読書感想文:自然を名付ける―なぜ生物分類は直観と科学が衝突するのか

人は誰しも側頭葉の特定の部位に生物を分類するための能力を備えている。驚くべきことに事故やウイルスによってこの部位にダメージを受けた人はイルカとペリカンの違いもわからなくなるそうだ。この分類能力は子供が自然の魅力に取りつかれ夢中になって恐竜の名前を覚える原動力であり、同時に科学にとっては客観的な真実を解き明かす際に邪魔になる主観という壁だった。この本では分類学が主観を乗り越えて、客観的な真実を導き出す科学へと脱皮するまでの激闘をリンネやダーウィンといった偉人を主人公にまるで小説のように美しい描写で描いていた。

素人生物好きの僕は生物の分類について疑問に思っていたことがいくつかあったのだけれど、この本はそれまで持っていた多くの疑問に答えてくれた。
特に、主観を打ち破る科学的な手法について述べた章はこの本は自分のために書かれたんじゃないかと思うほどだった。

生物関連の記事やニュースを見ていてこれにはどういう意味があるんだろうとこれまで引っかかていたことがあった。
例えば、実は恐竜は絶滅していなくて今も鳥類として生きているんだとか、クジラとイルカの違いは大きさだけとか、トゲアリトゲナシトゲトゲがどうのこうのとか。
昔だれかが勝手に決めた生物の境界線をただ別のところに引き直しただけのことになんの意味があるのだろう、なんてことを思うのだ。

例えばこの世界に生きる生き物のうち、羽と嘴があって卵を産むやつらのことを鳥と呼ぶ。同じように、何らかの共通点を持つ生き物たちを恐竜と呼ぶこともできるだろう。
このとき恐竜と名付けるために使った特徴をすべての鳥が持っていれば鳥を恐竜と呼んでも差し支えないはずだ。

とはいえ僕らが恐竜とイメージする生き物にあって、鳥にない特徴なんていくらでもある。
鳥の体はウロコに覆われていないし、前足も歯もない。

それらを使えば鳥と恐竜が別のものとなるようにそれぞれを定義することはできる。
逆に、恐竜が鳥を包含するような定義でそれらを分類することもできるだろう。

問題はそれらの分類のうち、どれを採用するかということだ。
どの分類が他の分類よりも優れているなんてことを判断する明確な指標なんてあるんだろうか。

鳥は実は恐竜であるとか、クジラとイルカは大きさが違うとか、恐竜と爬虫類の違いは骨盤の穴があるかないかだとか。
それは誰かが決めたルールを教えてもらっただけで、自然やこの世界の真実が明らかになったわけでも何かの理解が深まったわけでもなんでもないんじゃないか。
それって面白いのか、意味があるのか、そんな疑問に思っていた。

一方で、そこに科学のにおいを感じてもいた。
鳥が恐竜の一部から進化して生まれたというのがそのにおいのもとだったように思う。
それを考えると、イルカはカバと近い動物だなんて言うのと同じように、鳥と恐竜は間違いなく近縁の存在なのだろう。

それでもまだ鳥=恐竜と言ってしまうとよくわからない。
だって魚が進化して両性類になったんでしょう?両生類が進化して爬虫類だとか哺乳類になったんでしょう?
哺乳類は両生類だなんて言われてもよくわからないのと同じように、鳥は恐竜だなんて言われてもよくわからないのだ。

他にもまだ疑問はあった。
鳥は恐竜から進化しただとか、魚から哺乳類に至るまでだとか言った進化の物語はよく聞くけれど、その物語が何を根拠にその話を真実だとみなしているのかがよくわからなかった。

確かに図を豊富な本であれば魚から爬虫類に至るまでの太古の生物の化石や復元図が載っていて、説明を聞くと確かにその過程は連続であるように見える。
しかしこの似ているように見えるだとか、こういう方向に進化しているように見えるというのは科学的な方法なんだろうか。
よく統計学で指摘される相関関係と因果関係の取り違えが指摘されるけれど、そんな間違いが起こらないような科学的な方法でこの物語紡がれているのだろうか。
そんなことが僕は気になっていた。

そんな僕にとってこの本はすさまじかった。
これらの疑問のほとんどが解消されたのだ。
これまで見てきた記事で議論されていた生物の定義はいくつもの立場でなされた分類が入り乱れたものだったが、科学的な分類においては鳥類を恐竜の一部とみなすとき哺乳類は魚の一部だった。(それが納得できなかった多くの人たちは魚という分類を公で使うことを諦めたようだ。)
主観的に扱うことしかできないんじゃないかと思っていた生物の特徴だったが、進化を導き出す明確なルールを見つけ出した。

ダーウィンが進化を発見してから、分類はただ単に共通する特徴でふるいにかける作業ではなくて、生物が歩んできた分岐の歴史を記述する学問へと生まれ変わったのだった。

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