さなぎの中の蝶々
三才児の寝かしつけは、最近柔道の寝技の掛け合いようになってきた。ここ数日は、眠る前になんども大声で泣き叫び、疲れ果てて寝たかと思えば、またふと起きて泣き出すような、泥試合の体を成している。
その晩は、一日を教会で過ごした後だった。昼寝をしないで遊びまわっていた彼は、眠くて仕方なかったはずなのに、疲れすぎて眠れなかったのだろうか。そういうときの子どもは、ほんとうに手に負えない。
「うちにあるえほんをぜんぶよんで!」などと無茶を言われて、もう起き上がる気力もなかったわたしは、出来るだけ楽な方法で寝かしつけようとあの手この手を使い、そしてことごとく失敗した。
気づいたとき、わたしは読書灯がほのかに灯る寝室で、息子にぴったりと寄り添われながら、わたしとキリストの関係について語っていた。いま、キリストがわたしに示してくださっていること、砕かれる道と、みずからを他者のために費やす道について。
おおきな黒目をこころなしか潤ませて、息子は母のことばを聞いていた。わたしはそんな彼に向かって、わたしがなぜ日々生きていられるのか、わたしのなかを満たしてくれているキリストについて、言葉をふるわせて語っていた。
「わたしは宗教的にはなりたくないの。死んでしまった宗教みたいな言葉で、わたしの大好きなキリストを語りたくないの。わたしが日々キリストを感じながら生きていること、キリストに自我を殺されていく感覚がしていること、そういったことを、わたしの言葉で書いてみたかったの。だからママは本を書いたの」
「神さまがわたしを、真っ直ぐな矢のように使ってくださっている感覚がする時があるの。でも、それにはわたしの自我はすべて砕かれなくてはならないの。もし矢に余分なものが付いていたら、余計な傷が付いてしまうでしょう。矢として用いられるには、わたしはすべて死ななくてはならないの。そしてキリストに砕かれるのは、わたしにはとても嬉しいことなの」
ほの暗い部屋のなか、父親譲りの長すぎる睫毛が、ゆっくりと閉じられていった。おおきな白いベッドを、なぜか横に使って眠りに落ちた息子を眺めながら、わたしは殺されていく感覚がしていた。それと同時に、なにか美しいものに生まれ変わる感覚もした。
さなぎの中の蝶々みたいなのかも、と思った。神さまはわたしを殺して、溶かして、なにか美しいものに造り変えてくださっているらしい。さ夜ふけて、身震いがするようなふしぎな感覚とともに、わたしはわたしの内側にいるキリストに、みずからを明け渡す喜びを感じていた。