![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111538585/rectangle_large_type_2_9fce60240fdd8e6b13dcb002abc4141f.jpeg?width=1200)
わたしのものではない戦争 (短編)
*この小説は虚構であり、
実際の団体や人物とは
なんの関係もありません*
地獄の底から響いてくるような声だった。まずは小さく始まって、「ゥゥゥウウウ」という唸り声はすぐ「ウワアアアアアアア」という叫びに変わった。大丈夫? と仄かな灯りに照らされた寝顔を覗くと、苦悶の表情。けれど夢からは決して覚めない。
彼がどのような地獄を見てきたのか、わたしにはわからない。けれど毎晩のように聞かされる叫び声が物語っている。彼は戦場から帰ってきたのだ。ひとを殺したのか、殺されたのか。
ふたたび夜のしじまが戻るけれど、元通りとはいかない。あの叫び声が、空気を引き裂いてしまったから。ああ、神様、もういちど戻ってきてくださいな。そしてこの寝室を、あなたで満たして。
とおい、遠い戦場から離れて、わたしたちはこの海辺の町であたらしい人生を築く筈であったのに。戦争はふれたひとを誰でも変えずにはいられないらしい。
エレーナを思い出す。同じ教会に通った、わたしの友達だったひと。半分だけ日本人のわたしと、半分だけロシア人のエレーナ。ふたりとも本を読むのが好きだった。
正義がなんなのか、わたしにはわからなくなってしまった。エレーナはロシアの国営テレビを見ていた。わたしたちは、いつしか同じ言葉を語れなくなってしまった。
オレクとわたしに手を差しのべてくれたのは、湘南に住んでいるわたしの祖母だった。夏みかんの生る庭と、白いペンキの二階建ての家。隣のお屋敷は松林で囲まれていて、自転車を漕げば海はすぐそこ。
オレクは片手を失った。けれどわたしはもっと怖いことを恐れている。彼が魂を失ってしまうこと。いっそわたしが戦場に行けばよかった、とさえ思う。わたしが? いままで本を読む以外に何もしたことがないようなわたしが、戦場で役に立つはずもないけど、それでも。
わたしは弱い、けれど神さまは強い。だけどオレクにはそれが言えない。オレクは自分を責めている。おれは弱い、おれは弱い、なんておれは弱いのだと。
もちろんわたしは言葉を尽くしたのだ。わたしはオレクを愛している。目の前で滅んでいくひとを、放っておくことなんて出来ない。ねえ、見て。イエスさまはここにいるわ。あなたは自由になれるのよ。自分を明け渡すだけでよいのに。
ねえ、でも言葉なんて虚しいわ。それがわたしにも分かった。オレクは虚ろな目で、わたしを監視していた。お前が言うそのキリストが本物なのかどうか、お前が生きて証明してみせろって。
わたしは女だから、軍隊には取られなかった。戦争が始まってからも安全な場所にいて、危険な目にはほとんど会わなかった。だけどわたしも戦場を知っている。これが戦場でなくてなんなのでしょう。
オレクが失ったのが左手ならば、わたしは何を失ったのかしら。分からない。でもわたしは倒れてなんかないわ。最初わたしの武装は不完全だった。訓練も充分ではなかった。でも神さまは、一歩ずつわたしを鍛えあげてくださった。祈ること、愛すること、赦すこと、みことばを毎日食べること。
いまではオレクもわたしを蔑みはしない。ただ他の惑星から来た妻だとでも思っているらしい。ともかくわたしは戦っている。和平交渉なんて馬鹿らしい。トルコやバチカンの仲介もいらない。わたしは勝つと決まっている。イエスさまが十字架の上で収めた勝利、それはわたしのものだから。これはわたしの戦いではないの。元からわたしの戦争なんかじゃなかった。イエスさまの戦争、イエスさまが勝った。
「戦争はいつまで続くんだろう」
毎朝ニュースを聞きながら、オレクがそう呟く。右手で不自由そうに、フォークを使いながら。わからないわ、でも all is well だわ、と答えながら、わたしは胸が押し潰されそうになる。見えない左手を見るたびに。手指と一緒に吹き飛んで消えた指輪を思うたびに。
「イエスさまが来るまで、戦い続けるのよ」
こないだ日曜日に教会で、シスター鷲尾にそう言われた。お医者さんの奥さんで、こちらに来てからいつも親切にしてくださる、お母さんみたいなひと。座っているわたしの肩を後ろからやさしく抱きながら。どうして分かったのかしら、わたしの考えていたことを。
「イエスさまが来るまで、約束よ」
分かっている。選択肢がふたつしかないことくらい。死んでみもとに行くか、イエスさまが来てくださるのを待つか。生きているのが辛すぎて、わたしを取り去ってくださればいいのに、とよく思う。でもオレクはどうなるというの。わたしが死んでしまったら、オレクはこの異国で、独りきりで朽ち果ててしまう。
わたしは知っている。オレクの人生がイエスさまに変えられることを。左手みたいに、目には見えないけれど、わたしは信じている。信じている事実は、そこに存在する。だからわたしは戦い続けるしかない。わたしの祖国に栄光を。そしてわたしの愛するイエスさまに、誰よりも大きな栄光を。