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現代の学級経営における最適解は…『選択』型学級経営である

『自分で決める』力こそ子どもたちに身につけさせたい力 

 多様性を尊重した学級経営、保護者からの様々な要求、グレーゾーンの子どもたちへの対応…。現代の学級経営は、一昔前のある意味『力』によるマネジメントはかなり難しくなっています。初任者や若手教員ではなおさらでしょう。そこで、今回は「選ぶ機会を与え、決める」回数を増やすことで、学級経営が円滑になっていく可能性を示したいと思います。


 例えば、ある児童が宿題でなかなか提出物がそろわない場合、決して怒ることはせず、翌日の宿題を「やる」か「やらない」かを選択させます選択したからにはやろう、と声掛けをします。その翌日もできなかった場合は、生活習慣の乱れや学習の停滞など何らかの事情があることが多いです。そして最終的には宿題をやらないこともえらんでいいと伝えます。ただ、「お家の人とも相談が必要だよ。」との声掛けは必須です。(そもそも『宿題』という言葉を遣うとアレルギー反応を起こす人が多いですが、必ずやる課題ではなく、やらないよりやったほうがためになるかもしれない課題、くらいのイメージです。その部分について、保護者会などでの共通理解は欠かせないと思います。)

 別の例で言えば、決められた係に何人入らなくてはならないという『係活動』ではなく、自分たちで会社を作り、自分たちで「クラスのためになる」ことをミッションにして活動する『会社活動』などがあります。
 また、忘れ物をする子に対しては、「忘れ物をしない努力をしよう」、と伝え、その上で、どんな努力をする?と具体的な行動を導き出す声掛けができます。

 これらを実践する背景には、あくまでの自分の行動は自分が決めている感覚を持たせることにあります。


「学校では我慢も教えるべき」という考え方

 念のため、ありえる反論について答えておきます。
「学校では我慢も教えるべき」というものです。叱責を受けながらも我慢を知ることも人間として大切なことで、学校教育でこれまで培ってきたものであると思います。
 しかし、意味が分からない(理解できていない)我慢をすることは果たして効果があるのでしょうか。意味も分からず『ダメだから』という理由で禁止されたり、強制されたりして、我慢した力はどのように役立つのでしょうか(幼児期の動物的な我慢は別)。本来、法律と同じように我慢をすべきは、『命にかかわること』や、『人に迷惑がかかること』、『人を傷つけること』などであり、ルールや決まりは確かに必要ですが、いつの間にか形だけになり、教師も子どもも実際のところ禁止される理由がはっきりと分からなくなることが多いのではないかと思います。
 「社会はそんなに甘くはない!」という言葉もあるでしょう。それなら、そのことを子どもにわかるように伝えて、ルールが厳しく、叱責を受けながら育つことができる環境を選択させればよいのです。(まだまだ反論はたくさんあると思いますが、反論のほとんど全て「パターナリズム」という考え方になります。)

AI時代の教育の最適解とは

 これからのAI時代の教師の役割は「教え、導く」(Teaching)だけでなく、「環境の中で学習できる機会を作る」(Coaching)役割も大きくなります。
そもそもAIや機械は、合理的な判断を得意としています。
 人間を人間たらしめるのは、合理的な判断もしつつも、決定的なところでは非合理的な決定をすることであり(結婚など…!?)、その非合理的な決定に悩みながらも他人のせいにすることなく自分自身でよしとすることこそ、面白みがあるものです。
 その重要な決定をする際、それまでどれだけ自分で人生の舵を自分の手で切ってきたかという経験は小学校時代から培うことができるのではないかと考えています。

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編集後記

自己決定能力がないから自己決定させないのではなく、自己決定能力がないからこそ、それを培うための自己決定経験の重要性を今回は書かせていただきました(今回は〈責任〉の問題は、一度横に置いています)。

※これから終身雇用も危ういものになり、年金はもらえるにしても自助努力が必要な世の中になるとき、キャリアを自分で形成していくためには、やはり自己決定と自己責任がキーワードになります。令和の時代になっても民主主義でなく、世間の空気や権威者の発言で動くいまだに全体主義の日本や組織を変えることができる力をつける教育システムの在り方を考えています。

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