「自信がある」ってどういうこと?
こんばんは、飛び亀です。
今回は「自信」とは何なのか?
自信のある・なしをどう考えるか?
そういったことを心理学っぽい観点から考えてみたいと思います。
これまでになく、がっつり学問的な用語を説明している部分が濃いです。なんだか話が難しいとか、細かい話は嫌だという方は「☆」マークの見出しは飛ばして大丈夫です!
それは本当に「自信がある」と言えるのか?
私は、もともと何につけても「自信がない」ようなタイプの人間でした。いや、「自信がない」「引っ込み思案な」タイプの人間だと、自分を決めつけていました。いわゆる1つのアイデンティティってやつです。実際、子どもの頃は周りからもそう評されることが多かったと思います。おそらく、何かに付けてうじうじした態度を見せる子どもだったのでしょう。
しかし、最近になって自分より下の年代と関わることが増えてきたのですが(年齢的にね…)、そうすると周りからは「あの先輩は自信のないやつだ」などとは思われていないようなのです。
ん? これはつまり逆に「自信のあるやつ」だと思われている? ともすれば「偉そうなやつ」だと思われている?
(聞くのも怖くて)明確ではありませんが、ともかく自分の抱えてきた「自信がない人間」というアイデンティティは、近年になって大きくズレを見せ始めました。
それに加えて、もう1つ最近気付いたことがあります。
「自信がある」「自信がない」という言葉そのものの意味合いや使い方が、他の人とズレることがある。いや、これは私だけがズレているのではなくて、皆さんそれぞれ十人十色、「自信」という言葉が映す景色が異なっているのではないか。そう気付いたのです。
例えば、この会話を見てください。
パッと見たときに、皆さんはAとBどちらの方が自信のある子どもだと思いますか?
これ、人によって答えが変わるんですよね。
Aを自信のある子どもと見る考え方もあるし、Bを自信のある子どもと見る考え方もあるんです。結論から言うと、正解はありません。(なぜ両方とも正解になるのかは後述します)
ただ、僕は「Bが自信のある子ども」という考え方を普段からしていて。そして、かつてはそれが正解と思い込んで「自信」という言葉を使っていた。だから、A派の人に話が伝わらなくなることが時折あったんです。
自分自身のアイデンティティのズレ、そして上記のような「自信」の意味の取り違え。これに気付けたのは、やはり心理学的な知識を活用し始めてからでした。
ここでややこしいけれど大事なことを押さえておきましょう。
心理学の専門用語としては、「自信」という言葉はあまり使われません。しかし、「自信」を織り成し、形作るような心理学的概念はいくつか存在します。まず、それをざざっと紹介しますね。
自尊感情(自尊心)<self-esteem>
レジリエンス
自己肯定感<self-esteem>
社会的自己肯定感
基本的自己肯定感
自己評価<self-evaluation>
自己評価維持モデル<self-evaluation maintenance model>
セルフ・ディスクレパンシー理論<self-discrepancy theory>
自己愛<narcissism>
自己効力感<self-efficacy>
自己有用感<?>
一般的な「自信」の指す意味合いと重なってくる(Aくんの場合でもBくんの場合でも)のは上記のような用語です。いや、もちろんそれ以外にも「自信」に関係のありそうな心理学的概念は無数にあるのですが……
今回の記事では上記の用語を中心にしていきます。
とにかく、私が思っていた、そして皆さんが思っている「自信」という言葉には、意外と色々な意味合いがあります。本当に自信があるとはどういうことを指すのか。本当にそれは自信があると言えるのか。
こうしたことを考えていく記事になりますよ。
自尊感情と自己肯定感
まずは「自尊感情」という言葉、それと「自己肯定感」という言葉から見ていきましょう。
自尊感情は「自尊心」と言われることもありますが、今回はほぼイコールと捉えていきます。さらに言うと、自尊感情と自己肯定感もほぼ同じものと考えていいでしょう。なぜなら多くの出典で、ともに同じ"self-esteem"の訳語として紹介されているからです。ただ日本語の響き上、少し違った意味合いで捉えられることもあるので、その点も後で押さえておきましょう。
さて、「自尊感情」という用語の意味するところは以下のとおりです。
自分自身の価値をどう評価するか、そしてその評価に対して自分自身がどう感じているか、というところですね。ポイントとなるのは「自尊感情」の名の通り、自己評価そのものだけでなく、それに伴う感情を含んだ意味合いであることでしょう。「自己肯定感」という日本語表現は、特にその感情・気持ちが肯定的であるかどうかに焦点を当てたい(自己評価に対する感情のポジティブ度合いを捉えたい)ときに使うものと考えられます。
ただ、この「自己評価に対する感情」の説明をするには、自尊感情(自己肯定感)をもう少し細かく分解する必要があります。いくつかの軸に沿って、自尊感情(自己肯定感)をさっくり切り分けてみましょう。
自尊感情(自己肯定感)の「枝葉」と「根本」
自尊感情(自己肯定感)というのは、基本的には成功体験で高まるものですし、失敗体験で下がってしまうものです。ただ、1つの成功失敗でどれだけの影響を受けるかは、人によって違います。
例えば、失恋をしたとしましょう。相手に、こっぴどく振られてしまったとします。このとき、いくつかのパターンが考えられます。
一時的に凹むけれども、時間をおいてまた次のパートナーを探せる人
凹みに凹んで、一生パートナーなんてできないと本当に諦めてしまう人
相手が悪いなどと開き直って、すぐ次のパートナーを探す人
まず1. と2. について考えてみましょう。
一般的な「自信」のあるなしに合致するのがここですね。1. は自信がある人、2. は自信のない人だと十中八九言われると思います。
でも、よく見ると1. の人だって一時的には凹んでいるのです。このときは、多少なりとも自尊感情(自己肯定感)が下がっているものです。それでも、あまり長くうじうじせず、復帰できる人は「自信がある」とみなされます。
この回復力は「レジリエンス(弾力性)」とも言われ、嫌なことがあって凹んだとしても回復できる力をもっている人はレジリエンスが高いということになります。この回復力の違いは、どこから生まれるのでしょうか。
ヒントは……そう、自尊感情(自己肯定感)の分解です。エラい学者さんたちの研究の末、自尊感情(自己肯定感)はなんと、草木の「枝葉」にあたる部分と「根本」にあたる部分に分かれることが判明しています。いったい、どういうことか。
まず、自尊感情(自己肯定感)の「枝葉」の部分についてですが、これは地上に広がっていて、周りの人からもよく見える部分です。そして、人が日々の生活の中で失敗体験をしたとき、つまり自尊感情(自己肯定感)にダメージを負うときには、まずこの「枝葉」が傷つきます。地上に広がっているわけですから当然ですね。これはどんな人にでも起こりうることです。
ところが、こうして「枝葉」が傷つき、仮に伐採されてしまっても、「根本」が無事に残ってさえいれば、人は回復していきます。根が残っていれば、枝葉もいずれまた生えてくるのです。これが先の例でいう1. のタイプの人ですね。自尊感情(自己肯定感)の「根本」がしっかりと育っていたというわけです。
ところが、自尊感情(自己肯定感)の「根本」が弱い人は、失敗体験により身ぐるみを剥がされ丸裸にされると、もはや自立ができなくなります。これが2. の人です。
他人との比較で生まれる自尊感情(自己肯定感)
この自尊感情(自己肯定感)の根本とは何なのか。
ここで3. の例を考えてみましょう。こいつは、実は最初に出したテストの例のAに近い存在です。この3. に対して、「自信のあるやつだ」と評する人もいるでしょう。自尊心の高い、傲慢なやつだと。つまり、おおよそネガティブな意味で「自信のある人」だと言われるタイプです。
こうした人は「相手と比べて自分のほうが良い」と、他者比較で自分を上げているような物言い、考え方をしています。自分が間違っているはずがない、と。これも確かに、自尊感情(自己肯定感)の1つです。悪い意味での自尊心(プライド)と言われることが多いタイプですね。
これは対人的、対社会的――つまり他人と比較して生まれる自尊感情(自己肯定感)です。他人(外)の影響を受けるという意味では、先程の自尊感情(自己肯定感)の「枝葉」にかなり近いものでしょう。逆にいえば、これは自尊感情(自己肯定感)の「根本」とは異なるものと考えられます。
つまり、自尊感情(自己肯定感)の根本とは、他人に影響を受けるものでもなく、他人との比較に左右される類のものではない。自分の中に根付く「自分はこれでいいんだ」という思い、感情なのです。
これはどちらかというと無自覚で、自ら意識的に示す自己評価(心理テストとか、他人に対する自慢や謙虚さとか)には直接表れてこないこともあります。なにせ、土の下の根本ですからね。
そして、実は今の心理学で、また現代社会で求められているのは、こちらの自尊感情(自己肯定感)の根本がしっかりした人間です。すなわち、自分に対して「自分はこれでいい」と思える人間。最初のテストの例におけるBは、実はこのタイプに当てはまる可能性があります。テストの点が悪くても、それを平気で他人にさらけ出せる。外面的には「自分はできる!」というアピールがなくても、「自分はこれでいいんだ」と内心感じられているのであれば、それは「自信のある」人間と言えるのです。
一方、2. のような明らかに表面も根本も弱い、誰が見ても自信のない人間はとても心配されます。また、目に見える枝葉だけが過剰で、一見自信ありげに見えるタイプの人間(3. とかAとか)も、実は根本が弱くて社会ではうまくいかない、という状況がしばしばあります。
(このタイプを「本当は自信がない」と見るか、「他人に対する自信はある(プライドはある)」と見るかは正解がありません。目の付け所次第です。どちらにしても、根本が弱い可能性は考慮すべきでしょう。)
ただ、この根本をどう育てるかと言えば、やはり他人との関わりによる成功体験です。根本は土の中にあります。だから、直接育てることができません。そのため、まず目に見える表面に栄養を与えていくことが、やはり重要なのです。自尊感情(自己肯定感)は、あくまで社会の中、人との関わりの中で生まれ、育ち、そして効果を発揮するものです。土の中で、自己完結する類のものではありません。
☆社会的自己肯定感と基本的自己肯定感
さて、ここまでは自尊感情と自己肯定感を同じ意味の用語として、並列に書いてきました。ただ、先ほど少し出てきたように、「自尊感情」あるいは「自尊心」という言葉は、「プライド」という意味合いを感じさせることがあります。「自尊心が高い」と言うと、例に挙げたAや3. のような、いわゆる外に見せる自信だけ高い(何なら根本は育っていない)タイプの人間のことと勘違いされることがあるわけです。そして、(先ほども少し書きましたが)これは「自信がある」という表現も同じ。「あの人、自信があるよね」は、別に根本が育っていない人に対しても使える言葉なんです。
そういうわけで、根本の育ちを含んでいる(=「自分はこれでいいんだ」と思える)ことを示す表現としては、現代日本で使うぶんには「自己肯定感」が適切なんじゃないかと思っています。
(※実はこの「自己肯定感」という用語、やや古めの文献には載っていないことが多い気がします。近年、爆発的に流行っている感もあり。おそらく新しい日本語訳として、本来意味するところがピッタリ来るから流行ってるんだろうなと思います。)
ただ、この「自己肯定感」という言葉も、先の「枝葉」と「根本」に近い分類がされているようです。それが「社会的自己肯定感」と「基本的自己肯定感」という切り分けです。
「社会的自己肯定感」は、自尊感情の枝葉とほぼ同一と考えてよいでしょう。社会に見せる部分の自己肯定感、そして社会から影響を受ける部分の自己肯定感です。外部に見せ、そして外部からのダメージを請け負うのが「枝葉」、つまり「社会的自己肯定感」です。
(※厳密には、「社会に見せる部分」と「社会から影響を受ける部分」は同一ではありません。別の概念から引っ張ってきています。こういう雑な端折りが学問的には大きな間違いに繋がります。嘘つきは泥棒の始まりです。)
そして「基本的自己肯定感」は、自尊感情の根本とほぼ同一です。自己を形作る基礎基本、土台となる自分自身への肯定感。他の影響は受けづらく、どっしり根付いている。それが「基本的自己肯定感」です。
「枝葉」と「根本」では学問っぽくはないですので、今後皆さん「社会的自己肯定感」そして「基本的自己肯定感」をカッコよく使っていきましょう。例えば「社会的自己肯定感だけに溺れず、しっかり基本的自己肯定感を育てていきましょう!」なんて……
……なんと上滑りした提言なのでしょうか……
☆自己評価維持モデル
そうそう、最初にこんな難しい言葉を並べましたね。小難しい内容なので今回はあまり詳細には語りませんが、私は結構好きな理論です。
ここまでの話の流れで言えば、おおよそ「枝葉」の部分、つまり社会的自己肯定感の仕組みについて説明されているものになります。(※厳密には、自己肯定感の分類とは異なる文脈で用いられる理論のため、私の独断で語っております。)
この理論によると、人は「心理的に近い他者(仲の良い友達とか)」が「自分自身に近い分野・内容(自分と同じ仕事や特技とか)」において「自分より能力が高いと認めてしまう(自分より成功してしまう)」と、自尊感情(おそらく社会的自己肯定感)が下がってしまうといいます。
例えば、野球部のCさんの前で「同じ野球部の同級生」が「野球の試合」で「ホームランを連発する」、一方のCさんはベンチスタートもしくは無安打だとします。これは著しくCさんの社会的自己肯定感を下げるというのです。(※こういったことが積み重なって回復期間を取れない場合、おそらく根本もやられていくのでしょう。)
逆に言えば、「同じ野球部の同級生」が「ゲーセンの格ゲー」で「50連勝を決める」出来事を目の前にしたとしても、Cさんが特に格ゲーに興味がない(=自分自身に近くない分野)のであれば、彼の自己肯定感には特にダメージはありません。むしろ逆に、友人の成功がCさん自身の自己肯定感を高めることすらあります。人間の心って面白いですね。
また自己評価維持モデルにおいては、「自己肯定感が下がってしまう」状況(ホームラン)において、「人は自己評価を維持するために、3要素のどれかを勝手に書き換えがち」ということも語られます。例えば「あいつはもうオレにとってはもう遠い存在だよ」などと友人との距離感を遠ざけたり、「お、オレは野球なんか本気でやってねーし!」と分野の方を遠ざけたり。あるいは「相手ピッチャーの球がヘボかっただけだろ!」と友達の成功(能力)そのものを認めなかったり。そういうことですね。
☆セルフ・ディスクレパンシー理論
こちらも自己肯定感へのダメージに関わると思われる理論です。
これまで、特に社会的自己肯定感は外部からの影響を受けやすい、つまり他者と比較してのダメージを受けやすいと説明してきました。(もちろん、他者と比較して高まることも同じくらいあります。)
しかし、比較する相手は何も他人だけではない、外の社会だけではない、というのがセルフ・ディスクレパンシーの考え方です。どういうことか。
そう、評価の比較対象は「自分自身」ということもあり得るのです。過去の自分との比較、理想の自分との比較、あるべき自分の姿との比較。そういった「今の自分」と「別の自分」との比較で、自己評価が下がってしまうことがある。こういうことだそうです。
特に「こうありたい自分(理想の自分)」と「今の自分」の落差が大きいと、人は落胆したり失望したりしやすいとのこと。また、「こうあるべき自分」と「今の自分」の落差が大きい場合は、恐怖や動揺を感じやすいとのこと。後者は「義務」を果たしていないという思いが生じるのでしょうね。怒られるかもってことでしょうか。
前者と後者、どちらの方が自己肯定感へのダメージが大きいのかまでは分かりません。ただ、自己肯定感は自己内の比較でもダメージを受けることがあるというのは、当たり前かもしれませんが、とても重要なポイントでしょう。
☆自己愛
「自己愛」という用語は、これまで使ってきた「自尊感情」や「自己肯定感」と同じようなものを指した言葉と解釈することができます。文字通り「自分自身に対する愛情」と受け取れば、そうなるでしょう。
ところが、ナルシシズムという原語の使われ方からしても、もう少し歪んだイメージを含んだ意味合いで使われることが多いようです。いわゆる悪い意味での自尊心(プライド)、それをさらに過剰にしたようなイメージでしょうか。自信過剰で、自分が好きすぎて、自らを愛しすぎて社会生活に困難を招いている、といったような。
実際に「自己愛性パーソナリティ障害」といった診断名もあるため、無理にポジティブな意味合いで使おうとしても、誤解を生みかねないでしょう。あえて「健康的な自己愛」といった表現を使うのもアリですが、こだわりがなければ自尊感情とか自己肯定感という言葉を使った方が通りが良いと思われます。
自己効力感 ~未来に向けての自信
さて、ここまで主に見てきた「自己肯定感」という概念は、自分自身に根付いた草木のようなものでした。それは過去の経験から形作られ、成長し、また傷ついてきたものでした。そして、「これでいいんだ」と今の自分を織り成す大切な要素でもありました。
でも、こうして考えてみると、過去・今・・・あれ?
そう、時間軸で捉えてみると、どうも「未来」が欠けているんですよね。
もちろん、「これでいいんだ」という今が未来への活力を生み出すのは間違いありません。でも、これで終わってはちょっと物足りないので、最後にもう1つ紹介するのが「自己効力感」という言葉です。
自己効力感は、動機づけや学習の文脈で生まれた用語です。平たく言えば「自分にはできる!」という思い、認知のこと。ここに来て、「自信」という言葉に一番しっくりくる話かもしれませんね。しかも、これは未来へ向けた自信です。
「できた!」という過去が自己肯定感を作り、そこから「できる!」という自己効力感が生み出されていく。先に結論を述べるならば、「自信」とはそういうサイクルで回っているのだと私は考えています。
ちなみに自己効力感に関しては、一人の人間の中にたくさんの種類があると考えられています。運動に対しての自己効力感、学習に対しての自己効力感、もっと言えば球技に対しての自己効力感と陸上競技に対する自己効力感は異なるものでしょうし、数学と英語の自己効力感も違うでしょう。他にも、対人関係への自己効力感、一人暮らしへの自己効力感……なんて、様々な自己効力感が別個に存在していると、私は思っています。
(※もしかしたら、自己効力感という概念はもっと全体的なもので、細かく分けるべきものではない、という考え方もあるかもしれません。喧嘩はしたくありません。でも、「細かく分かれた自己効力感」と「全般的で大きな自己効力感」があるとする論は見たことあります。後者は自己肯定感そのものなんではないかと私個人は思っています。)
☆自己効力感の成り立ち
ちょっと話がズレていくので、詳細はもう書きません。
が、「自己効力感」がどうやって形作られていくのかは、学習理論と結びついた形で超具体的に説明されています。
以下、Wikipediaより。(ぶん投げ)
達成経験(最も重要な要因で、自分自身が何かを達成したり、成功したりした経験)
代理経験(自分以外の他人が何かを達成したり成功したりすることを観察すること)
言語的説得(自分に能力があることを言語的に説明されること、言語的な励まし)
生理的情緒的高揚(酒などの薬物やその他の要因について気分が高揚すること)
想像的体験(自己や他者の成功経験を想像すること)-O.マダックスによる。
承認(他人から認められること)
こうした経験が基礎になって、自己効力感――つまり「私はできる!」という思いが生まれるというわけなんですね。また、こうした経験は自己肯定感(特に「根本」の部分)を育てるうえでもキーとなるものだと私は思います。
☆自己有用感
最後の最後に、「自己有用感」というワードについて。これは「自分は有用なんだ」、つまり「自分の存在は役に立っているんだ」という認知、感覚のことを指す用語です。ただ、ちょろっと調べた限り、心理学というよりは教育学から生まれてきた言葉のようですね。教育において「子どもの自己有用感を育てよう」という考え方があるようです。
「役に立つ」というのは、「社会の役に立つ」ということにほかならないので、教育そのものの目的にも合致します。かつ、現代で問題視されている子どもたちの自己肯定感を引き上げる手段にもなります。まさしく有用な概念だと思います。
ただ、自己肯定感の成り立ちからすると、自己有用感はあくまでも「枝葉」を構成する部分と考えられます。なぜなら「社会の役に立つ」感覚は、外部の影響を受けて感じるもの。土の上に存在するものだからです。
とはいえ、先にも書いたとおり、自己肯定感の根本を育てるための栄養は、土の上から与えるほかありません。そうすると、例えば自己有用感というのは、栄養たっぷりの肥料だと考えることもできますよね。
ただ、まき方に失敗すると「人の役にも立てない自分は最悪だ」なんて、根本を腐らせることにもなりかねません。「人の役に立っているあなたはOK」は良いことなのですが、「人の役に立てないあなたはNG」を思わせてしまうと、途端にこの肥料は毒になります。これは自己有用感に限らず、「自己肯定感の枝葉」に触れるときには気をつけなければならないことです。
そう考えていくと、人の「自信」の仕組みって、難しいですよねぇ。