読書感想文:ドーキンスvs.グールド
動物行動学者リチャード・ドーキンスと古生物学者スティーブン・J・グールドの進化をめぐる考えの対立を整理した本。
私見も混じるけれど、以下はその内容のまとめ。
ドーキンスは「利己的な遺伝子」の著者。生物は遺伝子が乗る乗り物であって、環境による淘汰を受ける主体は遺伝子であると唱えた人物だ。彼の進化観は、環境に適応した小さな変化が何度も起こり、その変化が累積することで進化が起きるというもの。1つの遺伝子の変化は魚を両生類にするほどの大きな変化を引き起こすわけではないが、それによって引き起こされる小さな変異が過去のものより優れたものであればそれは淘汰によって生き残る。そうした小さな進化が幾度も起こり蓄積されることで、新たな種が生まれる大きな進化も生じるという考えだ。
それに対しグールドは淘汰を受けるのは生物個体であると考えており、さらに淘汰は進化を形作る一要因ではあるもののそれだけで進化を説明できるものではないと論じている。彼は偶然による作用をドーキンスよりも重視していた。ドーキンスの考えは一見整合性がとれているように見えるが、実際の遺伝子の作用は彼のモデルほど単純ではない。数多くある生物の特徴はたった1つの遺伝子からなるものではなく、いくつもの遺伝子が組み合わさって成り立っているからだ。
例えばある特徴に影響を及ぼす遺伝子があったとする。しかしその特徴に影響を及ぼす遺伝子は複数あることが普通であるため、そこに突然変異が起こることとその特徴が変化することは必ずしも一致しない。その特徴に影響を及ぼす遺伝子セットが特定の組み合わせのときにはじめて、新しく現れた遺伝子が威力を発揮する。
そして、ある個体に突然変異が生じ、幸運にもその突然変異がうまく機能するような遺伝子セットをもっていたとする。その場合、その新しい特徴が環境に適応した優秀なものであれば、確かにその個体は生き残る確率が高くなり多くの子供を残せるだろう。突然変異した遺伝子が子供に遺伝する確率は1/2ではあるけれど、それでも確実に多くの子供を残すことができるのならその新しい遺伝子が次の世代に受け継がれる可能性は高くなるだろう。
問題はその次の世代だ。そうして生まれた子供は親とは異なる遺伝子セットを持っている。つまり、たとえ親世代で起きた突然変異遺伝子を受け継いでいたとしてもそれを活かす遺伝子セットは持っておらず、親が持っていた優れた能力は子供には引き継がれないことになる。その能力を有する個体が再び生まれるのは、近親交配などで親がもっていたデータセットが再現されるか、うまくいく遺伝子セットが偶然現れるのを待つ必要がある。それまでその遺伝子は淘汰には全く関わりにならないまま受け継がれたり失われたりするのだ。
このような小さな進化が大きな進化となるまで累積するには越えなければならないハードルがある。
この新しく生まれた遺伝子とその特徴に影響を及ぼす遺伝子セットが多数の個体で共有される必要があるということが1つ。
もう1つはその過程が多数の異なる特徴についても同じように繰り返されなければならないということだ。
そのような幸運の連続は確率の問題なので長い目で見れば起こりうることなのかもしれないが、グールドは古生物学者らしい視点でそれを否定している。
化石からもたらされる証拠によって、地球上の生物が幾度も大量絶滅に見舞われたことがわかっている。そして、その大量絶滅後の地層ではそれ以前には見られなかった種の化石が大量に発見されるのだ。
これらの化石は、大量絶滅が5万年程度という地質学的に見ればごく短い時間で起き、その後の進化は多数の種で同時に起こったことを示している。グールドに言わせればこの5万年という時間は、異なる特徴に関わる変異が別個に蓄積されていき、同じようなことが多数の種でも起こるには短すぎるということらしい。
これに対するドーキンスの反論があったり他にもトピックはあったけれど、メインはこういうことだと思う。
ドーキンスらの言う進化メカニズムにかなり否定的なグールドだけど、だから進化論は間違いなんだなんてことは全然言っていなくてグールド流の進化メカニズムも考えていた。
このグールドの考えに関しては、中立進化説の古いバージョンといった感じ(僕の主観的印象)。
例えば現在ホッキョクグマは地球温暖化によって絶滅の危機に瀕している。これまでホッキョクグマに淘汰が働いていたとすると、それは寒い環境に適応すべしというルールで起きる淘汰であって、それにより獲得された特徴はその後の熱い環境で生き残るべしというルールにおいてはなんらポジティブな影響を与えない。たまたまそのとき持っていた特徴で選別が行われるため、生物の歴史は淘汰よりも偶然に左右されることになる。
生存競争のルールがそれまでと違うとはいえその環境で適応的な能力を持っていれば生き延びる確率が増すのだからそれも淘汰の1つなんじゃないかという気もするけれど、特定の環境で淘汰がはたらくと小さな進化が積み重なって大きな進化が生じるっていうそれまで淘汰が持つとされてきた進化の方向を決定づける力をグールドは(部分的に)否定したんだろうと思う。
よくダーウィンが言ったとされるように(実際は言っていない)、生き残るのは変化に対応できた生物なのか?いや、そうじゃなくてたまたま生き延びたやつらが進化を決定づけているのだろう、という話だ。
とはいえグールドの考えは生物個体の特徴が遺伝するメカニズムについて何も説明していないので、どうやって進化が起きているのかについては説明足らずな感じが否めないと思う。これについては後の中立進化説を待つ必要があったんじゃないかな。
本の内容をまとめるとそんな感じ。
まとめといいつつ結構長い文章になってしまった。
最後にこの本のタイトルであるドーキンスvs.グールドの決着についてだけど、これはその後の中立進化説の登場によってドーキンスとグールドの考えは1つの理論として統合されたように思う。アウフヘーベンとでも言うのだろうか。
中立進化説は、遺伝子の変化のほとんどは環境に対して有利でも不利でもなく中立的にはたらいていて、その変異は確率的に集団内で保存されたり消失したりするというもの。この説はドーキンスが考えたように生物形態の根源である遺伝子を主体として生物の進化を理解しようとする考え方だが、これによって説明されるのはグールド的な偶然が進化に及ぼす影響である。
中立的にはたらくというポイントは、グールドがドーキンスに対して行った遺伝子は組み合わせによって機能するため淘汰の作用を受けないという指摘そのものであるし、大量絶滅についても中立説は長いインターバルの間に次なる大量絶滅の備えが行われる可能性を示しており、大量絶滅時にたまたま持っていた特徴で選別が行われるというグールドの考えを遺伝的に説明する理論だ。
これは淘汰のメカニズムと並行して作用するはたらきであり、現在ではドーキンス的な淘汰が主導する進化もグールド的な進化に対する偶然の作用もどちらも生物の進化の歴史に大きな影響を与えると考えられている。
さながら星を継ぐもののハントとダンチェッカーの間で起こった理論の対立のように、対立していた2人の論に勝利者はなく1つの理論として統合されるに至ったのだ。(あくまで私見)