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【アーカイブ/論文】『超芸術トマソン|アートの限界事例』(美術出版社第13回芸術評論(2005年7月19日発表)応募落選作)
1 反芸術の正統な末裔としての「超芸術トマソン」
赤瀬川原平は、「超芸術トマソン」発見の経緯について、次のように回想している。
「1970年に美学校講師の仕事が降りかかり、(中略)。そして生徒たちとじっさいに町へ出て、壁や電柱にあるビラ、ポスター、標識、看板といったメッセージ類の観察をはじめ、それが横道にそれて現代芸術遊びが生まれる。つまり路上に転がる材木やその他日常物品の超常的状態、道路工事の穴や盛り上げた土や点滅して光る標識などを見て、
「あ、ゲンダイゲイジュツ!」
と指でさす。これは概念となってなお画廊空間で生きながらえる芸術のスタイルへ向けたアイロニーでもあった。その延長線上で、1972年、松田哲夫、南伸坊とともに四谷祥平館の側壁に「純粋階段」を発見し、そこから「超芸術」の構造が発掘されて、後に「トマソン」と名付けられることとなる。」
1972年3月17日の発見から約10年後に「トマソン」と命名されることになる物件第1号は、東京四谷にあった祥平館という旅館の外付け階段であるが、それに「純粋階段」という通称が名付けられたことにまず注目したい。というのも、純粋階段の「純粋」は、ファイン・アート=純粋美術の「純粋」を揶揄した呼称であると推測できるからである。
引用した回想によれば赤瀬川は一時期、「現代美術遊び」と称して、工事現場などを見つけると現代美術シテイルと半ば冗談に言い合っていたのだが、1970年代といえば、「もの派」全盛の時代である。当時、銀座や神田の貸画廊では「もの派」作家の個展が頻繁に開催されていた。貸画廊といういわば額縁の中で、既成概念から見ればおおよそ美術とは言いがたい生々しい物体やむき出しの物質が無造作に置かれ、まさに工事現場さながらの様相を呈していた。引用した経緯の中で例示されている「転がる材木」や「穴や盛り上げた土」は、まさしく菅木志雄や高山登、関根伸夫などの「もの派」作家の作風を念頭に記述されている。つまり、トマソンの発見は、「もの派」を赤瀬川お得意のパロディ化したことが触媒となったものと推定して間違いない。そういったハイ・アート指向の反芸術を皮肉ったところから発想されたのである。
さて、「超芸術トマソン」の定義について、赤瀬川自身及び研究者は次のように記述している。
「人の世の道具としての機能を失い、生産性のネットワークから外れながら、なおも人の手の手当てを受けて保存されているもの。」 『全面自供!』365頁〉
「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物。」『超芸術トマソン』26頁
「芸術をまったく意識していない制作者(例えば大工や左官などの建築現場の職人)によって、現状変更等の意図せぬ動機から結果として作り出されたもの。」矢島新ほか著『眼の革命―日本美術の発見者たち』95頁
これらのことから、トマソンのメルクマールは次のように集約できる。
① 芸術として作られたものではないこと。
② 作者が存在しないか、意識されないものであること。
③ 発見されたものであること。
この3要件から導き出すことができることは、赤瀬川自身も述べているように、トマソンが反芸術の祖たるマルセル・デュシャンのレディメイドから直接連なる系譜であるということである。レディメイドは、芸術としてつくられたものではない(作者が意識されない)日用品をデュシャンが選び取る(発見する)ことにより、芸術という概念を逆照射したものであり、その意味からその直系としてトマソンが存在する。また、言語との相互作用を契機として作品が成立していることから、コンセプチュアル・アートとの関係も論じられよう。典型的には、ジョセフ・コススは、(芸術としてつくられたものではない)物体としての椅子を選び取り、その写像と、椅子に関するテクストを重畳させ、相互に干渉させることによって、椅子という、ひいては芸術という概念を浮かび上がらせたという意味でトマソンとの隣接性がある。
一方、トマソンを愛でる精神構造については、次のように分析されている。
「歪んだ物件やズレた視点を面白がる心にあるが、それは、初期の茶の湯の、いびつな形や斑のある肌合いといった一見不完全なものに情趣を感じ、美を認めるわびの心と通いあうだろう。利休は「侘びたるはよし、侘ばしたるは悪し」と言ったと伝えられるが、路上観察にとっても無作為こそが生命である。「芸術とは芸術家が芸術だと思って作るもの」であるが、「この超芸術というものは、超芸術家が、超芸術だとも何も知らずに無意識につくるもの」であり、「ただそこに超芸術を発見する者だけがいる」のである。」
このように、茶の湯の精神構造との通底性が指摘されており、また、柳宗悦の民芸思想にも通じるものであることも論じられている。
レディメイドは選ばれた物であり、民芸は見出された物であり、トマソンは発見された物である。トマソン発見の契機となった現代美術遊びにおいて意識された「もの派」も、作品の制作に際し作者は出来るだけ加工せず、物の素材性を強調する傾向があった。「もの派」の作品も物体・素材自体に語らしめる傾向を有しており、その「もの派」を揶揄する形で発想されたトマソンも、図らずも同じ心性の系譜に属していた。いうなれば、トマソンも作ら(創ら・造ら)ずに創造されたものであり、言い換えれば、鑑者の想像力に働きかけそれを引き出して初めて成立するものである。
以上要約すると、トマソンは、レディメイド⇒コンセプチュアル・アートという反芸術の正統な系譜を日本的心性により展開させることによって誕生したといえる。
トマソンが、その命名とほぼ同時期に設置された「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年10月発足)や、その拡大発展型として設立された「路上観察学会」(1986年6月発足)によって作品が制作(発見)されていること、また、赤瀬川が講師を勤めた美学校の授業の一環として、生徒たちによって作品が制作(発見)されているという事実も見逃すことはできない。このことは、いわば工房形式――あるいはウォーホルのファクトリーと言い換えても良い――によって作品が制作(発見)されているということであり、日本の現代美術の動向の中でいえば、明和電機のファクトリーや村上隆の有限会社カイカイキキ及びGEISAIと、さらには、後述でも触れることとなる食玩フィギュアの量産形式とも共通している。
また、トマソンは、雑誌『写真時代』(白夜書房)の1983年1月号から85年4月号にかけて連載され、その読者からの公募によっても量産されており、この面でも公募方式のGEISAIと共通している。
以上整理すると、トマソン生産の態様としては、工房形式と公募方式という特徴付けることができる。
2「超芸術トマソン」の反芸術から第二芸術=限界芸術への脱落
桑原武夫は、『第二芸術』(初出『世界』1946年11月号。以下、引用は全て講談社学術文庫版1976年から)において、現代俳句をいわゆる小説や映画、詩などのいわゆる「西洋近代芸術」(28頁)と対比し、現代俳句というものは「同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事だ」(20頁)とし、「菊作りや盆栽」(30頁)に近いものと批判している。そして、このようなものは「他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい」(30頁)、「菊作りを芸術ということは躊躇される。「芸」というがよい。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよい」(31頁)と断じている。桑原の現代俳句批判は実に苛烈である。
さらに、桑原は、返す刀で提言として「国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい」(33頁)とも述べている。今日では逆に邦楽が初等教育に取り入れ始められており、隔世の感がある。当時、日本語を全てローマ字表記にしてしまえという暴論もあったくらいで、今日的情況からみるといささか行き過ぎ的な論調という気がしないでもないが、明治以降の日本の文化が欧米文明に対する嫌悪と憧憬という両極にアンビバレンツに激しくあるいは緩やかに振れながら存在し 変遷してきたことを考えれば、このような論調がある時代の一断面として現れ出ることは仕方がない。
また、桑原は、「俳壇においては、党派をつくることは必然の要請」(22頁)であり、その党派は「中世職人組合的(コンパニオナージュ)なのである」(23頁)としている。桑原の芸術概念が近代芸術概念をモデルとしていることは明らかであることから、これらの特質は否定的に評価されているわけだが、このことは先述のようにトマソンが工房形式で生産(発見)されていることと関係している。さらに桑原は、「一句だけではその作者の優劣がわかりにくく」(20頁)、「一々に俳人の名を添えておかぬと区別がつかない」(21頁)とも述べている。トマソンもひとつの事例(作品)だけではその意味は浮かび上がらず多数蒐集されることにより、その概念があぶり出されるものであるが、その面からも現代俳句即ち第二芸術に共通している。また、新聞、雑誌の俳壇投稿欄にみられるように公募方式も現代俳句にしばしば多用される制作態様であり、トマソンと通底する。
さて、その約15年後、桑原の弟子筋にあたる鶴見俊輔は、『芸術の発展』等一連のいわゆる限界芸術論(初出『講座・現代芸術』1960年。以下、引用は全て『限界芸術論』1999年ちくま学芸文庫から)において、以下のように芸術の区分を試み、さらに、桑原が「第二芸術」と呼んで批判した現代俳句を含めた芸術分野を「限界芸術」と名付け、桑原とは逆にその重要性を説いている。
「今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにして見よう。」
限界芸術というものは、一般的には、大衆芸術を、さらに純粋芸術を下支えするものであって、芸術の種子のようなものが限界芸術から発し、大衆芸術という段階を踏んで純粋芸術というレベルに上昇・発展してきた(くる)ものであると考えられそうだが、その脈流は一方的ではなく往復運動であって、その往復運動こそ純粋―大衆―限界の三層相互に刺激を与え、〝アート〟総体の活性の源泉力となると考えられる。(以下、当該三層の芸術総体を指す場合、「アート」と表記することとする。)
したがって、私は、近代美術(の一部)が反芸術へ、さらにトマソンという限界芸術へと脱落していったことをもって直ちに価値が低下したとは考えていない。それは、古くは平仮名と片仮名の発明や、唐物を捨てて高麗の日常雑器をもてはやした千利休の茶の湯、これを契機に磁器から陶器へと退行した陶芸を想起すればわかるように、多分に日本的感性の所産である。この日本的性向は、特に日本が内向的(鎖国的)となった時代に顕著に表れるのだが、一種の幼児化・退行化、換言すれば幼形成熟(ネオテニー)と言っても良い。昨今のオタク文化の海外進出や古くは浮世絵の海外への影響などのジャポニズムもこの日本的退行の逆輸出である。イ・オリョン(李御寧)が指摘する日本人の「縮み」の美意識もそうであろうし、付け加えれば、〝書〟は、明治期に岡倉天心と小山正太郎との間で書が美術かどうかの激しい論争が行われたほど典型的な限界芸術であるが、その書が米国のアクション・ペインティングに影響を与えたこともその好例である。
また、「限界」という切り口を他分野へ応用したものとして、鶴見は、ちくま学術文庫版の『著者自身による解説』において、
「くらしとも見え芸術とも見えるへりの部分が「限界芸術」としてあり、くらしとも見え学問とも見える学問が「限界学問」としてあり、くらしとも見え政治とも見える部分が「限界政治」としてある。他にも、たとえば、くらしとも見え技術とも見える部分もあるだろうし、そのところをレヴィ・ストロオスは「ブリコラージュ」(手仕事)の領域と呼んだ」
と記述している。
「超芸術トマソン」を制作(発見)する団体活動は、先述のように、その後、考現学的な美意識を共にする藤森照信の「東京建築探偵団」(1974年設立)と接近し、「路上観察学会」(1986年設立)へと包含されていったわけだが、いわば学問という衣装を半ば見立て的に纏って活動しているともいえ、この点についても、鶴見の「限界」という概念で関連づけることができる。
さらに、その約15年後、通算すると『第二芸術』の発表から約30年後に、梅棹忠夫とドナルド・キーンが対談という形式で『「第二芸術」のすすめ』と題して第二芸術の問題について論じている。(『放送朝日』第259号1976年1月。なお、桑原自身も講談社学術文庫版のまえがきで、この対談や、鶴見の限界芸術にも触れている。)
この対談の中で梅棹・キーンは、日本の伝統文化である日本舞踊、謡、書道、生け花、香道、茶道、俳句、短歌などは、芸能、あるいは芸として自分の教養のため、楽しみのために習うものであり、そういう第二芸術、素人芸術、アマチュア芸術が盛んな日本文化を高く評価している。そして、今後進展するであろう余暇時代に向けてそういう芸術を積極的に奨励しており、大いに輸出すべきだともしている。この対談では、第二芸術を否定的ではなく肯定的に位置づけているのである。
◆
以下、私は、貶す言葉としての第二芸術と、褒め言葉としての限界芸術とを表裏一体のものとして捉えて「第二芸術(化)=限界芸術(化)」というように表記することとする。
第二芸術=限界芸術というものを、ハイ・アートを山頂としサブカルチャーを中腹とするアートのピラミッド構造におけるさらに裾野あるいは辺縁と捉えれば、トマソンのほかに、今日的な文化情況において、これと通底する現象がアート界に限っても列挙できる。ひとつは、勿論、美少女アニメやコミックマーケット、食玩用フィギュア等のOTAKU文化であり、その他では、宮崎駿アニメの大ヒットや、村上隆のスーパーフラット論、アウトサイダー・アートへの注目が挙げられる。さらに、私はここで、第二芸術=限界芸術のもうひとつの重要な情況として、先述の梅棹・キーンの対談にあるように、新聞社やテレビ局、市役所などが主宰するカルチャーセンターの隆盛を挙げたい。すなわち、カルチャーセンターや公民館のサークル活動で行われている短歌、書道、華道、茶道、詩吟、手芸などは、ほとんどが第二芸術=限界芸術である。失礼ながら、いわば中高年(私を含む)のオタク化と言っても良いかも知れない。
桑原も『第二芸術』において、「何ら統計的材料をもたないが、恐らく日本ほど素人芸術家の多い国はないであろう。」(32頁)と述べている。カルチャーセンターは一昔前風に言えば手習い、お稽古事、芸事という近世町人文化の伝統の延長線上にあるわけだが、カルチャーセンターや市民サークルにおいて日々生産されている西洋画=油彩画はいわゆる近代絵画からは大きく変容しているものと位置づけなければならず、既に「ABURAE」とでも呼ぶべき段階まで日本的に換骨奪胎――日本が海外文化を受容する際の典型的作法(先述のとおり一種の幼形成熟化)――されていると言っても過言ではない。
赤瀬川の活動は本件トマソンをはじめ、ハイ・レッド・センターや櫻画報、老人力など多彩を極めるが、その中でこの油絵に関連して特筆すべき活動がある。それは、印象派〝風〟の風景画への回帰であるが、1989年6月、『文人・歌人・怪人大風景画展』(牧神画廊)を開催し、同年四月の西伊豆・松崎の写生旅行による印象派風の風景画を出品している。これは、絵画というものが印象派風の油絵即ちABURAEへと第二芸術化=限界芸術化しているということへの半ば揶揄的、半ば再評価的な批評ともなっている。付け加えれば赤瀬川が自身を「文人」と称していることも極めて象徴的である。先述の梅棹・キーンの対談にもあるように、第二芸術=限界芸術は、そもそも自身の楽しみとしての芸術であるから、芸術の供給者と需要者の境を紛らかすいわば数寄者=ディレンッタント(dilettante)=文人の系譜に属する。ひとことでいえば、西洋画がいわば南画化したわけである。
また、鶴見が限界芸術における総合芸術は「祭」だと述べていることも極めて興味深い。
「あらゆる種類の限界芸術が、オールスター・キャストで出そろうのは、祭の時である。映画が総合的大衆芸術であるのと同じ意味で祭りは総合的限界芸術である。そして、祭という儀式の形をかりた限界芸術が、それぞれの時代の芸術の総体を生んだ集団生活の実態の集約的表現なのである。」
この論点は、近代―現代美術というものが万国博覧会や国際美術展という祭を節目に進展してきたという面があることとを考え合わせると注目に値するし、また、パフォーマンス、インスタレーション、ワーク・ショップ、アーティスト・イン・レジデンス、パブリック・アート、アート・プロジェクト、GEISAIなど、まさに「お祭化」の様相を呈している現代美術の直近の情況と奇しくも共時化しており、まさに、アート総体が第二芸術化=限界芸術化していることの重要な証拠となる。
さらに、鶴見は、祭について、柳田國男の研究を分析しつつ、
「祭の衰えは、祭が演じる者と見る者に分離してしまったことからくる。(中略)大祭は、ほとんどショウに近く、一種の大衆芸術となっており、小祭のみが、限界芸術としての働きを保っているのである。こうした小祭復興方法によって、今日の日本の純粋芸術・大衆芸術全体をよみがえらせることができるか?」
と述べており、まさに、このことは、踊る者と見る者の境を紛らかすことが第二芸術=限界芸術の分野を活性化させるだけではなく、ひいては、大衆芸術、純粋芸術を甦らせることに通じるということを指摘している。
3「超芸術トマソン」の射程距離
私は、日本の美術分野における第二芸術=限界芸術の今日的隆盛に関して、上野の東京都美術館で例年開催されている日展を頂点とするいわゆる公募展団体の貢献を――皮肉ではなく――大いに評価しても良いのではないかと考えている。各々の公募展団体の家元制度的なピラミッド組織は桑原が言うところの現代俳句の党派に酷似していることもその証拠であるし、なによりこれら公募展団体が講師の供給などを通じてカルチャーセンターのABURAEや陶芸、書などの質の向上に寄与していることの可能性も高い。逆にカルチャーセンターに通う人々が公募展団体に対して、展覧会への入場や作品の購入、あるいは自作品の応募を通じて底辺で支えているという相互依存関係も想定される。
「もの派」全盛のあと1980年代に入って絵画がある意味復活する一方、この第二芸術=限界芸術の分野においても絵画は脈々と続いていたわけだが、次回のヴェネチア・ビエンナーレの日本館は、2004年秋の同建築展で高い評価を得た「OTAKU~人格=空間=都市」展の続編として、カルチャーセンター特集というのはどうだろうか。日々カルチャーセンターで量産される俳句、短歌、書、生け花、盆栽、油彩画、水墨画、陶芸、その他刺繍などの手芸等々、無名の作家の作品を展示する、しかも大量に陳列するのである。キュレータ諸氏は真剣に検討してみてはいかがだろうか。加えて公募展団体のいずれかが、このヴェネチア・ビエンナーレに並行参加して頂ければ申し分ない。いわゆる現代美術と称される分野も、公募展といわれる分野も、さらにはカルチャーセンターの油絵もまさにスーパーフラットな地平に並立するという極めて日本的なアート情況をこれほど端的に提示できる企画はない。純粋芸術―大衆芸術―限界芸術がピラミッド状あるいは同心円状をなすのではなく、同一平面にモザイク状に並ぶという、河合隼雄が『中空構造日本の深層』(1982年中公叢書)で指摘したような日本特有の中心のない構造となっていると言えるのである。
カルチャーセンターの他に、第二芸術=限界芸術の今日的事例をあげるとすると、資本なき大衆個々人が人類の歴史上初めて手に入れたマスメディアであるインターネットや携帯メールが近代芸術という著作物に与え始めているインパクトも小さくない。(なお、インターネットは一種の限界百科事典、限界学問といえる。)中野独人の『電車男』やブログの書籍化もその現象の一端と言えるだろう。これらもインターネットといういわば工房において、不特定多数の人間が関わって作り上げるという面ではトマソンと近似している。文芸の世界ではこのような溶解情況はかなり浸透しつつあり、NHK『クローズアップ現代』やテレビ東京『ガイアの夜明け』で、携帯メールによる小説家が急増しているというレポートが報告されている。『クローズアップ現代』の中で、高橋源一郎氏が「10万人の作家に10万人の読者」と述べていたことも作家と読者が溶解現象を呈しているということを端的に示したコメントとして印象深い。絵画と双璧をなす近代芸術の盟主の片方である小説においても、このような溶解情況が深く進行している。
ところで、㈱海洋堂の食品玩具用フィギュアの原型が著作権法上の「美術の著作物」に当たるかどうかが民事裁判で係争されており、大阪地方裁判所において「美術の著作物」ではないと判断された。(2005年1月6日朝日新聞夕刊文化面『ネオ・エチカ』。2004年11月25日大阪地裁平成15(ワ)第10346号等食玩フィギュアの著作物性事件に関する判決。)
著作権法では著作物は「思想又は感情を創作的に表現したもの」と定義されている。(同法第2条〈定義〉第1項第1号。)要素に分解すると、①思想か又は感情を、②創作的に、③表現したものでなければ著作物ではないということである。この定義に当てはめると、まず、トマソンはトマソンと呼ばれないうちは表現されたものにはならないから、美術の著作物ではない。さらに厳密に突き詰めると、その物体がトマソンと呼称されたとしても、当該トマソン物件自体が〝トマソン思想〟又は〝トマソン感情〟なるものを表現しているわけではない。なおかつ、トマソン物件はいずれの物件もそのままでは創作的とは言いがたい。このように考えると、トマソンも美術の著作物であるかどうか二重三重に疑わしいと考えざるを得ない。――なお、同第2条第2項においてわざわざ「美術工芸品は美術の著作物に含まれる」と為念的に定義されており、また、第10条〈著作物の例示〉第4号において美術の著作物として絵画、版画、彫刻が例示され、続く第五号において建築が独立して例示されている。念のために付言しておくが、トマソンは美術工芸品とは言いがたいことは明らかであるし、確かに建築の付属物ではあるが建築と言うには独立性がほとんど欠落している。
これに比べればデパートの美術品売場や新聞の通信販売において一種のインテリアとして販売されている〝中〟量生産の肉筆油彩画のほうがはるかに外形的に美術品に近似していることから著作権法上の美術の著作物と扱われる可能性は高く、増してやカルチャーセンターの生徒の油彩画が美術の著作物ではないと判断されることはまずあり得ないという皮肉な現象が現出する。(ちなみに、著作権法のコンメンタールによれば、「素人の作であろうと玄人の作であろうと、幼児の絵であろうと大家の絵であろうと、著作物と認めるか否かの判定につき別異の扱いはない。」(斎藤博『著作権法(第2版)』76頁)とされている。)当該新聞記事では、食玩フィギュアのほかに生き人形も引き合いに出し、近代における美術という定義が揺らぎ始めていると締め括っている。
こう考えてくると、トマソンがアートというピラミッド形状の島の海岸〝ヘリ〟に限りなく漸近し、著作物としてのいわば「限界的な事例」にまで逢着していると結論づけるなら、既述の結論は当然のこととも言えるが、この現象をトマソン側から山頂に向かって逆照射した場合、近代芸術という概念を揺るがすことになる。
また、著作権法は、近代法として近代の概念である著作物のオリジナリティ性を前提とし著作物に関する諸権利を一定期間、保護することを目的としたものであるから、「著作物」ではないが「美しい」という感情を与えるもの全般については、当然ながら埒外としている。言い換えれば、一般的に博物館に所蔵されているような例えば縄文土器のような先史時代の遺物をはじめ、動植物などの自然物等のいわゆる「博物」は、対象外である。そう考えると、いうなれば、トマソンというものは、著作物と博物の隙間にそっと忍び込んで、その境界領域を紛らかしたともいえる。
◆
近代芸術という概念が基本的に自己の観念の表象として、ルネサンス期を起点に確立してきたものとするならば、それ以前の中世における例えばロシア正教のイコンが個人を超越する存在としての神をひたすら祈りのように繰り返し画かれた(現在まで連綿と画き継がれてきた)ものであることを一方で踏まえれば、自律した近代的自我と措定されるものがオリジナリティという幻想のもとで垂れ流す個性としての自己表象である近代芸術が、現在、風化し始めているとも考えられる。――出典が確認できないでいるが「もの派」の理論的支柱である李禹煥が「絵画が死んでもイコンは残る」と発言したとのことも極めて示唆的である。
また、次のように言い換えることもできるだろう。
15世紀、レオナルド・ダ・ビンチがそれまで自由七学芸の地位に入っておらず職人の手仕事(ブリコラージュ)の技術に過ぎなかった絵画(術)を近代芸術なるものへ遮二無二押し上げ、さらに19世紀に至って、印象派によって近代芸術の盟主として頂点を究めた絵画(タブロー)が、20世紀の前半(1910年代)において反芸術を生み、続いて、同世紀後半(1970年代)に超芸術を発見することにより、第二芸術=限界芸術というアートの〝ヘリ〟にズリ落ちるに及んで、ようやく明瞭にルネサンス以来のモダニズムとしての芸術という概念の書き換え、あるいは、そのヒエラルキーの組み替えが始まったと言えるだろう。トマソンはこれの予兆となったのである。
(・・・限界ジャーナリズム・・・限界評論・・・限界学問として本稿を記す。)
《 引用文献、参考文献、参考記事報道 》
○桑原武夫『第二芸術』(初出『世界』1946年11月号 岩波書店)1976六年 講談社 講談社学術文庫
○鶴見俊輔『芸術の発展』(初出『講座・現代芸術』第一巻『芸術とは何か』1960年勁草書房)『限界芸術論』所収1999年筑摩書房ちくま学術文庫
○梅棹忠夫、ドナルド・キーン対談『「第二芸術」のすすめ』 『放送朝日』第259号1976年1月 朝日放送㈱
○NHK総合テレビ『クローズアップ現代――文学が熱い、メール世代作家――』 2005年3月7日 放送
○テレビ東京『ガイアの夜明け――出版界に異変あり、今、本を売りにゆきます、純愛に泣くY世代を狙え!――』2005年3月15日 放送
○NHK教育テレビ『新日曜美術館――都市を変えるポップカルチャー、OTAKU、ヴェネチア・ビエンナーレの衝撃――』2005年2月27日 放送
○山盛英司『ネオ・エチカ――新しいレンズを求めて③――』2005年1月6日 朝日新聞夕刊
○特別展カタログ『目の革命―発見された日本美術―』2001一年 渋谷区立松涛美術館
○矢島新、山下裕二、辻惟雄『眼の革命―日本美術の発見者たち』2003年 東京大学出版会
○赤瀬川原平『超芸術トマソン』 1987年 筑摩書房 ちくま文庫
○赤瀬川原平『芸術原論』 1991年 同時代ライブラリー 岩波書店
○赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊『路上観察学入門』1993年 筑摩書房 ちくま文庫
○展覧会カタログ『赤瀬川原平の冒険―脳内リゾート開発大作戦』 1995年 名古屋市美術館
○赤瀬川原平『無用門の向う側に煙突が沈む』(初出『芸術新潮』1984年1月号)『全面自供!』所収2001年 晶文社
○『美術手帖』芸術家・赤瀬川原平特集 2004年8月号
○『VOW 現代下世話大全』 1987年 JICC出版局 月刊宝島編集部 (~『VOW6』1994年 ㈱宝島社)
○2004年11月25日大阪地裁平成15(ワ)第10346号等食玩フィギュアの 著作物性事件に関する判決
○斎藤博『著作権法(第2版)』 2000年 有斐閣
○河合隼雄『中空構造日本の深層』 1982年 中公叢書
○イ・オリョン(李御寧)『「縮み」志向の日本人』 1982年1月 学生社
○竹下節子『バロック音楽はなぜ癒すか――現代によみがえる心身音楽』 2003年 音楽之友社