パパなのか、ママなのか、その使い分け。~小さな「甘え」と大きな「安心感」~
#20240925-472
2024年9月25日(水)
「南くんが恋人!?」というTVドラマをノコ(娘小5)は楽しみに見ている。
内田春菊の漫画「南くんの恋人」が原作で、ドラマ化は本作で5作目となる。
私はちよみ役を高橋由美子、南くん役を武田真治が演じた2作目を20代の頃に見ていたし、原作漫画も持っていた。ドラマも漫画も知らないむーくん(夫)は、単にコミカルなドラマの雰囲気と恋人が小さくなってしまうという設定にノコも楽しめるだろうと思ったようだ。
漫画の最終話はなかなかショッキングで、まだ若かった私はちょっと放り出されたような、すっきりしない気持ちになった。だが、時が経つにつれ、あれはあれなのだ、と思っている。あれでいいのだ、と。
ドラマはどの作品も演出が異なり、「恋人が小さくなってしまった2人の日々」という基本設定が共通している程度だ。4作目までは原作と同じでちよみが小さくなっていたが、今作は南くんが小さくなるという点が新鮮ではある。
ラブホテルをお城だというやりとりなど、ノコに尋ねられたら即返答ができないところはあるものの、私が気になるのはどのように終わるかだった。
ノコに理解できる終わりかたなのか。
ノコがショックを受ける終わりかたではないか。
毎回ノコはTVに向かって手を叩き、突っ込みを入れながら、楽しく見ている。
大人の勝手な配慮で最後まで見せないのもためらわれた。血が出るなどの残虐なシーンはない。ノコに問われたら即答できない単語が飛び出すが、説明できないこともない。
今作の最終話がどうなるのか。
順に回を追わず、結末だけ知りたいわけではないが、子どもが見るとなると親としては確認したくなる。
ノコとむーくんがソファーに並んでドラマを見ている。
夕食の後片付けをしながら、私は毎回チラチラとTV画面に目をやってしまう。
最終話が近付くにつれ、南くんが小さくなった理由が少しずつ見えてきた。
車に突っ込まれた瞬間を境に南くんは小さくなった。
どうやら南くんはその時点で死んだようだ。小さくなって、ちなみをはじめ、親しい人たちの前に姿を現したのは、「別れの時間」を過ごすためではないか。神様が出てきて説明したわけではないが、「南くんと別れるための時間を神様が贈ってくれたのではないか」ということに帰着した。
そして、南くんは姿を消す。
ノコは泣いた。
意味がわかったようだ。
「死」についても、小学4年生のときより深く理解しているように見える。
もちろん私だって「死」はまだわからないのだから、ノコが「わかった」というのは早計だ。ただついこの間までのノコはもっとトンチンカンな反応だったし、ドラマのなかのことを自分に重ねることはなかった。
両腕を広げてよたよたと幼子のような歩みで――これはノコが甘えたいときにする仕草のひとつだ、ノコはむーくんに近寄る。
「パパァー、パパァー」
そういって、椅子に腰掛けてプラモデルを組み立てていたむーくんの膝に座ろうとする。
「ちょっと待て」
むーくんが慌ててラグへ移動してあぐらをかくと、ノコはそこにすっぽり収まって声をあげて泣いた。
体から熱を発し、汗をかきながら、大声で泣いた。
5年生になり、ノコは以前のようにむーくんに抱きつくことがなくなった。
お相撲遊びの流れでしがみつくことはあっても、私にするように「抱っこ」と膝にのってぺったりくっつくことはしなくなった。私にせがむ抱っこもむーくんがいる前ではしない。
そんなノコがこのとき求めたのは私ではなく、むーくんだった。
そんなことが先日あった。
そして、今日私の父の余命が短いかもしれないことをノコに伝えた。
「じぃじが?」
ノコの目が私とむーくんを往復する。
「お医者さんがそういったの。でも、そういわれても1年2年と生きる人もいるんだ。だから、いつ死んじゃうかはだれもわからない」
里子のノコが我が家に来て5年目。
私の父とは、新型コロナウイルスの流行もあって、頻繁に会っていたわけではない。
それでも父は会えばノコと遊んだ。
「ママもパパもじぃじに1日でも長く生きてほしいと祈ってるの。それでね、ママはじぃじの病院に行ったり、〇〇のお家に行ったりすることが増えると思うんだ」
ノコの目を丸く見開いた。
「じぃじが! じぃじが! 死んじゃうの?」
そういうと、ノコは両腕を広げてむーくんにしがみついた。
声をあげて泣く。
むーくんがノコを抱き上げた。
「まだわかんねぇよ。だから、ママに協力しような」
ノコの耳元にむーくんがささやいた。
泣き声がさらに大きくなった。
TVドラマ「南くんが恋人!?」の最終話に大泣きするノコの姿が重なった。
どうやら「死」にまつわることになると、ノコは私ではなく、むーくんがいいらしい。
ノコの選択がなんだかわかる。
この1年でノコはぐんと身長が伸びた。今や小柄な私とは10cmほどしか違わない。抱っこしていても、傍から見たら奇妙なバランスになりつつある。それに比べて大柄なむーくんなら包まれる感覚を味わえる。
ぎゅうとどこもかしこも隙間なく「パパ」がいて、安堵する。
日常の小さな「甘え」には私で、命に関わるような大きな安心感がほしいときはむーくんなのだ。
こまかな理由なんてノコは考えていないだろうが、その使い分けに私は笑ってしまう。