【基礎教養部】穂村弘「短歌のガチャポン」書評
短歌に限らず,詩というものは論理的な文章とはその位置を異にする.詩においては,一見そこに存在する言葉の前後の繋がりが乏しくとも作品として成立しうる.むしろ突飛な,読者の予想を超えていくような繋がりが存在する詩の方がそこで表現される世界が広がり,深みを増す場合も多い.もちろん,そのような非論理性を「わからない」として一蹴してしまうような意見も存在するとは思うが,そもそもこの世界において論理で片付けられる領域が果たしてどの程度占有しているのだろうか.むしろ,短歌や詩のような,感性の思うまま動く言葉によって語られうる領域の方が,この世界には多いのではないだろうか.
技術社会化,情報社会化の進展によって非論理性,感性といった生が持つ実態について捨象する風潮がより強まっていく中,詩や短歌といった作品はしばしばその価値を忘れられがちになっているとは感じる.しかしながら,論理というのはあくまでも道具に過ぎず,道具の持ち主が持つ感性や情動によってその使用方法と使用価値が定まるのである.
普段,研究という主に論理的な思考を扱う営みに従事している私も特にそう思う.研究が持つ意義が定まる上においては,実験,プログラミングや論文執筆といった具体的作業の内容というよりもむしろ研究対象を選定する,問題意識を持つ段階における感性による要因が大きいと考える.何について興味を持つか,何を面白いと思うのか,それを嗅ぎ分ける能力が重要なのである.それを涵養するには,自己が従事する研究領域とは離れた場所においても貪欲に触れていく姿勢を取っていくしかないと考える.結局は,「面白いもの」「価値あるもの」に触れていくしか,面白いものを見極める能力など養い得ない.その意味においては,今回書評の対象として読んだ穂村弘「短歌のガチャポン」は有意義な本であった.
以下は,「短歌のガチャポン」について私が気になった短歌を気ままに挙げ,紹介する文章である.
P178, 「たまらなく 不安なのよと 訪ね来て 北一輝一冊 借りてゆきたり」
本に載っている短歌集をパラパラと流し見していたとき,真っ先に目が止まったのがこの歌である.北一輝とは戦前期の日本を代表する思想家の一人で,天皇制と社会主義,ファシズム,リベラリズムをごちゃごちゃに混ぜて煮詰めたような独特の理論が特色を放つ人物である.
私も「国体論および純正社会主義」,「日本改造法案大綱」などの一部を読んだことがあるのだが,「憲法を一時停止し,天皇親政体制を築きつつ財閥,地主などが持つ財産はあまねく国民へ分配する」など迸る狂気と冷徹な論理が同居する文章に目が眩んだ思い出がある.北一輝の文章に感化された青年たちが,陸軍将校となり2・26事件などのクーデター未遂を起こし,また官僚となり「最も成功した社会主義国」と称される現代日本の基礎を作り上げた.そのような,人を動かせるような威力を放つ文章を執筆できてしまった思想家こそが北一輝なのである.
そのような北一輝の著書を,たまらなく不安だから借りてしまうような状況が世に存在したとは…私の想像の範疇外である.確かに,一種の爽快感はあるかもしれないが…
この歌は学生運動期に読まれたものであるそうなのだが,時代性の隔絶を感じる.
P54, 「前科八犯 この赤い血が 人助け するのだらうか 輸血針刺す」
P78, 「ふきあがる さびしさありて 許されぬ クレヨン欲しき 死刑囚のわれ」
どちらも犯罪を犯したものの心境を綴った歌である.輸血される血にまで責任が及んでいると思わずにはいられない心境,また市井の生活では何気なく使えるクレヨンですら自由に使えないことを思う心境が描かれている.もちろん,犯罪を犯したならばそれを償うのは当然のことではあるし,日本においては殺人や放火など極めて重大な犯罪であれば自身の生命でもって償うべきだ,とされている.しかしながら,罪を償う過程とは得てして極限にまで自己を見つめ直すという行為そのものとなり,そのような状況でしか獲得し得ない心境というものは確実に存在する.この2首は,典型例であると思う.