼女が普段から、色々な妄想をいくつも抱えていたからだと思う。
妻は「やりたいことがない」と悩まない。おそらく一度もそういう悩み方をしたことがない。比べて僕はといえば、長い間「やりたいことがない」と悩んできた。
彼女を見ていると、自分がそんなふうに悩んでしまう原因がよくわかる。彼女がたくさんの妄想、夢を頭の中に遊ばせているのに対して、僕はたったひとつの大きな理想、大きな物語に固執していた。たったひとつの志望校に向けて勉強したし、公認会計士という唯一の目標にむかって勉強した。
そもそも、目標はひとつに絞るべきだと考えていた。選択と集中。実際、大学受験のときには、人生で初めてはっきりとした目標をもった。そのおかげで、それまでにないほどたくさん勉強できた。大きな成功体験だった。
しかし目指すべき未来を絞ることには、小さくないデメリットがあった。その夢に関係ない時間が、すべて「無駄なこと」と感じるようになってしまった。
家事も食事も遊びも、勉強に関係がない読書も、すべてが「圧縮、効率化」すべき時間のように感じてしまう。せいぜい「勉強するために必要な回復の時間」程度の価値しか見出せない。
そして唯一の価値をもつその夢、あるいは目標がうまくいかなくなったとき、僕の人生には価値を感じられるものが何もなくなってしまう。「やりたいことが何もなくなってしまう」のだ。
どうやら僕はこのクセがずっと抜けずにいるらしい。目標が「合格」ではなく、「お金」に変わっただけだ。だからお金を稼ぐことに関係がないことをしていると、どうしても心のどこかで「こんなことをしていていいだろうのか」と感じてしまっていた。
無料で文章を書くのも結局はできるだけたくさんの人に読んでほしいからだし、その先に「お金」を期待しているような気がする。誰かの頼み事をきくのも、お金とは言わないが何らかの交換価値をもつ「恩」みたいなものを稼いでいるような感覚がある。
そんな自分が鬱陶しくて、利他とか贈与というものについて一生懸命考え、自分のなかに、少しでも他者を想う純粋な気持ちや崇高な倫理観はないのかと探したりもしたが、残念ながらいまだしっくりくる感覚は見つかっていない。
閑話休題。
妻のように色々な妄想を、優劣をつけることなくいくつも抱えていると、日常の色々なものが妄想の素材になるらしい。たとえば彼女は寝る前に、インスタのリールをよく眺めている。そこで目に入ってくるかわいいねこの動画とか美味しそうなスイーツの動画なんていうのは、そのまま新商品の妄想を広げるための材料になっている。
彼女は「時間を無駄にしている」と感じることはほとんどないようだ。唯一、やるべきことがはっきりしているのにそれをやる気力が湧かないときには、さすがに時間を無駄にしている気分になるらしい。確定申告とか、SNSで商品の告知をするという気が重い作業をやらなきゃいけないときなどがそうだ。人間はひとつの目的に縛られているとき、時間を無駄に感じるようになるのかもしれない。
ひとつの妄想が行き詰まれば、別の妄想が現実に近づいてくる。だから妻は「叶っていない妄想がある」ことにあまり気づいていない。
たとえば以前の妻は、マンションの広告をみて理想の部屋をよく妄想していた。でもいまはカフェの作り込みに熱心で、間取りにはあまり興味が向かないらしい。
特に会社を創ってからはやることが増えた。部屋には書類や試作した缶が散乱している。おそらく、かつて夢想していた理想の部屋とは程遠いだろう。しかし彼女は大して気にしてはいないようだ。
限られた妄想に固執していると、それが叶うまでの時間は「自分に必要なものを手に入れていない、不完全な期間」という感じがしてしまう。試験に受かっていない自分、理想の相手に出会っていない自分。やりたいことがない自分。どうしても「ない」ものを意識してしまう。
彼女は妄想することそのものを楽しんでいる。妄想を、絶対に形にしなければいけないものだとは思っていない。しかし妄想だったものに手が届きそうだと感じるやいなや、それはもう彼女にとっては妄想ではなく、現実そのものになる。もはやそれは目標ですらない。予定なのだ。妄想か予定かの二者択一。
そういえばショーシャンクを脱獄したデュフレーンも、図書室の改装予算を求める手紙を何年も書き続けた。脱獄の穴を掘り続けた。その妄想(=希望)に固執することなく、淡々と行為を続けたのだ。
きっとデュフレーンも、脱獄だけを唯一の希望としていたなら、その妄想に固執し、あるいは絶望していたのかもしれない。彼は檻のなかで、画面には映らないところで、レッドも知らぬところで、いくつもの希望をつくっていたのだろう。手紙を書くこと。トミーに勉強を教えること。チェスのコマを削ること。脱獄の穴も、そのうちのひとつに過ぎなかったのではないか。
僕は「何をやりたいか」よりも、「どうやって実現するのか」ばかりを考えてきた。でもいまは「どうやるかわからない。でもやってみたい」ことを想い描く時間を大切にしている。
僕は表計算ソフトをいじるのが好きだ。自分の1日の行動記録を24時間分、細かく記録して分析するのが好きだった。
こだわるほどやってみたいことは複雑になっていく。ついにプログラミングの知識が必要になった。でも自分にその知識はない。やりたいことはあっても、それを形にすることはあきらめていた。
いつかプログラミングを勉強してそれを形にしたいと思っていたが、勉強する時間もモチベーションもなかなか得られずにいた。
しかしあるとき突然、世界にAIがあらわれた。AIは僕が欲しかったプログラムをものの10秒で書き上げた。長年の夢があまりにもあっさりと叶った。感動している暇すらなかった。
僕がこの狭量な頭でどれだけ考えても思いつかないような解決方法を、現実が急にもってきた。
どれだけ手段をはっきりさせても、やる気がなければやらないのが人間だ。
1日12時間勉強するつもりで、そのための時間と環境を確保したが、その2年のあいだに集中して勉強できたのはせいぜい、1日6時間程度だった。
「どうやって?」を一生懸命考えても結局やらない。そうやってうだうだしているうちに、現実が思いもよらない解決策をもってくる。
そんな経験を特に最近、よくするようになった。「どうやって?」を考えることに、僕はだんだんと関心を持てなくなってきている。
いつ形になるかわからないけれど、もしかしたら形にならないかもしれないけれど、そんなことはひとまず置いておいて、いままさに広がろうとしている妄想に身を委ねるのは、シンプルに心地がいい。身体にもいいはずだ。機嫌もよくなる。人と話していても楽しい。しかもそうやって話しているうちに、自分では思いつかなかった方法や鍵になる人物を誰かが紹介してくれたりする。この世界は、楽しそうで、何より機嫌がいい人にやさしい。
もちろん、すでに仕事として、現実に僕らの前に現れていることには、ちゃんと「どうやって?」を考えるべきだろう。妄想で仕事は終わらない。
すでに現前しているタスクは、謙虚に、確実に、責任をもってこなしていく。しかしその一方で、妄想は無防備に、無秩序に、無責任に広げていく。
彼女は昨日ようやく確定申告を終えたようで、今朝は清々しい顔をしていた。ようやくお店の看板のデザインができる! と張り切っている。相変わらず現実と妄想を行ったり来たりしているようだ。
僕もこれを書き終わったら、いいかげん、領収書の山と向き合わなければならない。
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