「宇宙人」だと思ったほうが、「違い」がおもしろくなると思う。
#20240320-377
2024年3月20日(水)
「そんな、何でもアリになったら、『いい』も『悪い』もなくなっちゃうじゃない!」
電話の向こうで、母が叫んだ。
母のいいたいことはわかる。私自身も両親から受け継いだ――いや躾けられた「世の常識」という名の「マナー」の壁にぶつかっている。里子のノコ(娘小4)と暮らすようになってからは、もう毎日といっていいくらい激突だ。
そんなもやもやを抱えているなか、目にしたのがこのきしもとたかひろさんの「多様な社会の実現で、躾とマナーが滅びるという仮説」というnoteの記事だ。
ノコは鉛筆の持ち方が独特だ。
小学1年生の国語の教科書には、「字を書くしせい」と「えんぴつのもち方」が載っていた。私の小学生時代は40年以上前だが、どうやら変わっていないらしい。
癖のある持ち方にノコが慣れてしまう前に、教科書推奨の持ち方を身につけた方が負荷が軽いと思い、目につく度に声を掛けていた。
「ノコさん、持ち方!」
一言いえばノコは慌てて持ち直すが、顔をしかめている。書きにくいのだろう。まだ鉛筆の先を自分の身体の延長として捉えられていない。
1年生のあいだに身につくかと思っていたが、4年生――もうすぐ5年生になる現在も親指が前に出る持ち方が続いている。
「だって、書きにくいし」
私はいくら反らしても親指が棒のようにまっすぐのままだが、ノコの親指はぐいんと反る。このやわらかさが持ちにくさにつながっているのだろうか。指の性質が違うので、ノコの辛さが私にはわからない。
私はなぜノコの鉛筆の持ち方を教科書通りにさせようとしているのだろう。
教科書推奨の持ち方が体の構造上、理に適っていて指への負担が軽いと思っている。将来、長時間書くときに痛みが少ないのではないか。
今後、さまざまな場で教師やよその大人、友だちに持ち方を指摘されて、ノコが嫌な気持ちになるのではないかという心配。
教科書推奨の持ち方が身についていないということは、つまり親に放置されて育ったのではないか、と疑われる心配。これは私たちが親失格だと思われる心配ではない。ノコの成長過程を勘ぐられることの心配だ。
どれも、まだ起きていないことばかりだ。
ノコが書きやすくて、手や指が痛くならないのなら、どう持ってもよい。
ノコが周囲に持ち方を指摘されて、不愉快にならないのならよい。
ノコが育ちについて尋かれて、負い目に感じないのならよい。
鉛筆の持ち方だけではない。箸の持ち方、食事の仕方、座る姿勢。
あらゆるマナー、その場に適した立ち振る舞いをノコにしてほしいと願う根底にあるのは、ノコが不当な目に合わないかという私の不安だ。私たちの目が届かないところで、ノコによくないことが起きてほしくない。
どうなるかわからない未来を私が勝手に憂えている。
子育てについて、最近思うことを昨日の記事(#20240319-376)に書いた。
再構築される「常識」には、こういったマナーも含まれる。
明治、大正生まれの親に育てられた私の親――特に母はマナーにこまかい。私は母の影響を受けている。マナーに反するふるまいを前にしたとき、母の声が聞こえてしまう。
「あら、やだ。親に教わらなかったのかしら」
お里が知れると私のなかの母が私だけに聞こえるほどの小声でつぶやく。
その壁を作る、「あなたと私は違うのよ」と境界線を引くような母の言葉、ふるまいに私は腹を立てる。「別にいいんじゃない」と反論しようとすると、私のなかの母が重ねて「みんな、はちのように考えないのよ。ママみたいに考える人のほうが普通なの」と私の口をふさいでしまう。
むーくん(夫)と結婚した当初は、よく私のなかに「母」が登場した。
実家から離れる時間が長くなるにつれて、母の出現は減っていった。それがノコを前にするとまた現れるようになった。
これは同調圧力が強い日本ならではなのだろうか。
多種多様な人種や民族が暮らす国なら違うのだろうか。
いや、「人種のるつぼ」と呼ばれるアメリカや「人種のモザイク」と呼ばれるカナダでも全員が幸せで尊重されるわけではなく、抱える問題があるという。
あぁ、もういっそのこと、映画「スターウォーズ」の混みあう宇宙港や「メン・イン・ブラック」の宇宙人組織MIBのように、姿かたちから大きく異なっていればマナーなんて、常識なんて、笑っちゃうのに。
下手にあなたと私が似ているから縛られるのかもしれない。