韓国ウェブトゥーンの世界同時連載の始まりについて
現役のPMが語るウェブトゥーン翻訳業界のお話シリーズその2
※注意:このエッセイの内容はあくまで私個人の経験談であり、前に勤めていた会社の公式な意見とは一切関係ありません。
はじめに
ウェブトゥーン(以下WT)翻訳界隈でたまに話題になる世界同時連載の案件(ここでは「韓国語・日本語・英語」の3か国語」の同時連載を意味します)。約6年間WTプラットフォームで働いて、今もなおWTの日本語化のお仕事をしている私ですが、今まで世界同時連載に関わったのはたったの2作。約200作以上のWT日本語化プロジェクトを担当して、そのうち世界同時連載が行われたプロジェクトが全体のわずか1%に満たないことからその希少性がよくわかると思います。今回はこの「WTの世界同時連載」の意図、概略的なしくみ、必要性などについて語ってみようと思います。
世界同時連載を始めたきっかけ
このような小タイトルだと、まるで私の決断で世界同時連載を始めたかのように捉えかねませんのであらかじめ説明しておきますと、世界同時連載をするかしないかは一人のPMの権限では決められません。連載の形態は主に運営チームの判断で決められると思いますが、「世界」という名がつくとなると、より上の指示でプロジェクトが動きます。それもそのはず、韓国・日本・英語圏などで同時に配信するには原作者の同意のうえ、各言語の運営・制作・マーケティングチームの協力が求められるため、末端の社員が一人で何とかできるものではないのです。
当時、私が初めて手にかけた世界同時連載の作品は、かの有名な超大作BL、「キリング・ストーキング」です。(隙あらばKSのお話が出てくるのはその分私のPM人生に多大な影響を与えた作品だからです) すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、KSは最初から世界同時連載で配信された作品ではありません。
韓国国内では2016年の11月に連載スタート、英語は同年11月24日、日本語は翌年の1月16日から連載がスタートしました。そして瞬く間に世界のBLファンから愛される作品になりましたが、ここで一つ大きな問題が起きてしまいます。かつてないほど世界的にブレイクしたKSは、以前あまり見かけなかった「WTの海賊版(英語版)」なるものの被害を受けてしまったのです。しかも、もっと質が悪いのは、「公式の翻訳が遅いからしかたなく海賊版を読んだ」という非常識的な言い訳をする(自称)KSファンが多かったという事実。常識人の立場からすると海賊版の生産と消費はどんな理由があれど許されない最低な行為ですが、どういうわけかWTに関してはそのようなことを言い訳に海賊行為を正当化していたのです。法務チームの対応は一日や二日でできるわけもなく、こうなった以上「多言語同時連載を行うことで海賊たちを黙らせる」しかなくなったのです。他にも「世界漫画コンテスト大賞受賞作品」という肩書もあるし、WTにおいては多言語同時連載はあまり例を見ないため話題にもなれるということで、第2部からは同時連載をしてみよう、という流れになったわけです。
とはいえ、日本語に関してはスケジュール的に間に合わず、仕方なく1週間遅れで連載することに。他の言語と違って日本語版は編集の段階で色々いじらなければならないし、日本語の海賊版はいくら探してもなかったので、もう少しちゃんとした準備が整うまでは同時連載への参加は見送りに。
そして第2部が終わり、第3部の準備期間に突入。今度こそ日本語版も同時連載に参戦することになりました。(日本のファンの方々の要望もたくさんありましたので)
実際どういうふうに進められたのか
まず私たち制作チームの主張は「8話分のストックがなければ難しい、最低4話分のストックがないとマジで詰む」でした。だいぶ昔のことですので最初のストックがいくつあったのかは正確に覚えていませんが、とにかく第3部から日本語版も同時連載になったことから、少なくとも4話分以上のストックがあったのは確かでしょう。
ストックがあるうちは普通の日本語化プロジェクトとあまり違いはありませんでした。ただ韓国の担当者と英語圏のPMと私の3人で構成された業務用グループチャットがあって、そこで原稿の進捗状況や作品情報のやりとりなどを行ったくらいです。
他の作品の場合、スケジュールが間に合いかねないのであれば、一旦休載を挟むこともできましたが(もちろんうちのチームでは禁忌事項でした。そもそもスケジュールにミスがなければ、日本独自の休載なんて必要ありませんので※)
ですが、世界同時連載はわけが違います。せっかく「世界同時連載」というタイトルを掲げて連載をしているので、「もう間に合いそうにないんで日本語版は休載しまーす」なんてことは絶対言えないのです。だからといって韓国語版もそう簡単に休載はできません。(韓国の担当者が許さなかった、なんて理不尽な理由ではありません) KSは一般的なWTより1話あたりの分量が倍以上あったため、さすがに先生も1週間で1話のストックを描き続けることは体力的に無理があったと思われます。最初のうちは7日に1話は必ず完成していましたが、いつの間にか完成までの時間が少しずつ伸びていって、ストックの原稿は知らないうちに底を突き始めました。そして数週間後、以下のようなプロセスに。
とまあ、このように今まで経験したことのないキツキツのスケジュールで制作をしていたのです。(他の作品と同時進行で) しかし、ここまで来るといよいよ作家の先生も含め、関係者全員が疲れ果ててしまいます。さすがに最終話までこのスケジュールでは無理があり、ちょくちょく韓国版の休載を挟んで息抜きをしながら、フィナーレを迎えました。(確認してみると50〜51話、54〜55話、59〜60話、62〜63話、63〜64話、65〜66話の計6回ですので、上のようなスケジュールで制作したのはそんなに多くなかったかもしれません)
世界同時連載の条件は?
世界同時連載がどういうふうに進められたのかについての私の経験談はここまでです。深夜まで編集担当者と会社に残って原稿を作りました…みたいな些細なエピソードなどはありますが、これはいつか次の機会に。(長文になることはないはずですので、たぶんXにて…)
では、今のWT業界で世界同時連載作品はどういうふうに選定されるのか?についてもう少し説明を加え
ながら、情報伝達に焦点を合わせたお話をしてみたいと思います。
「そもそも世界同時連載はどんな状況で成立するのか?」についてですが、前述した「海賊版云々」はもう昔のことです。これ以上海賊版のせいで同時連載をしなければならない時代は終わりました。WTの海賊版が完全になくなったわけではありませんが、WTに対する著作権意識も前より高まり、法的な制裁もある程度行われているため(第一、海賊版の根本的な対策でもないため)、ネット海賊たちを防ぐために世界同時連載を行うことはもうなくなったのです。すると、どんな作品が同時連載として選ばれるのかですが、まず私が経験したことをベースに以下のように整理してみました。
1) ヒット作であること
世界同時連載は前述したように、一人のPMの意思で進められるプロジェクトではありません。いつもの数倍以上の人員を動かすには「確実に儲かる作品」であることが必須条件です。そのため、最初から世界同時連載が決まる作品はかなり少なく、あったとしても「前にヒットしたことがある作家」の次回作や「企画段階から大規模なリソースを投入した作品」でなければ、最初から世界同時連載になるのは無理でしょう。なので、もし普通の作品が同時連載の対象作に選ばれるのであれば、「第1部のヒット後、第2部から」のケースである可能性が一番高いと思います。
2) WTプラットフォームをいろんな国に展開している会社であること※
今やWTのグローバライズが進み、あらゆる言語圏でWTの配信サービスをしている会社が増えましたが、世界同時連載を行うためには、そのプロジェクトをまとめられる力量と意思のある会社が必要です。私が勤めていたレジンの場合、日本語と英語チームがレジンの一部署として付属していたため、制作・運営・マーケティングもろとも(簡単ではありませんが)コントロールができました。「世界」と「同時」は各言語圏の部署が一体となって動かなければ成立は極めて困難なのです。
というように、シンプルかつ難度の高い条件が揃えば、世界同時連載が決まるわけです。このような案件を翻訳者が受けるには以下の条件があります。
1) クライアントが「プラットフォーム」であること。これは必須条件ではないと思いますが、そもそも世界同時連載はなにかと緊急を要する案件です。翻訳会社に任せれば柔軟な対応が難しくなりますし、何かを伝えるにも会社によっては二重三重のステップを踏まなければならないので、翻訳会社にはなるべく世界同時連載の案件は振らないようにしているのです。少なくとも私がプラットフォームのPMだった頃は、「これは翻訳会社に任せたら絶対事故る」というのが共通認識でした。
2)クライアントに信頼を与えている翻訳者であること。連絡が急に取れなくなったり、締切をしょっちゅう守れなかったり、そもそも翻訳のクオリティが微妙な翻訳者には当然のことながら世界同時連載の案件は任せられません。最悪の場合、PMが自ら翻訳して配信することもできますが、すでに一般的な翻訳者一人あたりの担当作よりも数倍以上の作品を担当しているPMからして、そのような事故を未然に防ぎたいと思うのはごく当然のことでしょう。(毎月一人あたりの新作が2〜3作ずつ任されますので、少なくともPM一人あたり30〜40作は担当しているはずです。私がそうでした)
世界同時連載の案件(翻訳)は引き受けるべきなのか?
結論から言うと、「覚悟さえあれば、当然YES」です。理由は以下のとおりです。
1) まずはチャンス自体少ないです。何事も経験ですので、挑戦してみる価値は十分あります。
2) 世界同時連載に選ばれた作品は前述したように、知名度が極めて高い作品だったり、クオリティが高い作品です。そのような作品を担当すること自体翻訳者として一つのステータスになるでしょう。
3) 無事連載が終わると、あなたはクライアントの救世主になれます。とても大きな信頼を獲得し、案件がじゃんじゃん入って来るでしょう。(でなかったらそのクライアントとはお仕事をしないほうがいいと思います。実際私の場合、KSの翻訳者さんに頭が上がらない、もう無限に信頼できるという思いしかありませんでした)
そして「覚悟があれば」というのはつまり、デメリットもあるということです。
1) 少なくとも担当作が完結するまでは自由の身ではなくなります。PMがなる早で翻訳用の原稿を用意し、運営とのスケジュール交渉でなんとか翻訳者の便宜を図ろうと頑張りますが、場合によっては原稿をもらって1〜2日以内に納品しなければならないということが多くなり、通常の作品だけを担当していたころと比べ、スケジュール管理がかなり難しくなってしまいます。
2) あなたが持っている原稿が一番最新話です。よって、いつも最新話基準で考えて翻訳しなければなりません。すでに完結した作品や、ストックがたくさんある作品はある程度全体像を見て翻訳できますが、同時連載の作品は霧がかかった深い森で探検をするような感覚で翻訳しなければなりません。もちろんある程度結末が決まっていて、重要な伏線や全体的な流れについては情報を得られるかもしれませんが、結局はまだ完成されていない物語なので、より詳しい情報は入手できない可能性が高いでしょう。
思いつくことはこれぐらいでしょうか。第2部から同時連載の場合、案件を断ると翻訳者が変わる可能性が高いため、最後まで担当したいと思う方は引き受けたほうがいいかもしれません。
最後に:世界同時連載の実効性について
先ほども言いましたが、海賊対策としての世界同時連載はもうすでに意味をなさなくなりました。となると、どんなメリットがあって同時連載を進めているのでしょうか?
ここからは私の推測に過ぎない話ですが、ある程度経験に基づいた話です。
まずは、「世界同時連載」というタイトルでマーケティングができる、ということ。そもそも「世界同時連載は売り上げに影響するのか?」という疑問が浮かび上がりますが、少なくとも同時連載はマーケティング部署にとってはかなりありがたい話です。作品を売るためには「セールスポイント」というものが必要になります。売りたい作品の長所を探すためには、ストーリー・作画などなどいろんな要素を考慮しなければなりませんが、「世界同時連載」という要素だけでデカいセールスポイントが一個増えるわけです。何かと注目を集めやすいし、素材に困ったら「世界同時連載」を強調すれば済みますので。(もちろんそんな適当に仕事をしているわけではありませんが)
運営チームにもメリットはあります。それは「売り上げを前借りできる」ということです。通常の作品は韓国の連載が始まっても新作として海外に売り出すには数ヶ月も待たなければなりません。しかし世界同時連載となると、韓国で連載=海外で連載、ということになりますので(しかもヒット作なので売り上げはもとから保証されている)何ヶ月も待たなくても、すぐ売り上げに変換できるわけです。待てばいつか儲かりますが、毎月売り上げを上層部に報告しなければならない運営チームの立場からすると、すぐ儲かる話は断りづらいでしょう。
となると、制作チームにはどのようなメリットがあるのか?正直に言いましょう。メリットなんてありません。同時連載を任されたPM・編集担当者・翻訳者・写植担当者全員がつらい思いをします。ちなみにうちのチームでは「同時連載を担当しているから」という理由で新作の割当を少し減らしたりもしましたが、ということは他のメンバーの負担が少し増えるわけで、とどのつまりチーム全体に影響を及ぼすことになるのです。強いて言うならば「やりがいがある」程度でしょうか。「さすがにインセンティブとかはあるでしょう」と思われるかもしれませんが…。その辺は察してください。
しかしながら、私がもし世界同時連載の案件を振られたら引き受けるでしょう。売り上げやマーケティング云々はさておき、世界同時連載はきっと読者を喜ばせます。フォーリーダーズ(For Readers)という社名は和訳すると「読者たちのために」です。(英語的に合っているかどうかはわかりませんが、こういうのはフィーリングでいいと思いました)
制作コスト削減やAI翻訳のいざこざで、損をするのは読者しかいない今、少しでもWTの読者たちを喜ばせることができるならば、私は引き受けると思います。会社員だった頃の私ならこんな綺麗事なんて言わなかったと思いますが、会社を辞め、自分で会社を立ててXを始めていろんな翻訳者の方々や読者の方々のお話を聞いているうちに、「これは需要があればやるべき」という考えに変わりました。ちなみにまだこのことはうちの社員の皆には言ったことがありませんので、万が一本当に世界同時連載案件を振られて引き受けたら、恨まれるかもしれませんね…。(ごめんなさい! 私の我が儘に付き合ってください!)
さて、しれっと会社のアピールに繋がってしまいましたが、今回の話はここまでです。いかがだったでしょうか。
守秘義務をギリギリ守る程度で私にできるすべての話を書いたつもりですが、記憶力にも限界があるため、説明が不足していたり、事実とは微妙に違うところがあったりする可能性があるかもしれません。(最後の最後に言い訳をしてしまい申し訳ありません) 会社を辞めてもう2年以上経ちましたので、これ以上記憶が曖昧になる前に、一日でも早く次のエッセイを書かなければ、と思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました! 次回のエッセイはできるだけ3月が終わる前に書き終えるつもりですが、もし書いてほしいテーマなどありましたら気軽にDMお願いします。私に答えられることでしたら、エッセイもしくはXで投稿してみたいと思います。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?