低いハードルからはじめるか、高いハードルから片付けるか。それが問題だ。
#20240511-395
2024年5月11日(土)
明日の日曜日。
遊びに出掛けたいのなら、今日パパが仕事から帰るまでに全部の宿題を終わらせること。
どうやら、むーくん(夫)がノコ(娘小5)にそういったらしい。
パジャマ姿のまま、ノコが宿題に取り組んでいる。テーブルの上に用意した朝食に手をつけようとしない。
「まずは、朝ごはんを食べてからにしたら?」
「ダメ! 終わらないもん!」
そして、私をじとっと見る。
「ママママ、これってさぁ……」
もごもごと言葉を濁し、唇を尖らせる。
学習塾の宿題のなかでも、クイズのようなパズルのような発想が必要なものだった。
私もむーくんもこの手の問題はかなり好きだ。今の私はやるべきことが多くてなかなかこういった問題に時間を割くことができないが、あれこれと手を動かし、書き連ね、試行錯誤することを楽しめた子ども時分の私なら勉強ではなく、遊びとしてやるだろう。
ノコはこういった問題を「メンドーくさい」と投げてしまう。
書くのがメンドーくさい。
消すのもメンドーくさい。
そもそも考えるのがメンドーくさい。
宿題をやるようになったものの、ノコは好きで自らやっているわけではない。
その日の気分によっては問題を眺めただけで「わかンない」と即匙を投げる。
「ママママ、ママママ、これ、どうやるか教えて」
やることがあるから無理だと事前に伝えていた時間帯であっても「教えて」と請われれば、教えないわけにいかない。
ノコにわかるよう図を描いて、丁寧に説明しようとするが、大抵ノコは機嫌が悪い。
膝を立てたり、肘をついたり、ふてくされ、人に教えてもらう態度ではない。
そのため、むーくんが「すぐ『わからない』といわない」と言葉を封じた。
私は「わからない」こそが学びのはじまりだと思うため、「わからない」ことを自覚するのはよいことだと思っている。
だが、ノコの「わからない」は自分で考えるための「わからない」ではない。
「助けろ」「手伝え」「教えろ」の「わからない」だ。
ノコのやる気が失せていくのがその崩れていく姿勢でわかる。
パパに「わからない」ということを禁じられたため、ノコは行き詰まっている。
「ママママァ~、これさぁ~、どうやればいい?」
遠まわしに言葉を変えて問うてくる。
大人にしてみれば大きなヒントを与えてみたが、ノコは活かせない。やりたくない気持ちがふくれてしまい、もはや考えようとしない。
「ノコさん、ほかに言葉調べの宿題もあるでしょ」
それならば、課題の言葉を国語辞典や四字熟語辞典で調べてノートに写せば済む。辞書引きはもう手慣れているので、ノコ1人でも進められる。私に尋かずともできる。
「まずは、ノコさんがママを頼らなくてもできるものから終わらせちゃったら?」
ハードルが低く、確実に自力で終えられるものからはじめたほうがエンジンがかかるように思い、私は提案した。
習い事に出掛ける前に洗濯物を干してしまわないとならない。帰宅してからでは遅い。
ノコの隣に座ってやさしくゆっくり教えるには、先に済ますものを済ませてしまわないと、私も落ち着かない。
「ヤダ!」
ブンッと勢いよく首を振って、ノコは拒む。
「大変なのから終わらせたい。これがあると思うと、ほかのやる気になんない」
うわぁ、それもわかる。
わかるが、今は自分1人でできるものから取り組んでほしい。
これは大人の都合だろうか。
いくつかのやらねばならないものを前にして。
ハードルが低いものから手をつけるか。
それとも、気に掛かるハードルが高いものから片付けてしまうか。
人の性格によるため、正解はないのだろうが、ノコのように最初につまずくと機嫌まで悪くなり、すべてのやる気がそがれてしまう場合、ハードルが低いものから済ませたほうがいいように思う。
とにかく宿題を終わらせねばならないのなら、1つでも多く、確実に終わるものからはじめたほうが残量も減って達成感を得られるのではないだろうか。
「そうだねぇ、気になるのを終わらせちゃったほうがいいかぁ」
むーくんにノコの気持ちに沿うやり方は結局遠回りになると非難されそうだ。
それもわかる。
わかるんだけど、気になるというノコの気持ちを放置するのも悩ましい。
「じゃあね、ここを見てみて」
私が図を指すとノコが大きくため息をつく。
「もういいからさぁ、ママ、答えいっちゃって」
「わからない」も「教えて」も飛び越えて、一気にノコは終わらせようとする。