
【アーカイブ/論文】退行する日本の現代美術|グッズとしてのアート、祭りとしてのアート、そして、骨董としてのアート(2002-03年『美術手帖』主催第12回「芸術評論」応募落選)
※この論文は2002年の『美術手帖』主催のコンペ「芸術評論」に応募、落選したものです(座談会では触れられました)。
1 はじめに
日本の現代美術は退行しつつある ――― 。
精神分析学においては、一般的に人格の統合状態が危機に瀕すると自己防衛機制として退行という心的メカニズムが発動するとされている。幼少期に弟あるいは妹が誕生するとそれまで独占していた親の愛情が自分からそれるため赤ちゃんがえりすることがあるが、これが退行の典型例であり、また、就眠時に理性の意識が低下することでしばしば支離滅裂な夢を見るのも一種の退行とされる。
日本は戦後、経済を唯一そのなけなしのプライドとしてきたが、バブルの崩壊と長引く不況によっていわば日本という個体の自我は依り所を失い不祥事を続発するなど、まさに退行といえる様相を呈している。そうした中で、日本の現代美術は退行しつつあると述べると、日本の現代美術も日本経済と同様に出口の見えない閉塞状況にある、と論じようとしているのではないかと思われるかも知れないが、そうではない。私は本稿において退行という言葉にそういう否定的な意味のみを込めようとしているわけではない。むしろ、CGユング(及びユング派心理学)における創造的退行という概念を強く意識している。つまり、直裁に述べれば、日本の現代美術は一見今は退行しているように見えるが、日本経済とは違い、それは自己の深部に沈潜しているのであり、そこから何らかの豊饒な源泉を見出し、今後それを糧にして大きな飛躍を遂げる可能性がある、といささか楽天的とさえ言える期待を込めて論じようとしているのである。いわば、今は、次の段階へ進むための醸成期間として位置づけられるのではないかと考えているのである。
さらに、敷衍化して述べれば、このことは、西欧近代をひたすら一方的に取り込んできた日本近代のあらゆる分野が、今、大きく見直されようとしていることにも関連していると考えている。ここのところ継続的に江戸時代が注目される動きがあるが、江戸時代が究極の循環型社会であったとして再評価されたり、鎖国とは何だったのかが再考されたり、封建時代という言葉が近代の一方的な自己正当化の言葉であったと反省されたりしている。つまり、これらのことは、日本とは何か、という自己の深部への問い掛けなのであり、これと日本の現代美術の創造的退行現象は深い部分で通底していると考えられるのである。
以下、日本の現代美術における創造的退行症候群について、具体的な症例を挙げつつ、また、それに対する若干の処方箋についても述べることとしたい。
2 グッズとしてのアート
現今の日本の現代美術について何らかの言説を提議しようとするとき、先ずは、村上隆氏主唱のスーパーフラット及びそれを基軸とする一連の動向について、(私的な好みを越えて、)触れないわけにはいかないだろう。これらの潮流トレンドについては、既に様々な言説が飛び交っているが、おおかたの言説を集約するとすれば、「それらは日本発の文化としてのアニメーションやコミック、フィギュア等のオタク文化を突破口として、それをもって、(世界で圧倒的に主流の西欧)美術のコンテクストからの離脱を試みようとしようとしているものであり、昨今の海外におけるテレビゲームやポケモン等の日本発サブカルチャーの大成功と相まって新たなジャポニズムあるいはそれを超えるものとさえ言えそうな高まりを見せている。」というものだろう。
ただ、私はこのエコール―――仮にスーパーフラット派と呼ぶ―――の作品群に共通している主題や内容、あるいは表現技術について、高い評価を与えようとしているわけではない。つまり、モチーフや様式としてアニメやコミック、フィギュアを引用したり、エロティック又はグロテスクな味付けテイストをほどこしたり、あるいは、何でも可愛らしくデフォルメしてしまう感性的な表現手法を取り上げて、それらは創造的退行である、と評価しようとしているわけではない。確かにモチーフや様式としてのアニメやコミックは、能や文楽、歌舞伎などの日本の伝統的仮面(人形、化粧)劇の基底に流れる観者の感情移入を容易ならしめるキャラクター手法というものに連なる系譜といってもよさそうであるし、また、エロティックまたはグロテスクな表現手法には、日本の二極をなす美意識の系譜の一方である侘び・寂びに相対するバサラ・デロリの系譜を感じないこともない。また、何でも可愛らしくしてしまう感性センスについては、凝縮(縮み)の美意識が通低しているとも分析できよう。一方でまた、特に村上氏の作品については表現技術としてかなり高い精度を保持していることは間違いないし、氏の作品が欧米のオークションで高値をつけた(注1)ということ自体は世界的に低迷する経済状態の中で快挙であるとさえいえる。
しかし、このエコールがそのような特色をもち、このような活況を呈していることをさておいても、私が唯一大きな関心を寄せているのはスーパーフラット派の作品が商品であるということである。
(注1)村上隆氏の作品
2002年5月、NYクリスティーズ・オークションにおいて《Hiropon》が42万7500ドル(約5500万円)で落札。また、同年6月のパリ・カルティエ現代美術館における展覧会で17点が完売。最高額が19万ドル(約2300万円)。なお、今回のクリスティーズ・オークションでは、森万里子氏、奈良美智氏、森村泰昌氏らの作品もそれぞれ5万ドルから3万ドル台で落札。(2002年6月3日(月)読売新聞夕刊など)
美術作品は商品であると、いささかトートロジーめいた命題を掲げると、日本の現代美術事情にさほど詳しくない方はそんな自明のことを何故ことさら強調するのだろうと訝しく思われるかも知れない。しかし、戦後の日本の現代美術―――正確に記せば「読売アンデパンダン展」や「具体美術協会」に始まり「もの派」に至るいわゆる前衛=アヴァンギャルド系の日本の現代美術―――は、一貫して実に商品ではなかったのである。若干誇張して言えば、商品であることを意識的に拒絶してきたと言っても言い過ぎではない。芸術というものは金銭的価値を越えた崇高なものであるという考え方―――文人画に典型的にみられるアマチュアをプロフェッショナルよりも上位に置く東アジア美術の伝統を継承している可能性がある―――が根底にあったのかも知れないし、あるいは、そうした資本主義的経済活動イコール打倒すべき既成権威である、というある世代にとっては抗しがたい思考形式のトラウマにとらわれていた時代だったのかも知れない。最近でこそ、「もの派」以降常套的な様式としての地位を確立したインスタレーションによる作品も美術館にコレクションされるようにもなってきたようであるし、ドクメンタやベネチア・ビエンナーレといったメジャー系国際現代美術展などにキュレートされるなどして、名前が現代美術業界ではある程度人口に膾炙するようになれば―――畢竟、芸術の最終消費者は個人であるという意味において―――個人コレクターが買い易いように小品のような形で売れるということはあったにしろ、戦後日本の現代美術は基本的に商品であることをひたすら自己否定してきたといっても過言ではない。
そうした自家撞着的で市場性が決定的に欠落した日本の現代美術業界に対して、正面から堂々と商品として登場したスーパーフラット派は、あたかも王様は裸だと指摘されたような衝撃であったことは否めない。商品であることを積極的に是とし、巨大高度資本市場に能動的にコミットし、全ての財・サービスは商品たりうるという高度大衆消費社会におけるビジネス・システムではごく当り前の論理を、いわば金マネーというバイ菌から隔離され無菌社会であった日本の現代美術という鎖国社会に持ち込んだのである。
また、この兆しは、今から振り返って考えてみればスーパーフラット派が登場する以前から、―――おそらく国立美術館・博物館の独立行政法人化(注2)の検討とは関係なく―――美術館や美術展において例えばルノアールの一筆箋やセザンヌのコースター、ムンクの携帯ストラップといったいわゆるグッズの売店がやけに活況を呈していたということにあらわれてはいた。
(注2)国立美術館・博物館の独立行政法人化
1996年の行政改革会議において提案された後、98年可決の中央省庁等改革基本法において正式決定された上で、2001年4月から4つの国立美術館と三つの国立博物館が各一つの法人にまとめられた。(『イミダス02』集英社など)
まさに、言うなれば「グッズとしてのアート」である。(なお、ここまで退行すれば美術とか現代美術とかではなく、アートと呼びたい。)この動向のごく最近の一例を挙げれば、東京青山のスカイドア画廊で『Free ART Free展』という20センチメートル四方に収まる小品だけの無審査展覧会が昨年(2001年)から毎年開催されているが、これもまさにアートをグッズとして捉え、業界を活性化させようという意識的なあるいは 無意識的な試みであると位置づけられるのではないかと思う。また、もうひとつ例を挙げれば、『たけしの誰でもピカソ』という人気TV番組の中に『誰ピカ商店』というコーナーがあるが、これなども、それらの作品=商品がアートとして質的にハイかローかは別にして、この「グッズとしてのアート」というキータームで括ることができそうである。
ここでも誤解がないようにお断りしておくが、私はグッズと呼ぶことでこれらを殊更貶めようとしているわけではなく、これらを―――全く皮肉ではなく―――一種の創造的退行現象と捉えているのである。図式化すれば、美術館という装置において、グッズ売場という周縁が中心である展示室を飲み込んでしまったのである。つまり、グッズというミニチュアが作品というオリジナルを凌駕してしまったのである。言い換えれば、オリジナルが退行して複製になり、さらに退行してグッズにまでなってしまったということになる。そして、複製では微かに残っていたアウラも、グッズにおいてはその残滓さえもない。ポップ・アートが日用品をアートの世界に引用したといえるとすれば、「グッズとしてのアート=グッズ・アート」はアート作品自体が日用品にまで退行してしまったといえるだろう。
3 祭りとしてのアート
さて、前項の「グッズとしてのアート」という潮流の一方で、最近の日本の現代美術においては、もうひとつの重要で大きな流れも見出すことが出来る。1990年代後半以降、特に明確に見えてきた流れであるが、具体例を列挙すれば、
① 1986年からその嚆矢として行われていた山梨県白州町の『アート・キャンプ白州』や、岡崎乾二郎氏、川俣正氏がそれぞれ主宰する『灰塚アースワークプロジェクト』(1994年から)、『コールマイン・プロジェクト』(1996年から)などのいわゆるアート・プロジェクト、
② 茨城県の『アーカス』(1995年から)や『CCA北九州』(1997年から)など公的資金で行われることが多いアーティスト・イン・レジデンス、
③ 今では大半の美術館で行われているワーク・ショップ、
④ 1994年の『ファーレ立川』、1995年の『新宿アイランド・アート計画』などを先鞭とするいわゆるパブリック・アート、(なお、前三者も含め全体をパブリック・アートという概念で広義に括ることも出来よう。)
という今日的に典型的なこれら3ないし4手法の隆盛である。直近の状況としても特にこれらの傾向は増加してきているように感じる。具体的には、『越後妻有トリエンナーレ』(2000年から)や『取手リ・サイクリング・アートプロジェクト』(1999年から毎年)、今年(2002年)目立ったものだけでも、九州大分市の『大分現代美術展2002アート循環系サイト』(5月~7月)や北海道帯広競馬場の『とかち国際現代アート展デメーテル』(7月~9月)、茨城県水戸市の『カフェ・イン・水戸』(9月)もパブリック・アート的、アート・プロジェクト的傾向が強い展覧会といえる。
(西欧)近代美術は、特に二十世紀後半において美術館や画廊というホワイト・キューブ―――ニューヨーク近代美術館(MoMA)が開発した、いわば何処でもあり得てかつ何処でもない極めて中性的・普遍的・均質的な空間―――をその展示装置として前提にしてきたことにより、アヴァンギャルド美術によって絶えず批判され続けてきた。一方、アヴァンギャルド美術は特に米国に中心が移る中で、ハプニングやイヴェント、パフォーマンス、インスタレーション、(ランド・アート、アース・ワーク、環境芸術のうち恒久設置型でないもの)といった、作品が物理的な物体として残らないいわば消えモノ的手法を派生しつつ、さらに、前述の典型的3ないし4手法に展開し、日本もその強い影響を受けてきた。アヴァンギャルド系(欧米)現代美術は、これら消えモノ的手法という所有できない様式に展開していくことで、美術館や画廊という極めて反サイト・スペシフィックなホワイト・キューブとしての抽象的な展示空間を挑発してきたのである。
ところで、これらパフォーマンスやインスタレーション、アート・プロジェクトといった消えモノ的手法と近似した感性は、そもそも日本文化の古層にあったともいえるのではないだろうか。そのことは、室町時代後期(応仁の乱)以降確立した現在と地続きの日本の伝統文化である茶道、華道などを想起すれば容易に諒解できよう。茶会はいわばアート・プロジェクトかワーク・ショップに相当するだろう。これら芸道においては、どこまでが作品でどこからが作品でないか、若しくは誰が作者で誰が観者かという境界がはっきりしておらず、人、物、環境という諸要素全体が空間と時間の中で渾然一体化してアートになっている。また、一期一会という言葉が端的に表すように一過性・一回性が極めて強い。そうした感性から見れば、むしろ、額縁に囲まれて自律(自立)した絵画(タブロー)の方こそ日本(人)にとっては異質だったのであり、そこに司馬江漢や高橋由一以来の先人によって獲得され喪失されたものがあり、さらにまた、以下に述べるとおり日本の近代美術におけるある種のひずみもそれに起因していると考えられるのである。
野村幸弘岐阜大学助教授が2001年10月31日読売新聞夕刊において、日本の多くの都市で公共空間に設置されたパブリック・アートが周囲の雑多な物に埋もれている風景を指摘しながら、「日本の現代アートは、中身は欧米から懸命に学んできたが、〈器〉のことまで考える余裕はなかったようだ。」と大変示唆に富んだ指摘をしている。もちろんここで〈器〉とは、美術作品という料理をそれに盛るハードウェアとしての食器という意味合いだけではなく、ソフトウェアも含む美術の制度全体のことを〈器〉と呼んでいるわけだが、非常に重要な指摘であるといえる。また、塩谷陽子氏とエレノア・ハートニー氏は1997年2月18日朝日新聞夕刊において、「日本のパブリック・アートには、構想段階から時間をじっくりかけた民主的な意思決定とその過程の透明性の確保がなされておらず、また作品は設置されっ放しで、メンテナンスを含め継続的な運営体制やノウハウといったソフトウェアの蓄積を残していない。」旨指摘している。この指摘は、箱モノ行政という悪口が端的に示すように公的セクターにありがちな遣りっ放しという素因を割り引いても肯んずることができる。さらに、藤原えみり氏はその訳書『都市空間の芸術―パブリックアートの現在』(1997年10月鹿島出版会刊行)の訳者あとがき『パブリックアートを語る前に』において、塩谷氏らの指摘を引用しつつ、「日本ではパブリックな空間は、固定的な広場ではなく一過性のイヴェントとしての「道行き」であり、生活空間さえもが固定化され構造化された三次元空間ではなく時の経過とともに組み換えられ変容する空間であった。」と更に深く掘り下げて分析している。
このように、日本においてはパブリック・アートでも恒久設置型のものは極めて評判が悪い。それは、ウチとソトとを明確に分ける心性が強い日本においては、ソトに公的空間を固定的に作り得なかったのであり、つまり、広場や公的建物内に、パブリックな空間を固定的に設定し得なかったのである。そういう固定的な公的空間がない伝統の上に、ホワイト・キューブを単に野外に持って出たという意味しかない恒久設置型のパブリック・アートを導入しようとしてきたのであり、したがって、木に竹を継ぐが如くアートの「器」としてなかなか定着しなかったのではないか。こういった観点から考えると、戦前においては歴史上の偉人の野外彫像であり、戦後においては女性裸体か抽象形体の野外彫刻又はモニュメントとしての意味しかないものがそのほとんどであった日本近代における恒久設置型のパブリック・アートが未だその単純な延長線として続いているといえる。結局、こういった恒久設置型のパブリック・アートは、どこかよそよそしいものとなり、メンテナンスも御座成りに放って置かれることになる。これに対し、パブリック・アートの中でも消えモノ的手法であるアート・プロジェクトやアーティスト・イン・レジデンス、ワーク・ショップは、一過性、一回性の場であり、日本的なハレ空間の伝統を継承していると言える。つまり、日本のアートは、こうしたいわば、「祭り」という日本的な「器」に盛ることの方が生き生きとしたものになるといえるのではないだろうか。
付け加えれば、日本においては、最も固定的であるはずの建物や都市でさえ、消えモノ、仮設であるといえる。日本の建物、都市は西欧のそれに比べ、頻繁に建て替えられ掘り返されて固定化することがない。この不況下においてさえ、あちこちで土木建築工事が行われ、惜し気もなく真新しい建物、都市に作り替えられている。恒久設置型であろうが一過性型であろうがパブリック・アートを設置することの意義と効用は、そうした日本の空間意識を前提として考えられるべきだろう。
前項で取り上げた村上隆氏も2001年の東京都現代美術館における個展(注3)のオープニングイヴェントとして文字通りの前夜祭を行ったり、今年の八月末から九月に東京ビッグサイトで『GEISAI-2夢工場の逆襲』(注4)として行われた『GEISAI』シリーズがイヴェント名自体おそらく「芸術祭」の略語となっていたりしているのは、村上氏の勘の良さがこのあたりの時代の匂いを鋭敏に嗅ぎ分けているからなのかも知れない。
いずれにせよ、昔ながらの「祭り」という居心地の良い「器」、いわば母胎にアートが退行していっているともいえ、また、前項の「グッズとしてのアート」も、そして、こういった「祭りとしてのアート」もいわば日本におけるアートの器=メディアを模索してきた結果であり、それに対する解答あるいは解答の始まりなのではないかと考えられる。
(注3)村上隆展『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』2001年8月~11月、東京都現代美術館
(注4)『「GEISAI-2」夢工場の逆襲』2002年8月31日~9月1日、東京ビッグサイト西4ホール
4 骨董としてのアート
さて、三題話めいた本稿の最後となるが、「骨董としてのアート」とは、前述の「グッズとしてのアート」をさらに歴史的観点から敷衍化させた概念として位置づけようとするものである。
これも前述と韻を踏んでいるわけではないが、『開運!なんでも鑑定団』という人気TV番組にからめて言えば、キーワードは骨董である。ただ、前々項の「グッズ」や前項の「祭り」と違い、現在の日本の現代美術において具体的にはっきりと骨董的な潮流がみられるわけではなく、いわば「グッズ」がさらに歴史的に退行すると「骨董」に行き着くのではないかという想定のもとに論を進める。
小林秀雄の短い随筆に『骨董』という文章がある。読んでみると現在においても極めて多くの示唆に富んでいる。小林は、「骨董はいぢるものである、美術は鑑賞するものである。」と述べている。
骨董とは何かということについて概括的に思いめぐらせてみると、これの隣接概念として古美術、古道具があり、横文字ではアンティークということになる。置物では一面的になってしまうし、インテリアでは遠い概念になってしまう。一般的には古い物、時代掛かっている物というイメージになろう。ただし、古くて美的価値が高いものというだけではなく、比較的小さなもので手に取って見る物という感じがする。いわゆる巻物、軸といった書画の類から近代的概念でいう工芸品が中心となるが、古書籍などもこの骨董という概念の外延に含まれるであろう。いずれにしろ、手に持てる程度の大きさであること、あるいは、手に持てないまでも手で触れて、もしくはそれぐらいの―――まさに視覚で触れているような感覚になるぐらいの―――距離に近寄って鑑賞するものということが必須要件であると考えられる。そこで小林秀雄は「いぢる」という表現をしたのであろう。したがって、建物やモニュメントのような大きなものや野外に設置するようなもの、例えば、神社仏閣、大仏などや、あるいはガラスケース内に後生大事に鎮座しているようなものは、古くて美的価値が高くても骨董というイメージにはなじまない。いずれにしろ、屋内で手にとって撫で回すというような感覚を伴いながら鑑賞するのが骨董ということになろう。それゆえに、グッズは新しくても、何か骨董と相通ずるところがあるのである。事実、『開運!何でも鑑定団』では、おもちゃも骨董的な扱いを受けている。
いわゆる古美術の類を展覧会として美術館でガラス越しに見るときに感じる虚しさ、特に混雑していたために人の肩越しにしか見られなかったときのもどかしさは、この「いぢる」という感覚から遠く引き離されてしまうことに由来しているのではないだろうか。また、そもそも東アジアにおいては近世までは書物と絵画の区別も未分節であったわけで、―――文字を書く筆はそのままで水墨画を画く筆である―――例えば浮世絵にしろ、現在のように版画として額に入れて壁に掛けられるのではなく、本や冊子のように手に持って眺められるべきものだったのではないか。いささか突拍子もないが、この共通感覚がさらに未分化の状態に退行するとすれば、ひいては、アレクサンドリアのムセイオンという同じ起源を持つ美術館と博物館と図書館の境を紛らかすことにもつながるのかも知れない。
また、小林は「骨董とは買うものだ。」とも言っている。その物を所有することは、「いぢる」機会を得るのに有利な立場をもたらす。一般的に絵画を鑑賞しようとするとき、あるいは、何が良い絵であるのか見極めようとするときに、自分が買う気になって鑑賞するべきとか、盗んででも欲しいかどうかを基準にすべきという、いささか俗っぽい鑑賞姿勢(注5)があるが、あながち侮ってはならない感覚であると思う。
日本に限らずアヴァンギャルド系現代美術の作品は、所有することができないものが実に多く、―――その極北に位置するのがクリストであり、クリストの作品は贈り物のように梱包されているにもかかわらず所有することが出来ない―――まるで、(反近代的ともいえる)私有を禁ずる純理論的コミュニズム社会のようであった。パフォーマンスやインスタレーションといった消えモノ系作品はもちろんのこと、いわゆる平面系作品のように商品として成立させやすい形式のものも特に大きさという点で、とても(アートの最終消費者たる)個人が所有したいとする欲望を刺激するようなものは決して多くはなかったと言わねばなるまい。なお、こういう状況へのアンチ・テーゼが「グッズ、骨董としてのアート」であるともいえる。
(注5)絵画の鑑賞姿勢
「自分の財布から出した金で買わなければ、物を見る目など養えません。」「小遣いを貯めて、ハングリー精神で何かを買ったほうが、百回の講演を聞くよりはずっと実になるものなのです。」(中島誠之助『鑑定の鉄人』二見書房、1995年8月、211頁、212頁)
「・・・自分の身銭を切って買って自分の部屋にかけるつもりで見る。そうするとずいぶん見方が変わるし、いままで見えなかったものがたくさん見えてくる。」(赤瀬川原平『名画読本』光文社カッパブックス、1992年11月、6頁)
「どんな絵がいい絵かと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。――買えなければ盗んででも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である、と。」(州之内徹『絵の中の散歩』新潮文庫、1998年8月、256頁)
「絵画を見るコツとして、「買うつもりになって見る」ことを勧める人は多い。」(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年12月)―――なお、西岡氏は、この後に続く文章で、食べるつもりになって見ることの方が得策であると勧めている。
「いぢる」感覚で鑑賞するのにふさわしい大きさの作品ということになるとホワイト・キューブを前提とする展示空間から見れば、小品ということになる。しかし、近・現代美術に慣れ親しんだ従来の感覚からすれば、どうも、小品のようなものは、オリジナルに対するミニチュア(あるいは小さなレプリカ、又は見本)のように見えてしまう。例えば、現代美術の見本市として開催されてきているNICAF(注6)も日本の現代美術業界に重く垂れ込めている閉塞状況を市場原理の導入によって打破しようとする意欲的試みではあるにせよ、そこに並んだ作品(=商品)が皆ミニチュア(注7)に見えてしまうというのが正直な感想である。これに対し、骨董は小さくてもミニチュアでも見本でもない。その大きさでオリジナルなのである。
また、このように手に持って鑑賞する場は、茶室を典型とするような狭い日本間で、障子越しに外光が入る程度のほの暗い空間という場が似つかわしい。このような空間と対比をなすのが、ホワイト・キューブであり、その前身である西欧における宮廷や貴族の館の大きな部屋の壁一面に何段にもわたって掛けられるか固定されて置かれる収集品で埋め尽くされる一種空間恐怖的な空間―――例えばハプスブルグ家の驚異の部屋―――である。これに対し、骨董は必ず仮設的に設置され、じきに移動されることを前提としている。前述の藤原えみり氏の言説にからめて言えば、日本におけるウチ=私的空間も固定的ではないのであり、そもそも日本間自体が、昼間は茶の間でも、夜、蒲団を敷けば寝室になり、襖を外せば大広間になり、屏風で仕切れば小間になるという感性が基底にあるわけであって、骨董も普段は土蔵や押入れなどに収納されているものを季節に合わせて床の間に飾ったり、何かのイヴェントに合わせて倉庫から出したりして、鑑賞に供するという具合になる。つまり、骨董も一過性、一回性の「祭り」という場に消えモノとして仮設されるのである。
(注6)NICAF
国際コンテンポラリーアートフェスティバルTOKYO(Nippon International Contemporary Art Festival)1992年から東京国際フォーラムなどでほぼ毎年開催
(注7)小品
現代美術のほぼ全ての潮流・領域に何らかの影響を与えていると言っても過言ではないマルセル・デュシャンの作品のうち、『グリーン・ボックス』は、ポートフォリオとしてのミニチュア(あるいは形見かたみ)だったのであり、その意味においてデュシャンの作品中、唯一今なお現代美術の今後の行くえを十分射程内においているともいえ、換言すればデュシャン自身図らずも美術館に収蔵されてしまった自分の作品に対して形見かたみを残すことによって美術館もろとも自ら挑発し続けている真の意味での遺作であるとも言えるのではないだろうか。
北澤憲昭氏が著書『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』において、「柳宗悦の民芸運動とマヴォとの間に、遠く響き合う同時代性を見いだすことも決して不可能ではないだろう。」(192頁)と述べている。村山知義らの戦前アヴァンギャルド美術と、柳宗悦らの民芸運動(及び東西の古典絵画に退行していった岸田劉生の画業)とが、大きな意味で共時性をもっているとすれば、次のようにも考えられないだろうか。つまり、日本の近代美術において、既成の権威的価値に対する批判側つまり時代の推進役として、アヴァンギャルド的な動向と工芸的(あるいは骨董的)な動向という少なくともふたつの系譜が陽と陰のように存在していたのではないだろうか。日本の近代美術史をたどるとき、陽であるアヴァンギャルド的な動向だけがその系譜としてどうしてもクローズアップされ勝ちであるが、そもそも日本の近世までの美術は工芸的であったという意味において時代錯誤的、退行的ともいえる工芸的(骨董的)系譜も、アヴァンギャルドの系譜に勝るとも劣らない重要な流れなのではないだろうか。―――もし今後、この工芸的系譜が活発化するとすれば、アートがその語源である職人的手仕事(ブリコラージュ)に退行していくのかも知れないとの予感さえするのである。
5 まとめ
モダンが終焉しポスト・モダンがやってくるといった言説が、再び、かまびすしい。
明治維新以降、日本における今次数度目の―――広義では日本ではしばしば反欧米思想として現出する―――ポスト・モダン現象が、今後、どのような広がりと深さをみせることになるのかはひとまず脇に置いて、いずれにせよ、ホワイト・キューブ空間をその基本的装置とする(西欧)近代美術が視覚の絶対的優位性に立脚した鑑賞行為による観衆をそのパトロンとしてきたとするなら、これまで述べてきた「グッズ、祭り、骨董としてのアート」におけるパトロンとは、同じ大衆ではあるが従前のように見るだけ(高々、入場料を払うだけ)でホワイト・キューブ空間を通過するのみの観者ではない。物欲を刺激されて所有という行為に至ったり(=グッズ、骨董)、あるいは視覚以外の感覚も開放して参加したり(=祭り)する観者がパトロンとなる。
ひるがえって考えてみると、日本の戦後現代美術は、そういったパトロネージをあまりにも等閑にしてきたということになる。つまり、パトロネージという「器」を作ってこなかったのである。(ちなみに戦後の日本の美術においてパトロネージとして定着しているのは皮肉にもいわゆる画壇という家元制度だけであろう。)具体的には、銀座等の画廊は日曜日や祝祭日は休廊しているのが一般的であるし、平日も夜は六時か七時で閉まってしまう。おそらく、このことは、明治以来の実業家系近代数寄者的コレクターがパトロンであった戦前の名残が漫然と慣習化しているのではないかとも推測される。これら近代数寄者的コレクターの他に平日の昼間に画廊を訪れることができるのは美術家や評論家、キュレーターなどの業界内の人間か、あとは美術系の学生だけである。これでは、人的にも広がりを欠いた閉鎖的市場にしかなりようがない。日曜祝祭日か夜遅くしか自由時間のない一般ビジネス社会の住人などはコレクターとしてそもそも眼中にないということなのだろうか。何も画廊にコンビニ並の開店時間を望むものではないが、こういったところからして、日本の現代美術にはパトロネージがないと批判されても仕方あるまい。
(西欧)近代芸術においては、身体というマチエールが本質的に必須のものとして組み込まれている演劇や詩歌は裾野分野とされ、これに対し山頂に位置する分野は、自己完結性の高い、即ち商品としての完結性・流通性の高い絵画(タブロー)と小説であった。このことが端的に示すように、市場の成立が(西欧)近代の美術制度成立のメルクマールであるとしたら、日本の現代美術はひょっとすると(西欧)近代的制度としても成り立っていなかったのかも知れない。しかし、そうであるからといって、マーケットとして無理やり成立させようとしても、このご時世では公営美術館はもちろん、民間企業メセナの民営美術館も所蔵品収集予算の増額など望むべくも無い。また、(アートの最終消費者たる)個人による購入・コレクションを振興・促進すべく、例えば寄付税制や相続税制の見直しといった政策的インセンティヴ税制(注8)を導入しても限界がありなかなか大きな実効は望めないだろう。
さらに、日本の現代美術において、〈器〉となるべき装置の成立を妨げている根本的な原因としてもうひとつ例を指摘しておくと、それは、日本の居住空間の圧倒的な貧しさである。その原因がそもそも日本国土の平野部分の狭隘さによるものなのか、あるいは歴代政府の住宅政策の無策によるものなのか、はたまた、凝縮(縮み)の美意識によるものなのかはひとまず置くとして、外国からウサギ小屋(注9)と揶揄されるような現状が改善される兆しはいっこうに無い。そのような〈器〉に欧米原産のミニマル・アートばりの作品や、コンセプチュアル・アートばりの作品を盛ることがいかに似合わないかは、少し想像力を働かせれば容易に気がつくのではないだろうか。
(注8)政策的インセンティヴ税制
文化庁は、個人が所有する美術工芸品を対象に、美術館での公開を前提として所有権はそのままで美術館の専門家による安定した管理を受けられる「登録美術品制度」を1998年12月から開始しているが、登録申請が少ないため、公開することで得られるメリットを大きくしようと登録美術品を相続時に公開し続ければ相続税を猶予する仕組みをこの制度に加えることを検討している。(2002年10月19日(土)朝日新聞夕刊)
(注9)ウサギ小屋
1979年3月、EC(欧州共同体)委員会の機密文書に「日本は西欧人にしてみれば、ウサギ小屋より少しましな程度の家に住む仕事中毒症患者たちの国だ」という記述のあることが明らかになった。
さて、ここで結論的に述べるとすると、いささか自暴やけ自棄くそめくが、つまり、〈器〉を良く考えて〈中身〉を作っていくしかないのではないだろうか。ウサギ小屋という〈器〉、あるいは祭りという〈器〉に盛られるのに相応しい〈中身(=料理=アート)〉を作るしかないのではないかと思うのである。喩えてみれば、今までの日本の現代美術マーケットは、女子高校生に一生懸命パソコンを買わせようとしか考えていなかったようなものだったのであって、彼女らが欲しがっている物はパソコンではなくケータイだったのである。別の喩えに言い直すと、インターネットに接続されるべきものはパソコンであるというグローバル・スタンダードに拘泥していては、iモードというリージョナル・スタイルは生まれなかったのである。
さらに整理して述べると、祭りといういわば無形の伝承と、骨董という有形の伝世、―――饒舌な伝承と、沈黙の伝世―――つまり、多様な系譜によって後世に引き継がれていくことこそ望まれる姿であると考えられるし、かつまた、公的コレクションや企業コレクションという様態だけでなく、例えば、(アートの最終消費者たる)個人コレクターによる収集など、多様な目、感性、価値観によって伝承・伝世されることこそが重要なのではないかと考えられる。生物学において生態系が多様であることの重要性が指摘されていることに倣って喩えるなら、それがつまりカルチュラルなダイバーシティ(文化多様性)なのである。少なくとも、世界の文化がグローバル・スタンダード化することは、地球全体の文化としてはかえって脆弱化することにほかならないのである。
6 付言
退行は、いくら創造的という修飾語が付こうがあくまで退行の一種であり、西欧近代的な進歩を至上のものとする歴史観から見れば、なお価値の劣るものであることにおいては大した違いはないともいえる。欧米の皮肉好きから見れば日本は再び敗戦直後の12歳の子供(注10)に退行するつもりなのかと、受け取られるのかも知れない。一方、日本は歴史的に中国・朝鮮、西欧、米国とそれぞれの時代ごとに海外文化を輸入しては、その後のある一定の時代において内向きに篭ることによってそれを和様化―――ある意味で無原則化・骨抜き化、一方で凝縮化・繊細化―――することを波状的に繰り返し、かつ、それをあたかも地層のように整然と堆積させてきたのであるから、こうした退行という揺り戻し現象自体が日本的といえばあまりにも日本的であると言えなくもない。ただし、こうした胎内回帰現象が新しい肥沃な大地を用意するものとなるのかどうかは、じっくりと見守っていかなければならない。また一方で、土方巽が、西欧近代ダンスとは全く異質な身体の系譜から出発して〈BUTOH〉という独自の分野を確立したように、また、徹底的に内需向け商品であった盆栽が〈BONSAI〉として、同じく俳句が〈HAIKU〉として、海外にも認められるようになったように、先ず内需として成立しないアートは、決して、一時の流行ではない本物のインターナショナル・スタイルに展開(あるいは転回)することもないこと、あるいは徹底して内国向けであることの先鋭性もしっかりと記憶に留めておくべきなのではないかということも付言しておきたい。
(注10)12歳の子供
1951年、日本占領行政の任を終えたD・マッカーサー元帥は「日本人は12歳の少年のようなものであった」と米国議会聴聞会で証言した。
(引用・参考文献)
・小林秀雄『骨董』1948八年9月、夕刊新大阪(小林秀雄全集第8巻、2001年9月、新潮社)
・北澤憲昭『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』1993年11月、岩波書店
・塩谷陽子、エレノア・ハートニー『パブリックアートを住民の手に――行政主導、蓄積残さぬ日本型』1997年2月18日(火)朝日新聞夕刊
・藤原えみり『パブリックアートを語る前に』(カトリーヌ・グルー『都市空間の芸術――パブリックアートの現在』の訳者あとがき)1997年10月、鹿島出版会
・野村幸弘『パブリック・アートの居場所――迎え入れる「器」が大切』2001年10月13日(土)朝日新聞夕刊
(参考文献)
・イ・オリョン(李御寧)『「縮み」志向の日本人』1982年1月、学生社
・谷川渥『形象と時間』1996年6月、白水社
・橋本敏子『地域の力とアートエネルギー』1997年2月、学陽書房
・村田真『美術の基礎問題』2000年1月~2002年3月、大日本印刷Webサイト「artscape」内
・白川昌生『美術、市場、地域通貨をめぐって』2001年11月、水声社
・暮沢剛巳『美術館はどこへ? ミュージアムの過去・現在・未来』2002年9月、廣済堂出版