多様性の欺瞞を暴いた先で、僕たちは繋がれるのか 朝井リョウ『正欲』
私がこの小説を初めて読んだのは2年前、新しく知った多様性という概念を万歳三唱して信じてみたけれど、それで自分の人生が救われるわけではないと気付いた後だった。
発刊間もないハードカバーを定価で買って読み、本棚の一軍エリアにしっかり並べていた朝井リョウの『正欲』。こないだふと、もう一度読み返してみようと手に取った。当時書き散らした未完の感想文も発掘したので読み返したら、ずいぶん多様性に対して反動的な書き味で笑った。揺り戻しもある程度落ち着き、物語のあらすじを理解した今なら、新たな発見があるかもしれない。読み直している最中に近々『正欲』が映画になることを知って、読後の感想を取りまとめる良い機会だと思った。
以下、『正欲』本編に触れるのでネタバレ厳禁の方はご注意を。
『正欲』が読者に提示する問いはいくつかあるだろう。その中でまず語るべきといえばやはり、正しい性欲とは何か、だ。
「多様性」から零れた人
伝統的な価値観において、正しい性欲とは男女間に発生する欲情のみを指す。いわゆる異性愛規範である。人々は男女同士で番となって子供を作り育てるように、と社会から仕向けられてきたし、実際多くの人にとってそれは自身の自然な感情に沿ったものだった。
これに対抗するべく反撃の狼煙を上げ、東京を中心に大きな勢力を誇るようになった概念が「多様性」である。男と女しか想定されない旧来型の世界認識に対して、「多様性」では性自認、性的指向、性表現という概念を投入する。心の性、性的な興奮が向かう性別、自分の表現したい性別といった複数のパラメータを導入することで、2種類に見えていた人間分類の複雑さを明らかにする。そこでは例えば、従来の男と呼ばれるものは、身体の性が男で性自認が男で性的指向が女で性表現が男、であるとされる。これだけあちこち変数があるのだから人間の在り方は性的に多種多様なんだ、ということが示される。
「多様性」という概念の導入が最も追い風となったのはLGBTQと呼ばれる人々だ。それぞれ、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアの頭文字である。平易な言葉にひらくと、女性や男性の同性愛者、性的指向が相手の性別にとらわれない人、身体の性と心の性が一致しない人、その他少数派全般、といった感じだ。伝統的価値観に放り込まれたら「女なら男と結婚しろ!」とか「男が女みたいな格好するな!」とか言われてしまうこと必至な人々である。彼らの性的な欲求は伝統的価値観にうまく馴染まない。だから、世界を変えようと動き出した。抑圧と不幸を強いられてきた人々が、自分たちの幸せを掴むため立ち上がったのだ。彼らが中心となって社会に働きかけたことで、「多様性」は時代の寵児となった。
自分の欲求の大切な部分が社会の求める形と異なっていること。求められるものと差し出せるもののミスマッチ。それは誰だって生きづらい。いやそもそも、社会からの要請に心を殺して従うなんて不幸せなこと続けなくてもいいのではないか。本人が自分の生きたいように生きるのを、社会の方も認めるべきじゃないのか。まさに、みんなでつくる「みんな違ってみんないい」社会の到来というわけである。
しかし、この素晴らしき「多様性」を腐す輩がいる。
『正欲』冒頭の独白である。
後に、作中人物の一人によって書かれたものであることが分かるこの独白には、世でもてはやされる「多様性」に対する不信感、疎外感が表れている。なぜ書き手は、この回り続ける世界から、そして世界から零れ落ちた人たちを掬い上げるはずの「多様性」からも孤立した感覚を覚えるのか。それは、彼の性的指向が 水 だからだ。
水。すなわち、無機物。人間以外のもの。LGBTQという「多様性」のキーワードを思い出してほしいが、この単語の中心にあるのはあくまで人間に対して性的な興味関心を抱く人々である。その興奮の矢印の指す方向は様々だが、しかし人間同士の中でぐるぐるしているだけだ。つまり彼ら、人間に欲情する者たちがマイノリティの中のマジョリティというわけである。(ただし、矢印自体を持たないアセクシャルという属性も認知されてはいる。)
それに対して、水に欲情する者はマイノリティの中のマイノリティ。まず、そのような人がいると想像されない。価値観が「アップデート」されていない人に向かって諭すとき「もうそういう考え方は古いの。最近はLGBTQって言ってね、」の次の言葉は「同性が好きな人とか、心と体の性別が違う人だっているんだから!」だ。ここで水に興奮する特殊性癖の人を念頭に置く人はまずいない。というかそもそも、水に性欲を感じる人を私たちは想定すらしていない。想像の及ばない場所を、彼は生きている。
水に性欲を覚える登場人物が記憶している昔の出来事、中学校の教室で、蛇口を盗んだとして新聞記事に載っていた容疑者の「水を出しっぱなしにするのがうれしかった」という供述が読み上げられたときのクラスメイトの反応。たぶんこれは、時代時代で「正しい」性欲側じゃなかった者が浴びせられ続けてきた言葉なのだろうと思う。(彼らは水を出しっぱなしにする欲望が分からないわけだが、ましてやそれに性的な意味が含まれるとはついぞ思わないだろう。)
人の持つ性欲が「正しい」かどうかは、つい百年前は同性愛が変態性慾と呼ばれていたことからも分かるように、時代や場所によって判断が分かれる。
けれど正確に言えば、判断が分かれうるのは、「正しい」とされる性質のうち周縁部のものである。中心部にあるもの、つまり異性愛規範は常に正しくてまともとされてきたし、これからもその構造は変わらないだろう。なぜなら、人は異性同士の生殖によって発生するからである。
「リア充爆発しろ」とのたまう健全な中高生の多くが気付くことになる事実に、身近に生活している両親という生き物はリア充であり、自分という存在は二人のリア充のあいだから生まれたのだということがある。試験管ベビーによる人口の計画生産などといった代替手段が発生しない限り、人の存在には異性へ向ける性欲(少なくとも男から女への性欲)が絡む。
異性同士の生殖によって人間の存在が成り立っている以上、彼らは常に多数派であり、社会のマジョリティであり続ける。そして、正しさとは、何か哲学的・倫理的・道徳的な観念の彼方から形而上的に演繹されるものではなく、その場の力関係の中で多数を占めるかどうかによって帰納的に決まる。そういう「異性愛って間違いなく『正しい』よね」という前提、その前提すら人々に意識されない状況のもとで、その時その場所における社会の懐の広さや匙加減次第で、「正しい」とされる性欲の幅が増えたり減ったりするだけのことだ。
所詮は社会が理解してオッケーと言える範囲でしか「正しさ」の風呂敷を広げられないのに、誰一人取り残さない社会なんて不可能なのに、これこそ人類が目指すべき理想的な価値観だというような顔で大手を振っている。しかも、「多様性」を喧伝する本人やその思想の流行りを感じる市井の人々だって、「いやあ、私たちも考えをアップデートしていかないといけませんねえ」なんてポーズを取っているに過ぎないのではないか。
単なる建前に成り下がりうる流行りの「正しさ」、その輪にすら入れてもらえない私。
きらびやかな「多様性」の世界から取り残された人から見た世界とは、このようなものである。
「多様性」をめぐる多様な視点
この作品の良さに、全然違った立場にいる人それぞれの思考とその弱点が記述されている点があると思う。
この小説は、ある児童ポルノ違反の事件が起こるという結末を初めに示し、その日の方向へ、複数人の一人称視点を行き来しながら進んでいく。
啓喜は、検事として社会正義を実現する立場にいる。「正しくない」行為の基準を越えた人を適切に起訴する仕事をするかたわら、不登校の息子を抱える。なんとか息子を人生の「通常ルート」に戻してあげようとするが、妻子との心のすれ違いから徐々に家庭での居場所をなくしていく。
夏月と佳道、そして大也の三人は、水に性的興奮を覚えるマイノリティという立場にいる。全員、自身の性的感情を周囲の誰にも打ち明けずひた隠しにして生活を送っている。夏月と佳道は社会人としてそれぞれ働いており、中学時代の同級生という関係から同窓会で再会する。紆余曲折を経て、夏月と佳道は一緒に生活するようになる。
八重子は、大学の学祭の実行委員としてダイバーシティフェスを企画しており、「多様性」を実現しようとする立場にいる。八重子と大也は同じ大学の学生であり、二人はフェスのイベント準備を通じて知り合う。
田吉は、終盤のワンシーンだけだが、「正しい」側の保守派の立場から、児童ポルノ容疑で逮捕された同僚に対する印象を語る。
多様な視点から語られるそれぞれの思考が、どれも生々しい。
欲望の「正しさ」の格差
『正欲』を語る上でのキーワードには「正しい性欲」のほかにもうひとつ、「繋がり」がある。これは、八重子がダイバーシティフェスを象徴するテーマとして思いついたものであり、序盤から最終盤まで繰り返し登場する。冒頭の「多様性」を腐す独白も、自身と社会が繋がっている感覚を得られないことについて語っており、「繋がり」に関する内容である。
作中において、水に性欲を覚える夏月と佳道の二人は、偶然と勇気を積み重ね、お互いが同士であることを縁にして一緒に生きていくことを決めることができた。その二人の想い合う強さは、「どうしてお互いに、いなくならないことを誓い合えるのだろうか」と、家庭を持ちこれまで「正しい」側にいたはずなのに家族との繋がりを失ったように感じている啓喜を放心させるほどだった。
残された課題は、八重子と大也のような、立場の異なる者同士が手を取り合うにはどうしたらいいのかという点であろう。
八重子と大也が「繋がり」を持つことの困難には、その欲望が「正しい」かどうかという差があるように思う。つまり、八重子の性欲である異性愛と、大也の性欲である水への性的興奮には、その欲望が「正しい」かどうかという違いがある。
八重子の欲望は、自分も異性愛に参加したいというものだ。自分も男性と恋愛関係になってみたいが、自身に美貌がないためにそれが叶わないと彼女は考えている。その場を支配する価値観を自意識の上では否定しているものの無意識で承認していて、なおかつその価値観に照らして自分が劣位であると主観的に認識するときの、居心地の悪さ。ゆえに息苦しい。
だが、基本的に彼女の異性愛は社会に肯定されている。「ほんとは男の人と恋愛したいんだよね」と言えば周囲から承認されることが確定している正しい欲望、「正欲」なのだ。
一方の大也の水に対する性的興奮は、社会に承認されない。田吉のように、異性愛をやらない人間はまともじゃなくて気持ち悪い、と感じる人もいるだろうし、啓喜のように、そんな欲望が存在するなんて理屈は通らないんですけどね、と言う人もいるだろう。
いや、八重子なら、「実は水に性的興奮を覚えるんだよね」と告白してみれば、案外すんなり大也の欲望を承認してくれるかもしれない、というような反論も考えられるだろう。
しかし、そのような反論こそが大也の言う「ムカつき」の源泉である。
この指摘は的を射たものだと思う。私たちの欲望が「正しい」のは大前提なんだけど、私はあなたの欲望も「正しい」と認めてあげられるよ――たぶんね! 結局、社会を構成する中心的な価値観から逸脱した者は、「正しい」人々からの上から目線な品定めを受け、お目溢しを頂くしかないのだ。しかも、こちらは異性愛を確実に承認しなければならないにも関わらず、向こうは気分次第で「正しい」かどうかをスライドさせることができる。実際、八重子がなにをどうしようと彼女の欲望の「正しさ」は奪うことができないのであって、「正しさ」による上下構造を壊すことは不可能である。だとしたら、つまり「正しさ」の前で腹ばいになって生殺与奪の権を渡すくらいなら、世間様に暴かれることなく静かにほっといてもらえたほうが有り難い、というのが大也の思想である。
このような大也の態度を、八重子は「そうやって不幸でいるほうが、楽なんだよ」と批判する。これもまた一理ある。
動機はともあれ、八重子は社会に対して行動を重ねてきている。確かに、彼女の行動には批判の余地がある。彼女の望む異性との恋愛関係の成立に性的な眼差しは必要不可欠であるにも関わらず、性的な視線を毛嫌いして、ダイバーシティを掲げたりミスコンを廃止したり性的消費を問題視したりするのはある種ルサンチマン的な感情によるものと言えなくもない。それは「正しさ」を味方につけた個人的な復讐劇という面も捨てきれない。(そして、自身が大也に向ける視線の熱量に対して無自覚・無批判的である。)それでも彼女は、ブスの僻みとなじられながらも、社会を自分にとってより良いものにしようと働きかけ続けているのだ。その行動力は、大也にはない彼女の持つ良さだろう。
八重子と大也には互いに事情があり、それぞれの立場から見える世界について赤裸々に語っている。だからここで問題になるのは、どちらがより「正しい」かではない。どうすればこの先二人が「繋がり」を持てるか、だ。
いや、それは案外簡単だろう。八重子は、大也が児童ポルノ容疑で逮捕され、世間的に「大也は小児性愛者だった」という認識が確定したあとも、大也との「繋がり」について思いを馳せている。八重子という個人に限って言えば、大也との「繋がり」を保つことができると言っても良いだろう。
だから、問いは次のステップへ移る。
私たちの社会は、社会的に隔離されたり抹殺されるべきと思われるような他者と「繋がる」ことができるだろうか?
誰もがマイノリティになりうるが
佳道と夏月が戯れに、世の中で「正しい」性欲の発露とされる男女の性行為の真似事を試すシーンがある。そこから少し引用しよう。
正直ここはめちゃくちゃ美しいシーンだと思っている。特に最終行の、マイノリティとして抑圧と絶望を感じながら生きてきた佳道が生まれ落ちた境遇の恵みに気付いて感謝するところが良い。
異性愛規範の中で家庭を持ち「正しさ」のど真ん中を歩んできた検事の啓喜も、行為中の妻の涙に性的興奮を覚えるという自分の性癖への自覚から、自身が社会のレールから外れたマイノリティになる可能性へのヒントを得た。
誰もが、何かしらの場面でマイノリティになりうる。全ての場面で多数派であるものも、マイノリティ性が存在しないというマイノリティ性を抱える。であれば、もしその欲望が多数派でなかったとしても、つまりその欲望に「正しさ」が無かったとしても、その欲望を持ってはならないという理由にはならない。
全ての欲望は肯定される。
しかし、欲望の実現においてはそうではない。
現実問題として、仮に殺人願望のある人が本当に人を殺してしまったら社会を運営していくことが不可能になるからだ。そこで人間社会は、やってはいけないことをルールとして法的に規定し、殺人罪とか窃盗罪とかその他もろもろの迷惑行為を列挙し刑罰を定めた。しかし、人の心とはそれだけで収まるような性質のものではなかった。
例えば、隣の家の住人が水に興奮する人だったとき「まあそういうこともあるわな」と思える人でも、隣人が殺人癖の人だとしたら同じ態度が取れるとは到底思えない。いつかその刃が自分や家族に向かった場合を想定して、自分に関係のないどこか他所へ隔離しておいてほしいと思うのが人情だろう。つまり私たちは、潜在的にルール違反しそうな構成員を、実際にルール違反する前からあらかじめ排除しておきたいと考えるのだ。
ここが、問いの鍵である。
それでも私たちは繋がれるか
私たちの社会は、受け入れられない欲望を持った人を、本人がその欲望を実現したいと考えているかどうかに関わらず排除しようとする。「繋がり」を絶とうとする。
だから、その欲望の「正しさ」が保証されない人たちからすれば、自身の欲望を開示しないことが最適解となる。大也のように。
そしてそれゆえに、「正しい」側として社会を円滑に持続させたい人たちからすれば、「正しい」欲望を実現している様子もないわりに自身の欲望の開示もない怪しげな個体をあぶり出して排除しようとすることが最適解となる。田吉のように。
これが、今日の社会における「正しい」欲望をめぐって成り立っている均衡である。
確かに、水に興奮する人なら放っておいても無害かもしれない。嘔吐フェチ、丸呑みフェチ、状態異常/形状変化フェチ、風船フェチ云々……何歩か譲れば彼らも無害かもしれない。しかし、小児性愛者は? 凶悪犯は?
多様性の欺瞞が暴かれた今、私たちは、それでも彼らと「繋がる」ことができるだろうか。
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