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ジョウロのはなし



 山を下りてゆくと、ちいさな菜園がみえた。竹のはやしに囲まれて、瓦葺きの農家がたった一軒、谷戸の奥に建っている。湿った風が斜面をふいてゆく。きれいに立てられた畝に、太った白菜が育っているのを、わたしは階段のうえからぼんやりと眺めた。

 畑には、頑丈な身体に、粗末な服を着たひとがいた。鍬から手を離すと、彼はわたしに呼びかけた。やさしくて、なにかを思い出すような声だった。名まえを呼ばれて、畑にあしを踏みいれる。きょうは、作物の育てかたを教えてもらう約束だった。自信はない。わたしはサボテンを枯らしたことで有名な人間だから。

 奥まった谷戸のなかは、まるで戦前のような雰囲気だった。よく手入れされた畑と林、まあまあの自作農といったかんじの百姓家。なにも作りものめいたところがない、有機的な景色だった。きっとこの家は、何百年もここに生えているのだろう。

 用意してきた手拭いをほっかむりにして、わたしは命令を待つみたいに、そのひとの前に直立した。まあまあ、気張らなくてもいいよ、と彼は微笑んでくれた。

 「なんでもいいよ。なにか道具を持っておいで」

 そう命じられて、きれいに整えられた納屋のなかから、みどり色の如雨露を手にとってきた。プラスチックの、よく公園なんかにあるような、普通のじょうろだった。十代の頃、かなわぬ園芸熱に浮かされて、誕生日プレゼントをくれるという友だちに、じょうろをねだったことがある。彼女がくれたのは、可愛いけれど、役には立たなそうなブリキのじょうろだった。対照的に、手のなかのこれはいかにも実用的だ。

 「なにを持ってきたの?」

 見えてらっしゃるでしょうに。けれどこの方が問うとき、それはわたしに答えさせたいからなのだと、とうに知っていた。

 「じょうろです。どこにでも売っているような、ありきたりのじょうろ」
 「そう、じゃあ水やりをしてもらおうか」

 そう言って彼は、わたしを家の表に、ほそい道に面した木塀のなかの、広い前庭へとみちびいた。意外にも、そこにはなにも植わっておらず、ただの茶色い地面がひろがるだけだった。

 「ここに水やりをするんですか?」

 水やりをするもなにも、ただの地面じゃないか、と思って、問いかえす。彼は黙って、空間のまんなかに存在する、大きな井戸から水を汲んでくれた。

 「まず、じょうろの内側を洗うところから始めるんだよ」

 そう言って彼は、わたしの手からじょうろを受けとり、透きとおった冷たい井戸水で満たしては、注ぎだした。なんどかそうしたのちに、はい、どうぞ、とわたしにじょうろを返してくれる。

 「さあ、やってごらん」

 そっと、わたしの背中をつつみこむように、彼がうしろから、じょうろを持つ手を支えてくれる。いつしかわたしは、自分がじぶんでないような、わたしが消えて、彼に満たされているような感覚になって、うっとりとその胸によりかかっていた。

 「いまは、このくらいでいい」

 そう言うと、彼はわたしから離れた。いま水やりをしたばかりの地面を眺めながら、わたしの心に、不安がわきあがってきた。

 「なにも植わっていないのに」
 「あなたには見えないだけだ」

 すぐさま返事がかえってくる。振り向いてみると、彼はまだ傍にいた。その目を見つめているときだけ、わたしはこの胸を巣食おうとする不安から、逃れることができる。

 「なにが植わっているんですか?」
 「それは知らなくてもよいことです」

 じっと彼を見つめる。するとその瞳は言っている。いいから、信頼しなさい、と。それでも甘えてみたくって、わたしはわざとぶつぶつ呟いてみせる。

 「わたしはただのじょうろ」
 「そう、ただのじょうろが必要だったのです」
 「空っぽのじょうろ」
 「じょうろの中に、ビールが入っていたら困るよ。わたしの汲んだ水を入れられる、空っぽで清潔なじょうろが、必要だったのです」
 
 あなたが、わたしを必要としてくださった。わたしは、それだけで幸せ。彼はもういちど井戸から水を汲んで、わたしの汚れた手足を洗ってくれた。その貴い身を屈め、跪いて、わたしの手足を。

 「わたしがしたように、生きてみてごらんなさい」

 彼はつぶやいた。わたしの足を、真っ白な手拭いで包みながら。そしてつと手をのばすと、わたしの手を握ってくれた。もういちど、わたしの心から、不安が溶けて消えさっていく。

 「小さなじょうろさん、今日はご苦労さまでした。この成果は、すぐには見えないかもしれない。けれどわたしの与えた仕事には、かならず意味があるのですよ。じょうろさんは、ただ何も心配せずに、わたしの手のなかに、居てくれればよいのです」
 
 語られたことばよりも、その瞳の語っていることのほうが、ずっと大きかったような気がした。それとも、わたしが捉えきれなかっただけかもしれない。心に囁かれる、彼のことばを。空気のように繊細で、いとも簡単に掻き消されてしまいそうな、ささやき声。

 わたしは誤解されたってかまわないのです。ただ、彼のじょうろでいたいだけ。願うのは、わたしが清潔なじょうろでいられますように、ということ。わたし混じりの水ではなくて、彼がその内側から湧き出る井戸から汲んでくれた、あの透明な水を、どこでも言われたところに注げますように、っていうこと。

 



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