本当にグリーフケアが必要なのはだれ?
薄情だと思われるかもしれないけれど私は祖父を亡くした悲しみをそれほど引きずってはいない方だと思う。それは数年前に母方の祖父を亡くした時も同じだった。
年単位で顔を合わす機会がなかったから実感があまり沸かなかった、というのも少なからずあるとは思うけれど、病気が発覚してからお見舞いに行った時にはもう身体中の痛みに悶え、食事を摂るのも苦痛になっていた様子を見ていた分、亡くなった時の穏やかそうな表情を見て日々の苦しみから解放されてよかった……という思いの方が強かったからだ。(人の死に対して“よかった”という感情を抱くことがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど……)
私自身も病気が一時的に安定している時期だったから大きな症状を起こすことなく、祖父の葬儀に参列し最期まで見送ることができたというのも大きいかもしれない。
そして、母方の身内の大半が同じような感じだったからグリーフケアについて、それほど深く考えていなかった。
実際、母自身にも大きな落ち込みは見られなかった。車窓から見える海や橋、マンションから見える花火をミニサイズの祖父の遺影に見せたり、景色とともに写真を撮ったりする行動に最初はほんの少し戸惑ったけれど、母なりの癒し方なんだと思えば、すんなりと受け入れられた。(生きている方等と同じ扱いをするのは不謹慎かもしれないけれど、推し活でアクスタと写真を撮るのと似ているように感じられて……)
だから私も私で祖父のミニ遺影を見ては「今日のじーちゃん、よう笑ってるわ~」だとか「暑いんかな? じーちゃんの顔赤いからお茶たくさんあげんと!」だとか遺影チェッカーをしていた。(もちろん私の主観だけど🙈)
でも今回ばかりは少し違う。喪主を務めた父のことが気がかりで仕方ない。まだ山のように手続きがあり、父なりに(母に尻を叩かれながら)ひとつひとつ進めているようだけれど、本来の父のお気楽さは鳴りを潜め表情が固い。
転勤族だった父は長年地元を離れていたこともあり、祖父母がほとんど参列していたから葬式というものに縁遠く、ここ数年でやっと親戚や近所の人の葬式・法事デビューしたくらいだ。(それに関しては私も大差ないので人のことは言えないのだけれど。)
辛うじて私や母が側にいたからまだましなのかなと思う反面、存命だけれど決して安心できるような状態ではない祖母もいる中、私自身の将来も親からしたらやはり心配のようで
「そこまで背負わんでもええって! もうええ大人なんやから自分で何とかするし、支援者もつけたら負担も軽減されるはずやから!」
と何度も伝えているけれど、実際にはそう簡単な話ではなく……
支援者に入ってもらった後には必ずといっていいほど、ふるえ・脱力・息切れ・意識朦朧・歩行困難・発声障害・嚥下困難、さらには目も開かず、手探りで筆談するような娘を目の当たりにすれば、より一層心配になるのも致し方ない。
この間も訪看さんと顔合わせする予定が脱力&声が出ない&目が開かない状態に陥り、手探りで筆談したくらい……せっかく書いてもシャーペンの芯が上手く出てなかったり、文字が重なって読めなかったり……へこむというレベルを通り越してどうすりゃええんや! と我が身を呪った。
いつ何時、そんな状態に陥るかもわからない私は定職どころか自営業の手伝いもコンスタントにできやしない。部屋の中でもオーバーサングラスをつける日もあるくらい容赦ない日差しに逃げ出し太陽🌞となる日もある。
そんな私なりに、何とかして父のグリーフケアになることをしたいと思うも、母には「場を盛り上げようとしてくれてるんはわかるけど、今はそのテンション、キツいわ」と遮られ、父にも「今ええわ」と煙たがられることも多く、そうなるともう黙りこむ他ない。
長年、末っ子ピエロ🤡として生きてきた私はどうしても少しでも笑顔になってもらえないかな、と思ってしまう。
メンタル面の治療を始める前後に兄の学園祭に家族で行き、好きな漢字一文字を墨で書くことになった時にいの一番に書いたのは「笑」で、たったそれだけでその場の雰囲気が和んだり、学生時代に自宅療養を余儀なくされるほど長期的に休んだ後になんとか復帰してからもおちゃらけキャラを貫き通し「思考回路は相変わらずだね」と、友達に呆れ笑いされていたほどだ。
スクールカウンセラーさんはオブラートに包んで(?)ユーモアのある子と評してくれていたようだけれど、実際は狂気染みていただろうことは当時の自分が並べた箱庭を思い返してみても想像がつく。
そういう性格傾向を見抜いている母からしたら私の言動が痛々しくて見ていられないんだろうな、ということも察しがついているし、ドン底レベルで落ち込んでいる時に無理に笑わせられるのは、ぶっちゃけうっとうしくてしんどい、というのも身に沁みてわかっている。
無理に笑わせなくてもただ側にいて同じ空間にいるだけで救われることもあるんだって、わかっているつもりだ。
ただ今の私は側にいることの方が重荷になってやしないかと考えては不安になり、黙って寄り添うことができず、どうにかして元気づけようと躍起になっていた。
でも結局、私のやっていることはエゴでしかなかった。私は末っ子🤡で居続けることが唯一の存在価値だと思い、ピエロでいられなくなることを恐れていた、幼くて浅はかな思考で止まっていたことに気づかされた。
父にとってのグリーフケアになるものは何なのか、と頭で考えるばかりで、目の前の父の本当の姿を私はちゃんと見ていなかった。
目が開いている時でさえ、ちゃんと見ようとしていなかったのは他ならぬ私自身だった。
私自身もお見舞いに行った時に祖父が訴えていたことを理解してあげられなかったことや、仮通夜で家に帰ってきた祖父と対面できたとはいえ本式の通夜や葬儀に出られなかった悔しさや歯がゆさがあり、そのことに関して「じーちゃん、ごめんね……」という感情が今でもふとした拍子に込み上げる。
それでも、ふらっと仏間に行っては、爆イケ遺影の前に行き、羽釜サイズのおりんを鳴らして、お経の一節を唱えていた。
毎回「南無……」まで唱えては「南無妙法蓮華経」か「南無阿弥陀仏」の二択に迷うレベルで、昔から線香ひとつ上手くつけられないほどポンコツな私は、父が同じ宗派の他の方の法事でお経を録音してきたと聞き、失礼ながらその録音を聞かせているのだとばかり思っていた。
でも違った。父が食事時に口数が減ったのは祖父を亡くした喪失感から落ち込んでいる、という単純な理由じゃなかった。
父が夕食後にお経を上げているのを見に行ったら、父はその録音した音源を聞いて、お坊さん独特の抑揚の付け方を学び、毎晩しっかり唱えていたのだ。
口数が減ったのはそのお経を読み上げるための余力を残すためでもあったのだ。
元々父は視覚優位型で耳からの情報が入りにくいタイプで、年々耳も遠くなっていて、目も年相応に薄くなっている。それでも、父は父なりの形できちんと弔っていた。
次の我が家の大黒柱として。
きっと49日に備えて。
その覚悟と心意気を今さら知った私は激しく後悔し、父とともにお経を唱えた後に改めてその順序を教わり、記録した。いつか父と母を見送る日が来た時に、無作法な娘でいたくないと思ったから。
いつだって父はそうだ。仕事の愚痴も、そのための努力もあまり見せない人だった。
お酒の場ではヘラヘラしているけれど、その裏でたくさんの葛藤を抱えながら(まあ大事なことまでお酒で誤魔化すから母と私に冷たい視線も注がれているのだけれど……)、一度も家族の前で涙を見せたことがない人だ。
だからこそ心配だったんだ。
心がポキッとな、しないかなって。
長年大黒柱を務めた祖父ほどドシンと構えられる度量や威厳はまだまだ足りず、母のアシストあっての父だけれど、父なりの大黒柱になろうとしている。
別に祖父と同じ形の柱にならなくたっていい。父らしい柱を今から築いていけばいい。(私はホタテの貝柱になりたいけどね!)
でも、まだ添え木が必要そうだから私がその役を担おうじゃないか。それが私にできる父のためでも、母のためでも、自分のためでもあるグリーフケアなんだ、きっと。たぶん。知らんけど!(三者三様! 三段活用!)
お気楽なのは父譲りの
一休さんより