栗城史多さんの実像を追った河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社)の短い感想
『デス・ゾーン』(河野啓、集英社)のKindle版を読んだので、せっかくなので、その感想を。
編集者が書いた書評というと、余計にハードルが上がるので、期待されると困ります。
まとまりが悪くて読みにくいと思いますが、興味がある人はぜひ。
●栗城史多と小池都知事の違い
以前、このnoteで現東京都知事の実像に迫った『女帝』について感想を書きました。
小池都知事の場合、多くの疑問が指摘された「カイロ大学卒業」という経歴も含め、自分の「願望」がことごとく「成就」していく様に、スピ風にいえば「思考は現実化する」を地で行く、最強の引き寄せマスターであるとういう印象を抱いた旨を記しました。
人は誰でも、そのギャップの大きさはともかく、表の顔と裏の顔を持っているものです。
ところが、『女帝』を読むと、小池都知事の場合には、どうもそんな単純に割り切れるものではないという印象を受けます。つまり、表の顔と裏の顔という別個の表情を計算して使い分けているよりも、虚もまた「実」然として、彼女の表の顔面に溶け込んでいるような……。
うーん、わかるでしょうか……このニュアンス。
これは、ある意味「無敵」なんです。
たとえば、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」という、Twitterでよく見る冷笑的なリプライを仮に投げかけられたとしても、平然と「そうだよ。だって本当なんだもん」と、言ってのけられる。それも、何の罪悪感も自己欺瞞も感じていないような、「無垢」ともいえるような表情とともに。まるでカルト宗教の信者を相手にしているような。
そうなると、もう返す言葉もありません。
(例としてわかりにくかったら申し訳ございません……)
つまり、「彼女の中では虚などなく、実しかない」。それを客観的に見れば、「虚像もまた彼女の実像である」といえるのかもしれません。
一方、最近読んだノンフィクション『デス・ゾーン』で描かれた栗城史多さんについても、彼女に近いものを感じたものの、そこまで「無敵」の状態になることができなかった「脆さ」を感じた次第です。
2020年 第18回 開高健ノンフィクション賞受賞作。
両手の指9本を失いながら“七大陸最高峰単独無酸素”登頂を目指した登山家・栗城史多(くりき のぶかず)氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ、SNS時代の寵児と称賛を受けた。しかし、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。
彼はなぜ凍傷で指を失ったあともエベレストに挑み続けたのか?
最後の挑戦に、登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は何だったのか?
滑落死は本当に事故だったのか? そして、彼は何者だったのか。
謎多き人気クライマーの心の内を、綿密な取材で解き明かす。
――Amazon内容紹介より
●栗城史多の虚像とは?
栗城史多さんというと、『NO LIMIT ノーリミット 自分を超える方法』(サンクチュアリ出版)という自己啓発書がベストセラーになったことで、同僚の1人がアプローチを試みていたことが印象に残っています。
結局その企画は立ち消えになったようですが、 その後数年して、「単独無酸素で七大陸最高峰を目指す!」「ニートのアルピニスト」という彼の目標と実績に対して、さまざまな疑惑の声が識者から上がっているのを、折に触れて目にしました。
そんな栗城さんが、手の9本の指を凍傷によって失いながらも、8度目のエベレストへ挑戦するという、素人から見ても死ににいくような行動をし(実際には比較的容易なルートであれば登頂は可能であったそう)、実際に滑落死したというニュースを目にしたときは、まさに先述のAmazonの紹介文にあったようなさまざまな疑問を感じたものです。
不況のさなかに億を超える遠征資金を集めるビジネスマンでもあった。 しかし彼がセールスした商品は、彼自身だった。その商品には、若干の瑕疵 があり、誇大広告を伴い、残酷なまでの賞味期限があった。
――『デス・ゾーン』より
『デス・ゾーン』の著者は、2008年から2009年の間に栗城さんを毎日のように密着取材したテレビディレクター。栗城さんの番組を制作したものの、その後疎遠となったそうです。そして栗城さんの死をきっかけに、彼の足跡を丁寧にたどって書いたのが本書です。
詳しくは書きませんが、栗城さんにもまた裏の顔、虚像があることがわかりました。
「本当にそれ、単独と言えるの?」という疑問は、山を知る人たちだけではなく、著者自身も取材を重ねるうちに抱くようになったそうです。
そして、著者は本書の終盤である「推理」をするのですが、それが当たってしまいます。確信に触れないように書きますが、著者はさまざまな疑義を栗城さんに抱きながらも、本書の冒頭で、栗城さんの「ボクの理想はマグロです」という言葉に強烈に引きつけられたことが取材するきっかけになったというのだから、その衝撃は大きかったでしょう。
それは栗城さんの虚像を暴くものであったのですが、読んでいて私も言葉を失いました。
●自己啓発書の編集者の無力感と脱力感
ちなみに、自己啓発書もつくっている編集者個人としては、次のくだりに脱力感を感じずにはいられませんでした。
リーマンショックによって多くの人がリストラされ、年越し派遣村が話題になった当時のことです。著者は栗城さんに次のように質問し、ほぼ予想通りの回答が来たと述べています。
「仕事や住む場所がなくなって困っている人が、今たくさんいますよね?私なんかは、どこが先進国なんだ?って企業だけじゃなく国に対しても腹が立つんですけど、栗城さんはどう思います?」
彼は「いやあ」と笑みを浮かべた。
「仕事を選んでるだけじゃないですかねえ?ボクはバイトやめてもすぐに次のバイト見つけましたよ。前さえ向いてれば大丈夫じゃないですかね?後ろ向きになるから、何もかも失くしてしまうんですよ」
「後ろ向きだったからリストラされたわけじゃないでしょう?」
「そうかもしれないけど、切り替えて前を向かないと。ボクの知り合いは『向き不向きより前向き』っていつも言ってますよ」
――前掲書より
結局、自己啓発とは外向きではなく、内向きの働きです。社会や環境を変えようとするよりも、自分を変えよう、そうすれば世界の見え方は変わると――。
それは、一見、もっともな意見に聞こえるかもしれませんが、行き着く先は、結局のところ「自己責任」。
年越し派遣村の人たちを前にしたら、栗城さんの「前向き」な、自己啓発的な言葉は虚しく失速するのではないか……。
●栗城さんと義家議員の違い
ともあれ、栗城さんを、嘘つき、ずるい、どうしようもないやつ、と思う人もいるでしょうが、そうした一言二言の人物評で貶めることは、私にはできません。なぜなら、それは誰もが持っている、身に覚えのある負の側面ですから。
そして栗城さん自身も、それを自分の中で認める正直さ、弱さ、繊細さと罪悪感を持っていたからこそ悲劇につながったのではないかと。
ここが、先の小池都知事の人物評と、私の中で大きく違うところです。
さて、小池都知事同様に、本書には何人か政治家の名前が出てくるのですが、その1人が自民党の衆議院議員・義家弘介氏。「ヤンキー先生」として一世を風靡した人、といえばピンとくる人もいるはずです。
実は本書の著者は、2003年に義家氏を追った『ヤンキー母校に変える』というドキュメンタリーを制作していました。まさに義家氏を世に送り出した張本人。その後、連続テレビドラマ化されましたのですが、著者は義家氏について次のように語っています。少し長いのですが、引用させていただきます。
北海道余市町の北星学園余市高校が全国から高校中退者の受け入れを始めた一九八八年、十七歳だった「ヨシイエ」(私の知る彼を、こう呼ばせてもらう)もこの学校に編入した。彼の在学中は教室や学生寮で話をし、卒業後は酒を酌み交わした。私の家に泊まったこともある。
「母校の教師になるのが夢だった」
「お前ら生徒は俺の夢」
……彼も「夢」という言葉が大好きだった。しかしその夢を捨てて政治家に転身し、言動も顔つきも同一人物とは思えないほど変貌した。
社会科教師時代のヨシイエは、平和憲法の大切さを生徒に説いていたのに、義家氏は愛国教育の旗振り役となった。ヨシイエは沖縄の苦難に満ちた歴史を熱っぽく語っていたのに、義家氏は「国が選定した保守系の教科書を採用するように」と沖縄・竹富島の教育委員会に乗り込んだ。
ヨシイエの母校での取材テープはすべて保管してある。その映像を義家氏の目の前で再生して差し上げたい。画面の中のヨシイエに反論してほしい。彼を番組に描き、世に送り出してしまったことに、私はいまだ忸怩たる思いを抱えている。
――前掲書より
義家氏がヨシイエに何を言うのかはわかりませんが、おそらく、罪悪感も自己欺瞞も感じさせず、あの人のように平然と「何か」を言ってのける姿が目に浮かびます。
栗城さんも、義家氏のような「華麗な」転身ができる図太さがあればよかったのでしょうか。あるいは、自分の弱さをさらけ出せるような強さや友人がいればよかったのか。
どちらの選択肢も持ち得なかった栗城さんの人間臭さあふれる本でした。
(編集部 石黒)