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バカの言語学:「バカ」の語誌(7) 『甲陽軍鑑』

バカの言語学:「バカ」の語誌(6) 抄物

 小学館の『日本大百科全書』によると、日本史の時代区分は大きく分けて、大和朝廷の誕生から平安時代までが古代、鎌倉時代から安土桃山時代までが中世、江戸時代が近世、明治維新以降が近代と呼ばれています(学者により多少の違いはあるようですが)。
 「バカ」という言葉は室町時代、つまり中世後期に文献に現われ、中世の終わりぐらいまでの間に浸透していきました。そして江戸時代、つまり近世になりますと、町人たちが独自の文化を築いて、俗語や話し言葉を盛んに書き記すようになり、「バカ」や「アホ」も頻繁に使われるようになります。
 「「バカ」の語誌」ではこれまで、中世後期の間に「バカ」がどのように使われてきたかを見てきましたが、最後に取り上げたいのが『甲陽軍鑑』です。これは武田信玄や勝頼らのさまざまなエピソードと絡めながら甲州流の兵法を記した軍学書で、江戸時代には広く読まれた本です。最近でもビジネス書で取り上げられることがよくあるようです。


『甲陽軍鑑』偽書説の真相とは?

 しかし、この『甲陽軍鑑』をめぐっては、いつ誰が書いたものかについて非常にややこしい経緯いきさつがあります。ここからは主に浅野裕一・浅野史拡(親子だそうです)の共著『『甲陽軍鑑』の悲劇』という本に依拠して、その経緯を記します。

 『甲陽軍鑑』は全59品(「品」は「章」と同様の意味です)から成る、かなり大部な書物です。著者は品第五十三までが春日虎綱という、武田信玄や勝頼に仕えた家臣による筆録で、その後は虎綱の死没により甥の春日惣次郎が書き継いだ、という形になっています(春日虎綱には、高坂昌信、高坂弾正などいくつかの呼び方がありますが、ここでは春日虎綱に統一します)。
 ところが明治の半ば。19世紀も末のころに田中義成よしなりという中世史学者が「甲陽軍鑑考」という文章を書いて、『甲陽軍鑑』には年号についてなど明らかに間違っている記述が7箇所あることを指摘し、この本は偽書である、と断定しました。偽書というのはつまり、著者が春日虎綱ではないということ、そして内容が信用できず史料としての価値が非常に乏しい、ということです。
 『甲陽軍鑑』は原本が残っておらず、武田家の足軽大将の子で江戸時代初期の兵法学者として知られる小幡景憲による写本が最古のものです。田中義成は、この小幡景憲こそが本当の著者だとしています。春日虎綱の「遺記」を資料の一つとして利用してはいますが、各資料の内容をまとめて文章にしたのは小幡景憲だ、というのが田中義成の唱えた説です。
 もしもこの偽書説を採らず、『甲陽軍鑑』の記述を事実と見なした場合、この本は天正十四年(1586年)五月吉日の日付で終わっていますので、安土桃山時代に書かれたものと見なせます。しかし偽書説が正しくて、小幡景憲が実際の著者であれば、『甲陽軍鑑』は江戸時代初期に書かれた書物であることになります。
 それにしても(素人考えではありますが)とても長い文章の中に誤りがたった7箇所、しかも半分以上は年号の誤りなのですから、その程度ならただの記憶違いなんじゃないか、という気がします。しかも後になって、この7つのうち5つは田中義成の指摘のほうが誤っていることがわかっています。そして残る2つはいずれも年号の誤りなのですが、『甲陽軍鑑』の本文中に、年号については間違いがあるかもしれないが、という但し書きがあるらしく、これをもって偽書とするのはやりすぎじゃないか、と(少なくとも素人考えでは)思わざるをえません。
 ところが田中義成の誤りが判明した後も、なぜか『甲陽軍鑑』の偽書説は生き続けました。理由はよくわかりません。そしてそのために、この書物の史料としての信頼性は認められず、『甲陽軍鑑』にしか記述がない出来事は史実かどうか疑わしいとされてきました。その代表的なものが山本勘助の実在性に関してです。
 山本勘助は「ヤマカン」の語源になったともいわれる武田家の軍師ですが、かつては『甲陽軍鑑』以外に名前が出てくる文献が見つかっていませんでした。そのため、彼についてのエピソードは創作ではないのか、という疑惑は江戸時代からすでにあったようです。そして明治になり『甲陽軍鑑』が偽書と見なされるようになると、エピソードどころかその実在性までもが疑われ、山本勘助は架空の人物と見なされるようになります(ただし田中義成は、山本勘助の実在性までは否定していませんでした)。
 結局、1969年に北海道で山本勘助の名が記された書状が発見されて、ようやく実在の人物だったと証明されたのですが、それでも『甲陽軍鑑』の偽書説まで覆されるには至りませんでした。

 ただ、この偽書説について批判が全くなかったのかというとそうではありません。まず1960年代後半に有馬成甫せいほという軍事史家が甲州流兵法について書いた論文で田中義成の誤りを指摘し、『甲陽軍鑑』を史料的価値の高い書物としています。
 それから1980年代に入ると、酒井憲二という国語学者が国語学の観点から厳密な史料批判テキスト・クリティックを行い、『甲陽軍鑑』は春日虎綱の口述を大蔵彦十郎が筆記したもの(そして虎綱の没後は甥の惣次郎が書き継いだもの)と認めました。そして小幡景憲は最初の写本製作者という立場に留まっているとしています。
 以上の批判はどちらも違う分野からのものだったためか、中世史学界からの反応は弱く、偽書説は専門の学者たちの間で維持され続けます。しかし2000年代に入ってから、ようやく中世史学の内部からも黒田日出男らが偽書説を批判し始めます。また著者に関しては偽書説を引き継いでいても、『甲陽軍鑑』の史料的価値については評価する学者が現れるようになっています。
 黒田日出男は「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史」という文章で、以下のようなことを書いています。

ところで、学部生時代のわたしは、ある先輩から『甲陽軍鑑』は怪しげな軍学の書であり、とても史料としては使えない代物である。もしも使えば致命的であり、歴史研究者としてはやっていけなくなると教えられた。そうした『甲陽軍鑑』の位置づけと評価・評判は、この先輩だけのものでは決してなかった。言わば、日本史学界の「常識」のようになっていたとさえ言えるだろう。

黒田日出男「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史」

 ウィキペディアによると黒田日出男は1943年生まれなので、上記の「学部生時代」は1960年代前半、つまり有馬成甫による偽書説批判より前のころと思われます。この時代には『甲陽軍鑑』という書物は理屈抜きに信用してはならない、アンタッチャブルなものと見なされていたのがわかります。
 それでは現代ではどうか、と思って、武田信玄について書かれた比較的最近の本をひもといてみると、『甲陽軍鑑』からの引用は結構あるのですが、『甲陽軍鑑』自体はやはり信用できないとしているものが多いようです。
 もちろん、以上はあくまで偽書説に否定的な側から見た話で、ほんとうに『甲陽軍鑑』の著者が春日虎綱と惣次郎であり、これを安土桃山時代に書かれた文献と見ていいのかどうかは、門外漢の私には判断のしようがありません。偽書説を今でも主張している学者たちには、その人たちなりの言い分があるのかもしれません。
 ただ、もしも偽書説に根拠がなく、ただ昔からそうだといわれているというだけで生き続けているのだとしたら、そういうのっていかにも日本っぽいよなあ、という気はします(よその国のことはわかりませんが)。

ChatGPTに聞いてみた!

 ところで、私は流行り物には慎重なほうなのですが、今話題のChatGPTが『甲陽軍鑑』の史料的価値についてどう答えてくれるのか、ちょっと興味が湧いてきました。そこで、せっかく無料で使えるのだし、と思って、「甲陽軍鑑の資料としての信頼性は?」と訊ねてみました。以下が回答です。

甲陽軍鑑は、江戸時代末期に著された軍記物であり、戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍の戦闘を描いています。この書物は、幕末から明治にかけての武士道精神を伝える書物として、また歴史的資料として広く知られています。

しかし、甲陽軍鑑はその信頼性について議論がある書物でもあります。著者である山内容堂は、自らの体験や聞き書きなどを基にして書いたものであり、一部の記述には誇張や捏造が含まれていると指摘されています。また、書かれた時代背景から、新政府軍を賛美する側面が強く、幕末の歴史を客観的に伝えるという点で限界があるとされています。

一方で、甲陽軍鑑は、戊辰戦争当時の実際の戦闘や武器、戦術などに関する詳細な描写が含まれているため、歴史的な資料としての価値が高いとされています。また、当時の武士階級の思想や価値観などを知る上でも、貴重な情報源となっています。

したがって、甲陽軍鑑は一部に誇張や偏りがあるものの、幕末から明治にかけての歴史的な文化や戦争の状況を理解する上で重要な資料とされています。ただし、その内容を客観的に評価するためには、他の史料と照らし合わせることが必要です。

ChatGPT

 全然違うじゃん! 戊辰戦争? 著者が山内容堂?
 いったい何と勘違いしているのだろう、と調べてみると、「戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍の戦闘を描いて」いる文献は、『復古記』を指しているのかと思われます。しかし山内容堂が著者、というのはさっぱりわかりません。だいたい何で『甲陽軍鑑』と『復古記』を間違えるのでしょう。誰か勘違いをしている人がネットのあちこちに書き込みをしているのでしょうか。
 ChatGPTにはじめて質問してみた結果がこれだったので、もう全く信用できない……、といったんは思ったのですが、もしかすると質問の仕方が悪かったのかもしれません。そう考えて、今度は勘違いをされないよう、「春日虎綱の著作とされる甲陽軍鑑の資料としての信頼性は?」と訊ねてみました。すると……

甲陽軍鑑は、戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけての武将、春日虎綱(または春日局)が著したとされる兵書です。この著作がどの程度の信頼性があるかは、諸説あります。

一部の研究者は、甲陽軍鑑が戦国期の実践的な戦術や戦略を記した貴重な史料であると主張しています。彼らは、春日虎綱が豊富な戦場経験を持ち、戦闘に関する実践的な知識を持っていたことを根拠に挙げています。

しかし、他の研究者は、甲陽軍鑑が春日虎綱自身の経験や意見に基づく主観的なものであるという指摘をしています。また、軍制や戦争の理論についての記述が不足しているため、信頼性が低いとする意見もあります。

さらに、甲陽軍鑑が現存するのは、江戸時代に復刻されたものであり、原本が存在しないため、正確な内容や著者についての情報を確認することができません。

したがって、甲陽軍鑑は戦国期の武術や戦術に関する貴重な資料であるとされていますが、その信頼性については意見が分かれています。研究者たちは、複数の資料を照らし合わせ、慎重な検証を行うことで、甲陽軍鑑に含まれる情報の真偽を判断しています。

ChatGPT

 「春日虎綱(または春日局)」などと、歴史好きの方が読んだら大ウケしそうなデタラメを含んではいますが、それでもさっきの回答よりはだいぶまともになりました。しかし偽書説には触れておらず、「信頼性が低い」と見なす研究者たちも春日虎綱が著したとは考えているかのような記述になっています。
 人工知能については、「バカの心理学」というくくりで知能について考える際に取り上げようかと思っていますが、現時点では、こんなもんで大騒ぎしてて大丈夫か? というのが私の印象です。もちろん使い方次第なんでしょうけど。

「馬嫁なる大将」とは

 だいぶ寄り道をしてしまいました。それでは『甲陽軍鑑』の中の「バカ」を見ていきましょう。『甲陽軍鑑』では、私が見つけた限りだと、品第十一、品第十三、品第十四、品第三十一、品第四十において「バカ」が使われています。品第四十では「ばかぐれ」という聞き慣れない複合語になっています(『日本国語大辞典』によれば「むやみに人に物を与えること」という意味だそうです)。
 これらの箇所の内、いちばん重要なのは品第十一かと思います。まず冒頭で春日虎綱は、領国を失い家を亡ぼす武将(「大将」)には次の4タイプがあるといっています。
①「馬嫁ばかなる大将」
②利口すぎる武将
③臆病な武将
④強すぎる武将
 そして「馬嫁なる大将」について、次のように説明を始めます。

先づ第一に馬嫁なる大将。これをところによりてうつとも、たはとも、耄者ほれものとも申すなり。

『甲陽軍鑑』 品第十一

 つまり「バカ」という言葉について、ところにより「うつけ」「たわけ」「ほれもの」ともいう、と説明しています。
 「「バカ」の語誌(3)」で見た『日葡にっぽ辞書』では、「うつけ」「たわけ」「ほれもの」のいずれも、BQTでいえばウスラバカの意味とされていました。それに対して「バカ」は「物事をよく知らなかったり、躾が悪く、礼儀をわきまえなかったりするために、人がしでかすでたらめ」となっています。この語釈はウスラバカ、クソバカ、トンデモバカのいずれともとれそうですが、トンデモバカのニュアンスがやや優る感じがします。
 ところが『甲陽軍鑑』では、これらの語はみな同じような意味であって、どれを使うかは「ところによりて」異なるのだとしています。
 この「ところによりて」というのが方言のことをいっているのかどうかははっきりしません。というのも、『甲陽軍鑑』の中では「バカ」だけでなく「うつけ」「たわけ」「ほれもの」もあちこちで使われているからです。
 『甲陽軍鑑』の冒頭にある「口書」で、春日虎綱は自分が「元来百姓」であったが、思いも寄らずに武田家の奉公人になり「少しも学問つかまつるべきひまなき故」に文字を知らず、この本の仮名づかいがあっているかどうかもわからないと言っています。そしてその少し後に、仮名書きを採用した効用について、以下のように記しています。

さてまた仮名の本を用ふる徳は、世間に学問よくして物よむひとは、百人の内に一、二人ならではなし。さるに付き、物知らぬひとも仮名をばよむものにて候間さふらふあひだ、雨中のつれづれにも無学の老若取りてよみ給ふやにとの儀なり。

『甲陽軍鑑』 口書

 つまり、仮名で書いてあるから自分と同じように無学な人でも暇つぶしに読めるでしょ、ということです。このような著者の態度から考えると、「バカ」や「うつけ」のような卑俗な話し言葉があちこちで自由に使われているのも、平易を心がけてぶっちゃけた言葉づかいを意図しているためなのかもしれません。

 それでは春日虎綱は、「馬嫁なる大将」をどんなバカだと言っているのでしょうか。

この馬嫁大将の仕形は、戯けても心は必ず剛なる者にて、我がまゝなる故、我が身を忘れ、遊山・見物・月見・花見・歌・連歌・詩・聯句れんく・能・踊りなどに好き、または芸能を専らにし給ひ、たまたま武芸の弓・兵法・馬・鉄炮を稽古あれども、その心戯けなる故、弓矢の道へは落さず、芸者のやうにしなし、いつもよろしく我は国持ちならんと思ひ、弓矢の道無心懸ぶこゝろがけにて、我がすることを何をもよきこととばかり存ぜらるゝにつき、その被官衆は大将の得給ふことも得ぬことも、皆誉むるものなり。誉むるはもつとも道理にてあり。

『甲陽軍鑑』 品第十一

 つまり遊芸にうつつを抜かし、武芸をおろそかにして、そのくせ自分は領主だと偉そうにしていて、仕える武士たちにこびへつらわれる――、というのが「馬嫁なる大将」の特徴です。これはどうやら今川氏真のことをいっているらしいのですが、父親の義元についても、山本勘助の優秀さを見抜けなかったのは「武士の道無案内故」と批判しています。それに比べて信玄公は山本勘助の才能を見抜いてすぐに召し抱えたのだが、と付け加えてもいます。
 今、「武士の道」という言葉が出てきましたが、『甲陽軍鑑』は「武士道」という言葉が初めて使われた書物としても知られています。
 しかし、私は『甲陽軍鑑』を全文呼んだわけではありませんが、この本の中での「武士道」は、江戸時代の『葉隠』のような強烈な精神主義ではなく、もっとリアリティに根差した職業倫理を指しているように思います。ともかく実際に合戦があって戦わなければならないのですから、軍が機能集団として統率されていなければならず、したがって統率者としての武将には優秀な人材を見抜く力やリーダーシップが求められます。しかし春日虎綱によれば、「馬嫁なる大将」にはそういう能力がありません。そしてそんな彼の下に「出頭仕つる衆」も「戯け」であるといい、「牛は牛れ、馬は馬連れ」という喩えを持ち出しています。
 ですから「馬嫁なる大将」というのは、単に武芸について知識がないとか、作戦を立てる頭脳がないとかいうより、リーダーシップや武士としての職業倫理に欠ける者を指しているようです。これは端的にいうと「くだらない武将」ということであり、BQTの中ではクソバカの意味が強いと見てよいのかと思います。
 『甲陽軍鑑』では大将だけでなく、仕える武士たちについても4つのタイプに分類していて、そこでも「バカ」が使われています。

さてまた一切の侍衆のうちにも四人と、また高坂弾正が小眼こまなこより見立てゝ候。聞き給へ、長坂長閑老、跡部大炊助殿。一番に少しも戯けずしてつわものあり。二番に馬嫁にて兵あり。三番に利発にて臆病なるひとあり。四番に馬嫁にて臆病なるひとあり。
一、利発にて心の剛なるひとをば、世間の者憎むなり。一、利発にて臆病なる者は、ひとの気に入りて走り廻り、近づき多し。一、馬嫁にて兵は、手柄をいたしても、あまりひとが存ぜぬ者なり。一、馬嫁にて臆病なるをば、ひとの嬲者なぶりものなり、結句として衆人多し。

『甲陽軍鑑』 品第十四

 「兵あり」というのは「剛勇な者」という意味ですので、①利口で剛勇、②バカで剛勇、③利口で臆病、④バカで臆病の4タイプがある、ということです。
 この類別が面白いのは、利口はよくてバカはダメ、とも、剛勇ならよくて臆病はダメ、とも言っていないことです。春日虎綱は詳しく解説していないのですが、どうやら彼のいう「利発」さは、頭脳的な戦い方ができるとかいうことより、功名を得ることに対する要領のよさを指しているようです。ですから「バカで剛勇」だと手柄を立てても気づいてもらえないし、「バカで臆病」だといじめられはしても功名争いとは無関係なので反感を買うことはない、という話になっています。
 おそらく春日虎綱は、たくさんの兵たちを統率するには、彼らについてしっかりと理解し把握して心をつかむことが必要だと言いたかったのだろうと思います。つまり人事に通じることがリーダーには必要だと言っているわけで、こういうところが現代のビジネス書などで『甲陽軍鑑』が取り上げられる理由なのでしょう。

「バカ」は「バカ」のみでも「バカ」を表した?

 品第十三では、以下のような形で「バカ」が使われています。

それをかんがへて、戯け者に知行をくれ、立つものまで、そのまゝ置けば、この家中にはなにたる馬嫁もむさと知行を取るぞと心得、若者ども行儀無嗜ぶたしなみになるものなり。

『甲陽軍鑑』 品第十三

 「「バカ」の語誌(3)」で、「バカ」が文献に現われるようになって以降、『日葡辞書』(1603年刊行)に至るまで「バカ」だけでは人を指す言葉にならず、愚かな人を表すには「バカ者」や「バカげな者」という形にしなければならなかったらしい、ということを書きました。しかし「「バカ」の語誌(6)」では、抄物の『碧巌鈔』に「バカ」のみで人を指している箇所があることを見ました。
 上記の引用箇所では、『碧巌鈔』と同じように「バカ」のみで人を表しています。そして「なにたる~ぞ」という詠嘆文に含まれているので感動詞的なニュアンスはありますが、『碧巌鈔』の場合のように「バカ者!」と罵倒する言い方ではありません。
 『碧巌鈔』は『日葡辞書』より前に書かれたものかどうか曖昧でしたが、『甲陽軍鑑』についてはすでに見たように江戸時代初期に書かれたものとする説(つまり偽書説)と安土桃山時代に書かれたとする説(つまりほんとうに春日虎綱が書いたとする説)とがあります。
 両説のどちらを採るべきか私には断定はできませんが、『甲陽軍鑑』で使われている言葉について、偽書説を否定している前述の酒井憲二は次のように言っています。

甲陽軍鑑の原語も、また従ってその内容も、近世前期のものとしてではなく、室町後期、即ち、中世末期の所産として活用されなければならない。国語資料としても、キリシタン資料や抄物等と並んで拮抗し得る一面を、甲陽軍鑑は十分に湛えているのであるから。

酒井憲二『甲陽軍鑑大成』研究篇
※浅野裕一・浅野史拡『『甲陽軍鑑』の悲劇』からの孫引き。

 もしも酒井憲二の言うとおりであるなら、「バカ」だけでも人を指すようになったのは江戸時代に入ってからではなく、中世末期にはすでにそういう使い方がされていたことになります。そうなると『日葡辞書』との整合性という問題が出てきますが、地域による違いがあったのかもしれません(『日葡辞書』は長崎で作られ、『甲陽軍鑑』は山梨で書かれています)し、あるいは『日葡辞書』を書いた宣教師たちの調査不足だったのかもしれません。
 こんなことはもちろんどうでもいいといえばどうでもいいことなのですが、こういうどうでもいいような細かいことに大昔の言語生活についてのリアリティが潜んでいるように私には感じられます。そういうリアリティを漠然とでも感じることが、学問をする楽しみの一つなのだとはいえます。

◎参考・引用文献
『日本大百科全書』 小学館、1984~1994年 ウェブサイト「コトバンク」にて閲覧 https://kotobank.jp/dictionary/nipponica/
浅野裕一・浅野史拡『『甲陽軍鑑』の悲劇 闇に葬られた信玄の兵書」 ぷねうま舎、2016年
黒田日出男「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史」『立正大学文学部論叢 124号』 立正大学文学部、2006年 ウェブサイト「立正大学学術機関リポジトリ」にて閲覧 https://rissho.repo.nii.ac.jp/
佐藤正英校訂・訳『甲陽軍鑑』 ちくま学芸文庫、2006年
甲斐志料刊行会編『甲陽軍鑑』 甲斐志料刊行会、1932年 ウェブサイト「国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/pid/1240963/
北原保雄『日本国語大辞典 第二版』 小学館、2003年
土井忠生ほか編訳『邦訳日葡辞書』 岩波書店、1980年
上記の他、多くのウェブサイトを参考にしました。

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