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南京虫 5/7
大学時代の仲間である赤崎を発起人として、同じく仲間の清田を加え、四月から三人で起業することになった鹿野。赤崎と清田は独身だが、鹿野は妻子のある身で、起業に対しては相応にネガティブでもあった。それでもなんとか創業に漕ぎ着けた三人は、職を辞するにあたってトラブルに見舞われ香港からの帰国がすぐには叶わない赤崎を措いて、まずは鹿野と清田の二人で手始めに老人介護の施設を営業に訪れる。しかし図らずも商品の不出来を施設利用者から指摘されて、鹿野の評価においてその営業は不首尾に終わった。営業巧者を自認する赤崎は、二人に任せてはいられないと早々に香港の会社を切り上げ、ついに鹿野と清田に合流する。
さる大手学習塾の広報宣伝部は、本郷にある雑居ビルのワンフロアを占めていた。パーテーションで仕切られた六畳ほどの応接間に通された赤崎と鹿野は、そこでかなり待たされることになる。前の会議が押していると、私服の上に会社支給のものと思しき紺のカーディガンを羽織った案内の中年女性が何度か顔をのぞかせて詫びた。幸先の悪さは明らかだった。
三十分ほどして現れた三人はしかし、名刺の肩書きを見るかぎりなかなかの顔ぶれだった。さきがけが専務取締役、続いてグループ教育本部長、そしてしんがりが広報宣伝室長。専務取締役は豊かな白髪をうしろに撫でつけた六十絡みの小柄な男で、赤銅色に焼けた皮膚から年がら年中海釣りを勤しむものと見えた。グループ教育本部長は五十前後の、百九十センチはあろうかという長身痩躯の猫背で、紺地に白の細いストライプの入ったスーツはスーツ量販店で販売されるうちの上位ランクのそれで、眼鏡の向こうのハの字の眉からは負のオーラが漂っていた。特筆すべきは広報宣伝室長で、年齢はひょっとするとグループ本部長より年嵩の五十後半、専務取締役と変わらぬ短躯の腹ボテで、上が紺、下がグレーのいわゆるジャケパンコーデに赤の蝶ネクタイ、眼鏡は鼈甲縁ときて、ひとり香水の匂いをぷんぷんさして、さらには例えば胸に挿したるはモンブランのマイスターシュティックだったり左手首に嵌めたるはロレックスのデイトナだったりと持ち物にもこだわるようで、その浮きっぷりに鹿野は目を丸くせずにはいられなかった。
専務取締役は清田が長年講師として勤めていた学習塾の塾長と高校からの学友であるらしく、挨拶にちょっと立ち寄ったまでだと断って、名刺交換を終えるとそそくさと立ち去った。
「実松さんは、弊社の創業時のメンバーのお一人なんですよ」
広報宣伝室長がいった。実松とは、清田の勤めた塾の塾長のことである。
「当時はアパートの一室を借りて近所の子どもたちを集めて教える寺子屋のようなものでした。講師のほとんどが東大生もしくは東大卒というのがアタりましてね、みるみる規模が拡大していった。八十年代のことです。当時は司法浪人をはじめとしたモラトリアムを託つ東大卒生が少なからずいた。そこに目をつけたんですな。契約社員の走りのようなものでした。それも高時給の。そんななか、実松さんは実力者だったが、あいにく私大卒だった。『講師全員東大卒』を広告に全面的に打ち出すとなったとき、それを建前にしてはいけないとご英断されて社を去られた。私は実松さんの最後の教え子でして、大変迫力のある先生でした」
室長の問わず語りを聞きながら、この人たちも東大卒なのかと思って鹿野はいささか恐縮した。そういえば、隣りに控えてさっきからわけもなく相槌を打つグループ教育本部長の眼差しに、こちらを値踏みするような冷ややかなものが感じられなくもなかった。
「御社は教育産業との取り引きがメインなんですか」
教育本部長が口を開いた。赤崎が対応する。
「弊社は元々チラシやフライヤーのデザインから印刷までを手がける印刷屋なんですが、来期よりノベルティ業界にも参入することになりまして、御社は弊社の商品をご紹介させていただく記念すべき最初のお取引様でございます。今後も御社以外の塾様との取り引きの予定はございません。こうした機会をいただけるのも御社専務様と実松様とがご学友でいらっしゃったという縁あればこそで、つくづく縁の大切さに感じ入る次第です。お近づきのしるしといってはなんですが、これは我々のほんの気持ちでございます。お受け取りください」
そういって赤崎は懐よりなにやら取り出して、二人の前へ銘々差しだした。この展開を鹿野は知らされていなかった。
「なんですのん」
本部長が眉を顰めていった。室長にしかり。
ポチ袋だった。それもパンパンに膨れ上がった。なんて馬鹿なことをと鹿野が面食らっていると、
「おや、本部長、これはずいぶんとまたシャレが利いておりますな」
「ほんとだ。『賄賂』と書いてある」
「これも弊社で扱っている商材にございます」
赤崎がすかさず合いの手を入れて深々と頭を下げる。鹿野もやむなく頭を下げた。その間にポチ袋は収められた模様で、顔を上げると、卓上には名刺が置かれてあるばかりできれいなものだった。
このあとまた会議があるとのことで、本部長は早々に席を立った。いよいよ本題に入るかと日めくりのサンプルを足元の紙袋から鹿野が取りだそうとすると、室長の問わず語りがまたどろどろと始まった。中学受験の苦労話をひとしきり語ると、昨今の中学受験の動向へ話題は移り、自身の出身校が近年いかに目覚ましい躍進を果たしたか、要は自慢の繰り言なのだった。こういう手合いを毛嫌いするはずの赤崎が、辛抱強く耳を傾けている。相槌も欠かさなかった。
自慢話が一段落したところで、赤崎は切りだした。
「本日ご提案させていただきたいのが、そんな修羅場の中学受験を、少しでも楽しく乗り越えられないかと弊社が開発したグッズでございます」
すると室長の表情がにわかに曇った、というか、強張ったのが見て取れた。
「中学受験とはそのデフォルトが厳しいものなのであって、これを楽しく乗り越えようなんて甘言は、欺瞞中の欺瞞ですよ」室長がいった。
「そうです、そうですよね。たいへん失礼いたしました。なにぶん言葉が足りませんで……。この日めくりはですね、一日につき、国語なら漢字と知識の問題が十問ずつ、算数は文章題が二題ずつ、理科と社会は一問一答式で十題ずつ、加えて理科は計算問題を二題ずつ記載しておりまして、全部解けたら剥がしてその日一日の成果としてファイリングできるようになっておりまして……」
「これ、著作権の問題はクリアしてるの?」
「あ、はい、一応元ネタはあっても文言や数値はすべて変えてありますし、算数は典型問題ばかりなので、その点は問題ないかと……」
「そうなの。しかし分厚いね。それに」
室長は日めくりを手にしていった。
「重たい。重たすぎるよ。これ、壁にかけるの大変だよ。柱に五寸釘でも打たないととても支えきれない」
「五寸釘はさすがに……このようになった経緯をひとつお聞かせいたしますと、裏面がですね、四分割されていて前日の問題の復習問題が載っているんです。裏表印刷を可能にするために、裏写りのしない紙を選ぶ必要があったというわけでして。ちなみに解答解説については、右隅のQRコードで確認できるようになっています」
「どういう生徒が対象なの?」
「あ、それについては議論を重ねまして、当面は偏差値五十以下の、あまりお勉強に積極的でない小学生のお子さんを対象に、基礎編として販売させていただく予定です。次年度は上位生向けの最高水準編や高校受験編のリリースも考えております」
「いやいや、こんなもん、申し訳ないけど、売れませんよ」
「え?」
「少なくとも上位生には。日々の反復を通じて子どもたちに最低限の知識なり解法なりを刷りこもうという意図はわかりますがね。しかしいまどきの賢い小学生は、小四から小六までのまとめの教材を一冊ぽんと与えて指示さえすれば、一ヶ月で二巡三巡なんて余裕でするんですよ。そして隅々までぜんぶ覚えちゃう。そういう小学生を青田買いしようというのが中学受験の本質なんです。こんな小手先の商材で高を括るような保護者の子どもらに、こと中学受験においては、明るい未来なんてございません。そんな保護者もまた少数です。自分の子どもの出来不出来なんか棚に上げて、猫も杓子も皆上を目指させるんですから。ブランド志向とね、賭博に不可欠な射幸心とが綯い交ぜになって発生する需要に当てこんだ、特異な業界なんです。ここに教育という、なんとなく神聖不可侵と我々が思いこまされているファクターが介在する。教育なんかでなく、実態は調教に過ぎないわけですがね。時々我々に対してなされるクレームの一つに、『曲がりなりにも教育者たる者が……』なんてのがありますけど、あれなんか、笑止千万なんで」
さて、ここまで凹まされて赤崎の次の一手はいかにと、半ば他人事のように観察して興味津々の鹿野は、またしても赤崎の取った戦法に面食らうことになる。赤崎の取った戦法、それは「三十六計逃げるに如かず」だった。
「業界のことをよくも知らないで、貴重なお時間を取らせてしまい、誠にお恥ずかしいかぎりです。ここはいったん出直して参ります」
「いやいや、それには及びませんよ。実情を把握していただき、ご認識を改めていただければそれでよろしいので」
「いえ、ことほどさようには参りません。私どももプライドを持って誠心誠意商材開発にあたっております。先ほどのようなご指摘被る商品をお売りしたとあっては、御社をご紹介いただいた実松様にも顔向けができません」
「いやいやいやいや、どうか面を上げてくださいな。ちと薬が効き過ぎたかな。まあ、こちらも長年つき合いのある取引先があるわけで、あまりいいお返事はできないが、エンコでお会いしている手前、手ぶらで帰られてはこちらも立つ背がない」
「ありゃ、とんだ食わせものだったな。ダメだ。ぜんぜんダメ。あそことは今回かぎりだ」
高円寺に向かうタクシーのなかで赤崎は憮然としていい放った。終電車はとうに出た時刻だった。最後のキャバクラの支払いを済ますと、へべれけに酔っ払った蝶ネクタイの広報宣伝室長はその場にうっちゃって、赤崎と鹿野は店を出てすぐにタクシーを拾った。
捨て身の撤退作戦を敢行した赤崎は、完全に商談のイニシアチブを握ったはいいが、相手は袖の下を受け取っているにもかかわらず憎々しいまでに渋かった。最低ロットでしか契約しないという。さらには「お友達価格」を要求してきて安く買い叩こうとさえした。このことが、赤崎のなにかに火をつけたのは間違いなかった。
その場で見積もりを出し、それならばと向こうは即決で判をついた。すかさず「今夜どうです、ご成約祝いに、ひとつ」とニタニタと笑いながら赤崎が誘って、こんな少額の契約で成約祝いなんていわれたらなにか裏があると誰しも勘繰りそうなところ、厚顔にも相手は応じたのだった。
二軒目で女の子のいる店に案内すると、室長は泣いて喜んだ。しまいには例の問わず語りが始まって、妻が多忙の看護師長で、夫婦に子はなく、金は貯まるが時間がない、放っておかれる自分を不憫がってなにくれとなく高価な品々を買い与えてくれるが、こんなのは籠のなかの鳥扱いも同然で、だから私はいま初めて籠を飛びだして大空を羽ばたく心地がしているなどと一席ぶって赤崎に抱きついた。「ついでに男を上げましょうか」と赤崎は囁いて、テーブルに用紙を広げた。いつのまに用意したのかそれは新規契約書で、そこに躍る数字を見て鹿野はギョッとした。のぞきこんだ女の子たちもひとしきりどよめいて息を呑み、しかしなんのなんのとすっかりご機嫌の室長は、紙面をろくに見もせず署名および捺印をした。いっせいに上がる歓声。室長はシャンパンを皆に振る舞うといって聞かず、これをはじめとして調子に乗って室長が注文した振る舞い酒はぜんぶ室長持ちとして会計のさいに処理された。
「明日の朝イチにさっき判を捺かせた契約書のPDFをヤツに送りつけてやろう。ちと薬が効き過ぎるかな」
そういって赤崎は窓外を見やった。いままさに新宿歌舞伎町の入り口をタクシーはゆるゆると通り過ぎようとしている。靖国通りは渋滞していた。窓ガラスに映りこんだ赤崎の横顔が、夜の街の明かりの上にオーバーラップする。
その顔はいささかも笑っていなかった。
日めくりの販売は、当面は「一日一脳」の一本でいくことに決まった。「ぼぬ〜る」市川を皮切りに、「ぼぬ〜る」蘇我、「ぼぬ〜る」川越、「ぼぬ〜る」相模原と営業をかけ、うちいくつかは最低ロットではあるが契約が成立した。しばらくは赤崎のいうところの「捨て駒」で、商材としての日めくりカレンダーの最適解を探るための、いわばフィールドワークの一環と割り切った。並行して、あとづけながらチラシとフライヤーの受注印刷の手筈もようやく整って、高円寺の事務所には二台のリースのリソグラフが置かれ、紙束やらなにやらが積まれて印刷所兼倉庫の様相を呈してきて、当初は広過ぎるのではと懸念された当該テナントを借りることにこだわった清田の慧眼がここへきていよいよもって光った。チラシとフライヤーの注文は、五月の連休前からあるにはあったが、なにぶん散発的でいずれも小口。インターネットの検索上位に来ることが当面の課題で、以降はSEO対策に腐心させられることになる。
事務所の家具といっては、一辺四十センチ前後の布張りの黒いキューブがそこらじゅうにあるばかりで、それらが八個九個と集まって島をなし、三人それぞれの縄張りを形成した。キューブは組み合わせ次第でテーブルにもなればソファーにもなるし、ベッドにもなれば仕切りにもなる。キューブはまた座面が蓋をも兼ねる収納ボックスでもあり、書類はもちろんこまごまとした生活必需品の整理整頓に役立った。ネットで安く見つけたといって清田が大量購入したものだった。唖然として膨大な量の荷入れを見守る赤崎と鹿野に対し、どうせ新しいことを始めるのだから、遊び心満載のほうがおもしろいでしょうよ、と清田はいった。
「清田ってさ、あんなに使える奴だったっけ」
清田が外回りではずしているおり、赤崎がふといったことがあった。
「おとなしい男だけど、昔から優しくて、なにかと助けになる男ではあったよ」いいながら、鹿野もまた、起業してからの清田の変貌ぶりについて、よくよく気がついていた。
「そういえば、あいつの兄貴って自殺だったっけ」
「いや、病死。病状は相当悪かったんだが、医者にかかるのを最期まで拒んでね。自宅でひっそり亡くなった。ただ発見が遅れてね。清田も家を出てたから」
「孤独死ってやつか。あれ、じゃあ、なんでだろ。清田って、どうも自殺のイメージがつきまとうんだけど」
「親父さんだろ。あいつがたしか小三で。あいつがその話をしてくれたとき、君、不憫がって泣いたろ?」
「マジで?」
「マジで」
「いやー、すっかり忘れてるわ。やべーな、俺」
ほんとうだろうかと訝って、鹿野はその疑いを口にするのをすんでのところで押しとどめた。赤崎なりの、それは韜晦だっただろう。あのとき清田によって語られたイメージは、あたかも長年の宿痾のごとくおりに触れ思い出さずにはおれないほどの鮮烈さでもって、鹿野の脳裏に残っているのだったから。その日は休日で、前々から清田は父親に磯釣りに連れていってもらう約束をしていた。お袋は昨年の夏に家を出ていった。当時種違いの子を宿していたとは、成人してから親戚に聞いた。その日はだから家に兄貴と二人きりだった。親父がいない、車もないとなって、それで自転車で探しに出たんだった。心当たりはあった。海辺の町のことで、親父はことあるごとに、どんなに苦しく悲しいことがあっても、波打ち寄せる海に向かって、空を眺めていれば、心の痛みはすぅーっと引いていくと、兄弟に語って聞かせた。兄貴も僕も互いに申し合わせることなく、海への道をひた走っていた。三月だった。その日は薄曇りで、まだまだ冬の寒さを引きずったが、海風には孵化したての生き物の放つ淫靡な匂いが横溢した。三月の海。砂浜の中途に、ポツンと親父の車はあった。車は海を向いていた。もうあと数時間して潮が満ちれば、フロントのタイヤを波が洗うという海との近さだった。エンジン音がはっきりと聞こえだした。テイルライトを凝視しながら、僕は自転車を押していた。あのときほど、自転車があんなに重たいと感じられたことはなかった。いつまでも僕らと車との距離が縮まらないことを、切実に願っていた。
「水色のセダンで、目の前には鈍色の海に鈍色の空。テイルライトばかりがやけに赤くって、こんな美しい取り合わせもちょっとないよね」
そう清田は他人事のように鹿野らに語って聞かせたのだった。
赤崎は朝からひとり営業に出ていた。費用を抑えたいがために当面の経理は自分たちでやるとなったはいいが、この方面は三人ともが苦手科目で、領収書やレシートを掻き集めるのに鹿野も清田も大童だった。
黒キューブを片っ端から開けていった鹿野は、ほとんど空のそれの、蓋裏が当たる箱側の縁に沿って、点々となにやら付着するのを認めた。この頃は老眼が萌して近視の眼鏡をかけたままだと手近が見えにくい鹿野は、眼鏡をはずして顔を近づけた。唐辛子の種のような扁平なそれは三枚四枚と重なるように見え、見るうちに塊から外れた一つが案外な速さでこちらへ移動し始めて、鹿野は思わず声を上げてのけぞった。鹿野が真っ先に想像したのは、マレーシアかそこらの熱帯雨林に生息する分解者の昆虫の類だった。倒木を木材に加工するにあたって、薬品処理だか熱処理だかが不十分で材のなかに卵が残り、海を渡っておそらくは中国あたりでそのまま製品化され、さらに海を渡って日本の我々の手元に送られて、いまごろになっていっせいに孵化したものだろう。大きさはうんとこちらは小さいが、羽の生える以前のゴキブリの幼体を思わせる風体で、鹿野の美醜の感覚からすると、すこぶる気色の悪い部類だった。
「清田、見てみろ。安かろう悪かろうってやつだ。キューブに虫が湧いてやがる」
鹿野にいわれて顔をのぞかせた清田は、一目見るなり、「あっ!」と叫んで、それきりその場に硬直した。
「なに? なんなの?」
鹿野が問うのへ、清田はいった。
「南京虫だ。最近話題の、トコジラミ」
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