今日も明日もあさっても。
#20230818-213
2023年8月18日(金)
「前見ろ、前! 踊るんじゃない、歩いて歩いて」
夏休み、人でごった返す駅構内。
つないだ手を引いて、夫が逆行する人の流れに乗ろうとするノコを制する。小学4年生の娘はまだ人をよけて歩くことを習得できず、こんな人であふれるなかでも踊ろうとする。
「もー、パパ、強く引っ張りすぎ!」
不平をいいながらもノコは夫の手を放さず、むしろつないだ手を軸にぎゅるんとターンしようとする。
数歩後ろを歩く私はそんな2人の姿に笑ってしまう。
ノコと手をつなぐと前に後ろにぶんぶんと引っ張られ、体幹が揺さぶられて疲れることこの上ない。その大変さはわかるが、自分事でなければシャッターチャンス。写真に撮りたいほど微笑ましい。
私たち夫婦は里親で、娘のノコは里子だ。
一緒に暮らしはじめて4年目。
施設育ちで「家族」がわからないノコは、我が家に来た当初はちょっと注意をすると逃げだした。先程のように踊らず歩くよういえば、つないだ手を乱暴に振り払って離れるという具合だった。そして、道を行き交うまったく知らない大人に寄り添い、顔を見上げながら手をつなぐ。その大人が驚きつつも笑みでも浮かべれば、もう「私の相手をしてくれる大人」認定となる。
知らない人と手をつなぐんじゃないといえばいうほど、こちらを睨んで距離を置く。
ノコのその行動は、私たち夫婦にとって目眩がするほど衝撃的だった。
なぜ知らない大人の手を取れるのかわからなかった。
乳児院や児童養護施設には、思いのほかさまざまな大人が出入りする。
保育関連の学生が実習で入ることもあれば、ボランティア活動の一環で訪れる人もいる。私たちのような里親登録希望者も施設での実習がある。児童相談所の職員も来るし、実親の面会もある。施設の子どもたちは、いつもいる施設の職員や保育士だけでなく、初対面の大人とふれあう機会が多い。
どの大人もすべて子どもの世話や相手をしてくれた。
児相の紹介で出会ったとき、ノコは幼稚園年中児。
すでにノコはノコの価値観を持っていた。ノコにとって「全大人は子どもの相手をするのが当たり前」であるだけでなく、施設にやって来る大人をどうやって独占し、いかに自分と遊んでもらうかだった。
人懐っこいといえば、そう見える。
施設に来た初対面の大人もそんな子どものほうが相手をしたくなる。
ノコが少しでも心地よく生きるために身につけた価値観であり、行為だ。
否定することはできないし、否定したからといってその価値観が変わるわけではない。だが、ノコの振るまいの理由がそういった価値観のためだとわかっても、私たち夫婦の心のざわつきは簡単におさまらなかった。
児相からノコを委託されて丸4年経った。
ノコは我が家に来た当初よりは「家族」というくくりをわかってきているが、今も「すべての大人は子どもの相手をするもの」という価値観が顔を出す。人との距離感も難しく、ノコの年齢があがるにつれ、かわいらしい近過ぎるスキンシップは、違う意味で目を引くようになった。距離感を説く絵本には関係性によって腕1本分や机1台分の距離をあけるとあるが、そもそも関係性を理解していないためノコには難しい。
同じ家に住む人が「家族」と教えてもいいが、心の距離は屋根だけでは語れない。
一緒に暮らし、言葉を交わし、気持ちを伝え、ふれあい、愛でて、ときにはこじれ、嫌なこともいいあい、怒りをぶつけても、今日と同じように「ここにいる」明日がまた来るのだと繰り返す。ノコが身も心も安心できるまでひたすら繰り返す。
4年なんてまだまだだ。
ノコが生きた半分にも足りない。
里子の受託は児相からの電話ではじまる。
その時点では年齢と性別くらいしかわからない。進めたいと里親が決めれば、児相でもう少し詳しい話を聞く。少しずつ少しずつ意思を確認しつつ、里子との対面、定期的に会う交流へと進んでいく。これは、私の地域での長期委託の場合であり、短期委託や一時保護の場合はこの限りではない。
私たち夫婦ははじめて紹介された女の子と会うことにした。
今、我が家にいる里子のノコだ。
電話を受け、児相にて詳しく話を聞くことを選択し、児童養護施設へ足を運んでノコと会うことを選択した。
気に入らないことをいわれると、プッと距離を置くところは相変わらずだが、いきなり知らない人と手をつなぐことはなくなった。注意してもつないでいた手を振り払わないことも増えた。
あの選択をしたから、私たち夫婦は今ノコといる。ここにいる。
今日も、明日も、あさっても。
きっと、きっと。