現代こそ読むべき!スピノザから生き方を学ぼう!#3:『エティカ』第三部 感情の起源と本性について
前回までのあらすじ
さてさて、前回まででスピノザは、
精神と身体は一体で、相互作用的だということを突き止めた
今回は、それを踏まえて、じゃあ感情ってなんなの?
ってことを詳しく分析していくぞ!
ちな、第一回からのリンクはこちら
人間の本質は存在だ!
精神と身体が一つだよ!って発想
それだけ聞くとまぁそうだよなって思うよな
無意識って概念を知ってる現代人からすれば、
緊張してるときはいくら精神で何とかしようと思っても制御効かないし
心拍数が上がってハイになってるときは、思考もハイな思考になる
スピノザの時代はデカルトが精神優位に置いちゃったから
理性スゲー!っていうのを批判するために
夢遊病とか寝てるときは精神動かせないよねって、
結構面白い反論してるんだけど
ま、そこはわりかしどうでもいいわけよ
面白いのはここから
じゃあね、身体と精神が一体だとしたら、
重要なのはその「存在」自体がどう活動していくのか
ってことだよね。それこそが人間の本質じゃね?
と主張したことだった
人間の本質って、ストア哲学とかみたいに理性重視した哲学が多かったのよ
動物と人間の違いってわかりやすくここら辺にありそうだしな
デカルトさんも「われ思うゆえにわれあり」とか言っちゃってるし
そうなるとさ、理性で普遍的なものを考えてけば
人間の生きる道ってのもわかるやろって発想に行きつくわけで
それがカントの倫理にまで行きつく
カントは人間は理性的だからこそ尊厳がある。
その尊厳に値する行動、
つまり理性によって自由に自分で定めた生き方で生きようと主張した
もちろん、だれかを利用するという生き方は実は理性的ではない
そもそも利用して得をしようという概念自体が、
じつは欲望要因であり、理性スタートではないからだ。
この欲望自体はなぜ生じるかなど
自分でもわからない外的要因に生き方を決められるのは、
とても不安定な生き方ではないか
そういうわけで、
理性で人間を利用しない人間そのものを目的とした
普遍的な生き方を見つけようとしたわけだ
人間そのものを目的としたってなんやねん
って話は長くなるから簡単にいうと
「どんな場合でも嘘をつかない」とかね
だれもが人間に対して「すべき」あるべき規則ってことやね
わかる、わかるぞ!
これ読んでる読者たち
もう色んな疑問や質問でてきてるのわかるが、
とりあえずここまで!また別の機会にな!!
でだ、理性優位に立っていた哲学に対して
スピノザは
「いやいや、存在そのものを本質としようや」
というわけだ
これの何がヤバいって
ここから導かれる善や悪の概念がいかれちゃうのがヤバいのよ
ちょっと詳しく見ていこう
存在は自らを維持しようとする
存在そのものが本質としたけど、
存在ってのは変様していくってのがスピノザの考えだった
となると、
存在には存在を維持していこうとする力がないとすぐに消滅してしまう
その力のことをスピノザは「コナトゥス」と呼んだ
コナトゥス=存在を維持していく力こそが人間の本質となる
こういうとなんだか難しくきこえるけど
ようはお腹すいたら食欲というコナトゥスが働くよということだ
そのときに、暴食とかすると良くないとされる
なにせ七つの大罪の一つが「暴食」だ。まさに「悪」であった
しかし、スピノザは言う
コナトゥスが働いた結果の暴食なら、それは善だ
と
存在がより活発に動くよう、
存在自身がより自分自身を表現するように動くなら
それが今までは「悪」だとされていたものでも
「善」だと主張したのだ!
これはやばい
現にスピノザは、金に卑しいもの、虚栄心の強い者、
嫉妬深く他人の不幸を快く思うものも、各々の感情で善となると言っている
じゃあどういう感情なら善であり、悪となるのか
ここからが第三部の本題となるのだ
あなたが喜んでいるとき、それがあなたらしさなのです
前置き長かったな
感情にはいろんな種類あるけど、大事なのは二種類だけだ
活動力が増すような感情か、減退するような感情かだ
前者を喜び、後者を悲しみとスピノザは定義した
すげー元気出て活発になれるようなことが善であり喜びで、
もう悲しくてなにもしたくなくなるようなことが
悪であり悲しみというわけだ
だから、喜びの感情を細かく見ていくと、「あざけり」とかもあったりする
もちろん、どういう時にどういう感情が沸くかは、
その時々の状況と、その人の性格などによる
つまり、その人が生き生きとしているとき、
その人の個性が発揮されてるといわけだ
ダウンタウンの浜田雅功は、人の不幸を見ているとき
「カーカッカッカ」と嬉しそうに高笑いするが、
あれが浜田の本性の表れであり、善なのだ!
もし自分が人の不幸を見て喜ぶような人間だったしても卑下する必要はない
それで活動的になれるならそれでいいのだ
とはいえ、
スピノザは喜びにも悲しみにもならないものを「欲望」として
別のくくりに入れている
欲望の例に上がっているものを羅列しよう
競争心(あるものへの欲望)恥辱、親切、怒り(憎しみのために憎むものに禍をもたらそうとする)、復讐、残忍、臆病(怖れている禍を避けようとすること)勇敢、小心、丁重・従順(人々に気に入られようとすること)、野心、肉欲
親切も勇敢も肉欲も喜びではないのか…
一体なにが喜びと違うのか?
よくわからなかったが、100分で名著『エチカ』によると
どれだけ外部要因が強いか、ってことなのかもしれない
たとえば、競争心は活動力が増しているが、
活動する理由の原因が自分自身という存在よりも外部の要因の方が強い
スピノザは、存在そのものが原因となることが、
コナトゥスの能動性として見ているのだ(十全な原因という)
もちろん、100%自己原因となることはないだろう
しかし、多くの受動を通じ、喜びという活動力を増していくことで
その存在はますます変様し、喜びを感じやすい存在へと変化していく
そうなるために、
自分がどのような「組み合わせ」だと喜びとなりやすいかを
見つけることが重要となる
そして、自分の身体に対して肯定をしていくことを、
スピノザは、存在力としたのだ。
第三部 完
次回はこちら
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