中立で生きる
娘の倫理の教科書の最初の数ページで満足した今日この頃。
というのも「ソクラテス」に納得しちゃって、それ以降の人はあんまり興味がなくなっちゃったから。
紀元前400年とか、想像ができない。
テルマエ・ロマエの時代よりももっとずっと昔なんじゃん。
そんな時に既に大事なことを解っちゃって提唱してんのに、今のこの時代になっても進歩してない。
とりあえず否定する人
いるでしょ。「こういうのはどうですか?」という提案をすると「でも〜それはちょっと〜」って、とりあえず否定。
「じゃあほかにどんなものがありますか?」って聞くと「・・・」無いんかい!
「とりあえずやってみましょう」と言えば「ん〜、でも大変だよ〜」っ返ってくる。
「いつでもいいよ、どこでもいいよ」と言うわりかし、いつでもどこでもダメな人もいる。先に言ってくれと思う。
いつにしようか、どこにしようか、何をやろうかetc…考える労力と時間を要するわけで。
何もせずにこちらの提案を待ち、そして否定されるわけだから、色々と考えた側としてはガッカリする。
前はそこで「はぁ〜っ!?だったら最初から自分で決めろや!」と、ヤンキーWAKUちゃんがチラリと顔をのぞかせることもあったが、今はもう仏のWAKUちゃんの顔である。
去年の終戦記念日に離婚して2日後に地元に戻ってきてから、こういうやり取りが全く無くなった。そういう人達が離れていった。
自分を取り巻く環境がものすごく変わったのを体感している。SNSではアメブロをやめてインスタもうっすら存在を残して個人的な繋がりの人とのDMだけになった。
noteの存在
「note」の存在がとても心地いい。noteを書いてる人って、文章力があるから読解力もある。だからコメントひとつが皆面白い。会ったこともないのに、普通に会って話してる感覚があって、エネルギーが温かい。
すっごい「note」を持ち上げてるみたいな言い方だけど、嘘はついていない。ホントホント。ダッシュボードの数字を見てもピンと来ないからたまにしか見ないけど、多分いっぱいコメントもらってる。そういうのが好き。
noteの利用方法は多種多様でそれもまた凄いことだと思う。私はやっぱりコミおばなのでコミュニケーションが最優先。
なのでコメントを頂いてコメント返しする時間を優先して記事を書く時間が無い。そしてそれがまた嬉しかったりする。
中庸
だいぶ前の自分の記事に「ニュートラルでいられるようになった」みたいな事を書いた。
その時は全くこういう知識もなく、スピリチュアルな情報とかでもなく、自身の経験とか体感で「中立でいるのがいい」を知って自然にそうなっていったんだと思う。
今、答え合わせ的な感じで色んな情報が入ってくる。たまに「お試し」はまだあるけど、お試し三昧の時期は過ぎ去ったと思われる。
ヤンキーWAKUちゃんが出ちゃってた頃は、まだまだ波があって「とりあえず否定」の人にイラッとしていたけど、そこに持っていかれなくなったら逆にあちら側から居なくなるという現象が起こった。
仏のWAKUちゃんになった今は(誰もそうは思ってないけど)私が決めなくても、自然と良い方向に物事が決まっている。
「中立」の意識を常にもっていると、動揺という心の動きがなくなる。パニクらない。緊張しなくなる。
中立というのは決して「どっちでもいい」というものではなく「どっちもいい」ってことかな。
白と黒どっちがいい?
に対して「白には白のいいとこがあって黒には黒のいいとこがある。どっちもいいけど、今は白がいい。」って感じで。
自分のためでも人のためでも何のためでも無く。与えられたミッションをこなしている感覚で生きている。
ミッションが来たぜ!と受け取った瞬間から「さて、このミッションをいかにして面白いことにしてやろーか」と灰色の脳細胞が働くのですよ。マドマアゼル。