「からかう」気持ちを考える。
#20240306-370
2024年3月6日(水)
心のなかに「からかいたい」衝動がゼロの人っているのだろうか。
たとえば。
子猫に猫じゃらしタイプのおもちゃをちらつかせる。子猫は興奮して、つかまえようと躍起になる。繰り返すあいだに、いたずら心がうずいて、ふいっとそのおもちゃを隠してみる。子猫は消えたと思い、キョトンとする。周りを見まわす。隠されたとは微塵も思っていない様子だ。また目の前にひょいとかざすと、喜んでじゃれつく。
これは子猫にとっては、人間が故意に隠していると気付かない限り、おもちゃが出現したり消えたりする摩訶不思議現象だ。人間はその様子に思わず笑みをもらす。
これはだましていることに対しての優越感なのだろうか。
からかう人が上位で、からかわれる人が下位といった上下関係があるのだろうか。
むーくん(夫)は、恋人時代から結婚し、今に至るまでよく私をからかう。
だが、私は心底だまされているわけではないので、わかった上でのやりとりとなる。愛情ありきのコミュニケーションだ。
我が家のキッチンのシンクの上に吊り戸棚がある。
戸を開けたままでも、私は頭のてっぺんをかすりもしないが、背の高いむーくんは違う。ちょうど視野に入らない位置らしく、私が閉め忘れると額をがっちりぶつける。
当たらないことをいいことに私が戸を開け放ったまま料理をしていると、むーくんがいう。
「はっちゃん、頭ぶつけないようにね!」
ぶつけようがない。
でも、私は笑って返す。
「あ! 危なかったぁ。教えてくれてありがと。ぶつけちゃうところだった!」
もしくは、ちょいと頭を反らせて額を抑える。
「やっちまったぁ」
これがノコ(娘小4)相手だとそうはいかない。
「ぶつかるはずないじゃん!」
眉を吊り上げて本気で怒る。
「チビだっていいたいんでしょ。ヒドイ!」
そして、私にいう。
「ママママ、ママママ、パパがいじめる! 私が嫌がるこという!」
相手が嫌がっていることをしてはいけない。
してはいけないが、むーくんの愛情表現のひとつである。
ノコも「パパったらぁ、ぶつかるはずないじゃん!」ってお茶目に笑えばいい。
しかし、愛情表現だからといって、嫌な気分になることを受け入れる必要もない。
嫌なことは嫌でいい。
嫌でいいのだが、むーくんはなかなか私とノコは違うのだと切り替えができず、こういったからかうような、悪ふざけのようなやりとりを繰り返してしまう。
からかいと馬鹿にする行為は紙一重なのかもしれない。
相手が困ったり、怒ったり、戸惑ったりすることをおもしろがるのだから、いじめに入るのかもしれない。
匙加減が難しい言動はしないほうが無難なのか。
嫌なことを嫌だと主張できるノコの強さはたいしたものだと思うが、反撃される度に困惑した表情を浮かべるむーくんもちょっぴり不憫だ。
ふざけたやりとりは、どちらかが我慢した時点で戯れから外れてしまう。双方がキャッチボールのように呼吸を合わせて、楽しく投げ合ってこそ成立する。
「あんまりからかうと、思春期になったときに近寄ってこなくなっちゃうよ」
軽く目をふせたむーくんの顔はどこか淋しげに見える。
男親と娘のやりとりは、おそらく実子だろうが、里子だろうが、壁が高く厚いのだろう。
やれやれ。
私はどこか哀れな父親を見つめ、肩をすくめる。
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