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チャリティー番組や障害者情報バラエティー番組について私なりに考えてみた。

 今日は国際チャリティーデーだそうだ。

 先月の終わり、季節の移り変わりを感じるとともに、障がい者について考えさせられるのはいいとしても、当事者になる前から取り上げ方があまり好きではない某チャリティー番組が終わったようでほっとしている

 それに対抗するかのように、某障害者情報バラエティー番組で煽るような内容を放送していたのも、最初こそ「やったれ!」と思って見ていた気持ちもなくはないけれど、それも今では辟易している。(でも今年はなさそう?)


📣<ディスり合うのはラッパーだけでいいんだよ! ディスリスペクトがあるかないかで全然違うんだよ!)

一般ピーポーの私が真剣に考えたところで、何か変化が起きるとは微塵も思わないけれどそうだったらいいのにな~的なことを細々と考えてみることにした。ただそれだけの話


各項目によって矛盾が生じているけれど、そこは大目に見てください🙏<どこまで実現可能かわからない、あくまでも私の妄想だから!)



【放送・労働時間と開催場所】


 働き方改革が謳われるようになって久しく(とはいえ有休の消化の仕方も自由なようで自由ではなく、一瞬で消えたプレミアムフライデーは一体どこへ……?)、電気の使用量を抑えようと訴えかけているこの時代に、「24時間以上・・働かせる」というのがもう時代錯誤としか思えなくて……

むしろ、その日は一日ニュース以外の番組をお休み、もしくは焚き火や、せせらぎみたいなヒーリング効果のあるものでも延々と流したらいい。

何ならニュースも画面上にAIを立たせて、声だけアナウンサーにしたっていい。(それなら緊急時でも身だしなみを気にしなくて済むし、長時間の歌番組の生放送後に代打で対応したアナウンサーを心配する声も上がっていたし……)


 そしてその番宣や募金の呼びかけのためにとはいえパーソナリティーが本番前からそこまでいろんな番組に出演しなくても……とも思う。(チラッと見ただけだから、今年の場合はよう知らんけど)

番宣で朝から晩まであらゆる番組に出演することはよくあるけれど、24時間以上拘束される仕事前の助走期間としては長すぎない? (それなら本番までゆるめに働いて余力を残しておいてほしいと私は思う。無理して本番に体調崩される方がよっぽど心配だわ……


 そもそも24時間以上ぶっ続けで放送しなくとも月に1回2時間放送、もしくは、月に2回1時間放送する方が、よっぽど出演者にとっても、関係者にとっても、募金する人にとっても、優しい世界になると私は思うんだけどな……(番組の趣旨が違うため、一概には言えないけれど、放送の仕方としては某バラエティー番組に軍配を上げたい。)

「1年に1回というお祭り感覚が大事!」
との意見を聞いたこともあるけれど……


例えば、月に1回なら「募金して推しに会うために今月も働くぞ!」と仕事へのモチベーションが上がるかもしれないし「おこづかいを貯金しておこう!」とお金の使い方を考えるきっかけになるかもしれない。


月に2回なら1時間枠を30分ずつに分ければ47都道府県を巡ることだって可能
になる。

生放送にこだわらなければ、お遍路感覚で近隣の県をはしごすれば、パーソナリティーや同行するスタッフの移動負担も軽減されるはず。(どのくらいの人が集まるのかが未知数ではあるけれど……もはや24時間という縛りに大したこだわりもなさそうだから生放送をやめて放送時間は好きに調整すればいい。)

 そうなれば、一時的と言えど有名人効果で地方が潤い地域活性化にも役に立つ

大袈裟に思われるかもしれないけれど、実際に47都道府県ライブが開催されるタイミングにフェスを開いて出迎えていた地域があり、その後も時期は変われどそのフェスを続けているところもある。(地域によっては食事どころも少ないため、心配した地元の方々が開いてくれた模様。これこそ愛!

たくさんの人が訪れるタイミングがわかるのであれば、先ほどの例のように地方の方々もそれに合わせて事前に準備する力はちゃんと持っている。毎年何十万もの人々が集まる祭りに対応できる力があるからこそ、何十年、何百年と歴史を刻み続けられているのだから。

それにパーソナリティーもあえて固定せず、隔月で替えてみたり、西と東に分かれて同時開催したりしても面白いと私は思う。(それこそ番組の前半と後半で分けて放送するなら、その方が面白くない?)

「それじゃ結局推しに会えないじゃん!」と思うかもしれないけれど、1ヵ所だけで開催するより会うチャンスは増えるはず

ファンじゃなくても、近場まで有名人が来ていると知れば「とりあえず行ってみるか! せっかく来てくれたんやし募金もしよか!」と思う人もそこそこいると思われる。(地元民の情報網ミーハーネットワークを侮るなかれ!


 だから時代に合わせて、もう少し番組の放送時間や場所を柔軟に見直してみてもいいのにな~と思う。


【募金・寄付・クラウドファンディング】


 募金方法について考えているうちに、この三つがあり、募金と寄付にも違いがあり、クラウドファンディングだけでも六パターンもあることに驚いた。 (こういうこと「義務教育のうちにちゃんと教えてよね!」と無知な自分のことを棚に上げながら思ってしまった……その当時にクラファンはなかったけどさ!)


 とりあえず大まかにそれぞれを説明していこう。私の話はそれからだ。


・寄付(寄附)について


そもそも寄付とは?


寄付とは、募金活動を実施している組織に金銭を贈ること指します。しかし、金銭だけでなく品物を贈ること事態も寄付の一環とされ、このことを「物品寄付」と呼びます。物品寄付にはレトルト食品、お米、文房具など、さまざまなものがあります。また、学校や図書館など公共性の高いところに品物を贈る場合は「寄贈」と言われます。

公益財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
より抜粋


意味は全く違うが同じ使われ方をしている「募金」と「寄付」

まず、「募金」とは金銭を募って集めることを言います。それに対して「寄付」とは金銭を贈ることを指します。したがって、募金と寄付は意味が全く異なります。

ですが、近年では街頭募金やネット募金に協力する人が増加した影響もあり、金銭を寄付する際に「募金する」と言うようになりました。しかし、厳密に言うと間違った言い方なので意味をしっかり理解しておくことが大切です。

公益財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
より抜粋


 自分で書いておきながら、脳内パニクっているぞ……つまり番組の主催者側が呼びかけていることが“募金活動”で、ゲストや一般人がお金を渡していることが“寄付”ってことでいいのかな🤔?


・クラウドファンディングについて


クラウドファンディングとは、「群衆(クラウド)」「資金調達(ファンディング)」を組み合わせた造語で、「インターネットを介して不特定多数の人々から少額ずつ資金を調達する」ことを指しています。

(中略)

中でも、「こんなモノやサービスを作りたい」「世の中の問題をこう解決したい」といったアイデアや想いを持つ人は誰でも“起案者”として発信でき、それに共感し「応援したい」「モノやサービスを試してみたい」と思った人は誰でも“支援者”として支援できる、双方にとっての手軽さがクラウドファンディング最大の特徴といえます。

CAMPFIRE ACADEMY


とりあえず「へえ~」ボタン💡があったら、連打したい。クラウドファンディングの中でも某チャリティー番組に近いのはこちら。

・寄付型クラウドファンディング


寄付型クラウドファンディングとは、起案されたプロジェクトに対して支援者がお金を寄付をする仕組みのクラウドファンディングです。

リアルな場でおこなう寄付と同様で、商品やサービスなどのリターンは基本的に発生しません。プロジェクトによっては、お礼として手紙や写真を受け取ることができます

被災地の支援など社会貢献性の強いプロジェクトが多いことが特徴です。

CAMPFIRE ACADEMY
より抜粋


似ているようでちょっと違うのはこちら。

・購入型クラウドファンディング


購入型クラウドファンディングとは、起案されたプロジェクトに対して支援者がお金を支援し、支援者はそのリターンとしてモノやサービスを得る仕組みのクラウドファンディングです。

購入型という名の通り、支援者は起案者がリターンとして設定した商品やグッズ、サービス等を購入するような感覚で支援することができます。金銭的な見返りがリターンとなることはありません

CAMPFIRE ACADEMY
より抜粋


 調べてみて私なりに解釈したところ……
(※「間違ってるよ!」ってところがあったら教えて頂けると幸いです🙇)

・一般的な募金活動による寄付は金銭的なリターンがない。(※クラウドファンディングの場合は種類による。前述の二つは金銭的なリターンはない。)

・クラウドファンディングは起案者が募金を求める目的(商品やアイデア、夢など)や目標額を設定できる。(※ただし、その目標額に至るかどうかの確率は低い。)

・チャリティー番組の募金活動には大まかな目的(その年ごとのテーマはあるけど、元々のキャッチフレーズが“愛は地球を救う”というくらいふわっとしているし「福祉・環境・災害復興に関することに利用される」という認識があって寄付している人ってどれくらいいるんだろ? 個人的には福祉や医療のイメージが強かったよ……)が曖昧で目標金額の設定がない。そして寄付金控除が受けられる

といった感じだろうか。

 それらを踏まえて、某チャリティー番組にモヤモヤを感じる要因の一つは寄付金の使い方の不透明さ(情報の行き届かなさ)も大きいんだろうな、と感じた。

寄付金の総額は番組ラストに発表されるけれど、その後各地で集められた最終合計金額は大々的には知らされないし、その寄付金がどのように使われているのかはよっぽど興味がある人が調べない限りわからない。(一応、チャリティー協会は設置されているんだけど着服してたのも発覚してたよね?)

それがハッキリと周知されていないから、「どうせ出演者のギャラで消えてるんでしょ?」疑惑が上がり、どちらかというと災害復興に使われていることが多く(そのことが悪いわけじゃなく、何度も言うけれど募金の目的と寄付金の使い道といった情報がちゃんと知れ渡っていないのが問題なのよ!)寄贈も申し込みをしないといけないから、その仕組みを知らない人には行き届かない……

協会のサイトを見た限りでもほぼ大半が日本や海外の災害復興支援で、他は子ども食堂支援、福祉車両・バスケット用車いす・パラスポーツ体験グッズ・コロナ中の予防グッズの贈呈なのだけど……パラスポーツにも種類があるのになぜバスケットボールだけ? 偏りすぎじゃない?」と感じた。(これに関しては大幅に見直すべきだと思う。チャリティー番組を名乗っているなら、一部のスポーツに肩入れするのはいただけない。)


 ちなみに今はネットでの募金も行っているようだけれど、どのくらいの人が知っているんだろう?(私が知らなすぎるだけなんだろうか……)


【私なりの提案】


 改めていろいろと調べてみた結果、あくまでも個人的な意見だけれど、『購入型クラウドファンディング』風な募金活動を取り入れたらいいんじゃないかな、と私は思う。

募金活動する側も、寄付する側もハッピーになれそうだからという浅い理由に思われるかもしれないけど、まあ読んでみておくれよ!


 まず募金活動をする立場になって考えてみると、この暑い中(番組始まった当初より尋常じゃなく暑くなっているはず)全国で募金を呼びかけている方々も本人の意思で参加している人もいれば、仕事の都合で駆り出されている人も少なくないはず……

自分の意思で参加しているボランティアならまだしも、仕事の都合ならそれは仕事として多少の賃金は発生してもいいと私は思う。(もちろん寄付金とは別の財源からね! または振替休日を!)

海外のチャリティー番組のギャラは基本的に無償とのことも知っているけれど、あまりにも拘束時間が長いから、多少は手当を……と思ってしまう。(そこも時間を短くすれば、無償でも引き受けやすくなるよね。)

もちろん一人の職員だけで募金の呼びかけをしているわけではないにしても、企業の従業員数によっては休日返上朝から晩まで募金活動を任されているところがないとは限らない。それはもうチャリティーを盾にした搾取のようにしか思えない。

学生ボランティアの場合は自ら参加している子が多いようだけれど(身近にボランティアの手伝いをしている人がいたため)、二日間で集中して各地を回るからか、いい活動なのに煙たがれている様子も何度か見かけた。(行く先々のお店の入口前に立たれてたら、払わなきゃお店に入りづらいとかね……)


愛は地球を救う
なんて大風呂敷を広げる前に、目の前のチャリティー搾取されている人や煙たがられてしまっている人をまず救わんかい! と。(熱中症警戒アラート出てるような日もまだあるんやで?)

だからこそ、私は『購入型クラウドファンディング』風を推したいのである。(“風”なのは本来のクラウドファンディングとはちょっと違うから。)


 例えば、寄付した人にだけ見られるコンテンツを提供してみるなんてのはいかが?

サブスクでいろんなドラマや映画が観られるように、過去のチャリティー番組内でのドラマを一挙配信してみたり(円盤化されているものもあるかもしれないけれど、VHS時代の名作をもう一度観られるなら観たい人もいるのでは?)、日本・海外問わず障がい者の実話をドラマや映画化、ドキュメンタリー番組にしたものを観られるようにしてみたり……(放送権とか視聴者にはわからない事情もきっとあるんだろうけどさ!)


個人的には、パラリンピック以外ではあまり観る機会のないパラスポーツの生配信とか、当事者やその家族向けの講演配信オンライン座談会みたいなものができたら、その方が当事者、家族、支援者の役に立つんじゃないかなあ、と。これこそ、今の時代だからできることじゃない? 当事者家族の中には自分がいなくなった後の我が子のことを心配して講演会を聞きに行っている方もいるけれど、寄付も兼ねて地方の人でも自宅(もしくはライブビューイングも可)で見られるなら一石二鳥やん!(そして「きょうだい児」同士のつながりもできたらいいなとも。)

あとは「もし障がい者に出会ったらどう対応したらいいのか」的な、それぞれの障害ごとの声のかけ方、対応の仕方などを楽しく学べる動画があったらいいかも! 認知症についての対応も知れたら、「徘徊かな?」と感じた方を助けやすくなるかも!(ただこれに関してはYouTubeで簡単に見られる方が便利かもしれない。)

それから私自身も、手話を学ぼうと思いつつなかなか続けられなかったり、点訳もやってみたいけどボランティアに行くことも厳しかったりするから、そういうコミュニティができる場を設けてくれるとありがたいかも。


物の見え方や音の聞こえ方などもTVじゃなければ個々に体感することも出来そうだよね。(朗読ボランティアもあるんだけれど、そういうことをオンラインを通じて体験するのもよきかも!)

 寄付金が被災地に送られているのであれば、障がい者や病気の人向けだけじゃなく、環境・自然災害問題を考えられるコンテンツもあるといいよね🤔

「ゴミを減らそう! 服や料理のリメイク術」とか「知っておくと安心! 非常時の対応マニュアル」とか……(私一人では、このくらいの内容しか思いつかなかった😂)

また日々の疲れを癒せる風景・動物ものや、推しが踊ったり歌ったりしているのが見えるものもあってもいいと思う。

もちろん目が見えない人向けの副音声、耳が聞こえない人の手話や字幕もしっかりつけてね!

 そして、アナログ派な方向けに日本中のあらゆるところに、ガチャガチャ風の募金箱を設置して、地元の障がい者や持病のある方などによるハンドメイド作品が出てくる仕組みにしたらどうかしら?(作品にかかった材料費を除いた分をガチャガチャの如く募金に回すのよ!

そうすれば、ガチャガチャを補充する人は必要になるけれど、暑い中に募金を呼びかける人手も減らせるし、作る側もモチベーションが上がるし、寄付する側もワクワク感を楽しめて、みんなハッピー🙆🍀になるんじゃないかな?(その分、推しに生で会える案は消えてしまったけれど……それはそれで、夏じゃなくもう少し気候のいい時期に取り入れたらいいのさ!)


【コンセプトは何なの?】


 何十年と思い続けているのは、予防できたり、治る(寛解する)可能性があったりする病気や障害なら啓蒙活動も大事だとは思うけれど

治らない病気や障害を
無理に乗り越える必要ってある?


というのが一番の本音だ。

別に共存して生きていってもいいし、本人が望んでいるならまだしも、できないことを無理にできるようにする必要もない

当事者の本当の意思がどれほど反映されているのかがわからないことが年々増えて怖くて見ていられなくなるのだ。(私の場合はね。)

乗り越えられない壁は
別に無理して乗り越えなくてもいい。


というのが思春期真っ只中だった頃からの、私のポリシーだ。(ある意味、世間に対する反骨精神みたいなのもあったのかもしれない。)そして誰かが勝手に壁を作った壁なら乗り越えなくていい、とも。

「やらない偽善よりやる偽善」とも言うけれど、それで苦しめられる人がいるのならそれは偽善という言葉で誤魔化した悪意だ。


それなら壁がない場所に行くか、壁を越えるために自ら周囲にヘルプを求められるように練習する方がよっぽど建設的だ。

私も元気な時は障がい児福祉に携わってきたけれど

「毎日を特別な日にするのではなく
 その毎日をつつがなく過ごせるように
 出来ることを増やしていくよう支援する」


といった言葉がとても印象に残っている。


 毎月のように季節の行事も取り入れていたから、みんなで団結してパフォーマンスをやり遂げるような思い出作りはあってもいいと思うけれど、本人の意思を反映せず心身的にできないことや負担のかかるようなことを無理に課すような企画はあまり好きではない。(特に胸が痛くなったのは登山企画かな……みんなで踊るのはいいとしても「何でその選曲?」と思ったものも。子どもたちがその曲を好きなら、別にいいんだけどさ!)

私自身も今やろくすっぽ働けない、日常生活もままならない当事者になって、より感じることが増えた。

 
 今の私は電動車椅子の出来上がり待ちで、ほぼ一人では外に出られない。(午前中はましなこともあるけれど、ほぼ毎日、人類の進化を逆行してる感じ……だから夜の私はゴリラ化する🦍歩き方がね!)

だから今後、移動手段は整っても洋服を試着して買うことは出来なくなるだろうなあ、というのはわりと早い段階で悟っていて、ネットで買ったとて「どっちにしろフリーサイズに書かれてる身長に収まりきらないし、ならいっそ自分で作るか!」ってなわけで、ミシンを買って絶賛練習中なのである。

家族には、そこまでしなくとも……とも言われたけれど、これは私の実益を兼ねた趣味であり自分で決めたことなので、全然苦ではない。(まあ苦になるほどのことをまだしていないのもあるけれど🙈)

よく言われる

障害は不便だけど、不幸じゃない

という言葉はわりと的を射てるなあ~と私は感じている。

ただ洋裁用の本にしろ、趣味の読書の本にしろ、図書館で予約して借りればいいのは確かなんだけれど、実際の図書館や本屋で手にとって見比べられないのが最近のちょっとした悩みかなあ……ネットで読めるものも増え、レビューを見ればそこそこわかるけれど、その場で一目惚れする楽しみは難しいのかなあ……みたいな。それはもう趣味に関するものに限らず、あらゆるものの買い物がそうなのだけれど。(車椅子だと上の方の商品を自分で取れないことを思い知った😭)

でもこれらはあくまでも私が自分の意思・・・・・で、「これが出来ないならこうしてみよう!」勝手に試行錯誤しているだけで、それを壁とは感じてないし、他の当事者に強要するつもりはないし、何なら私が代わりに邪魔くさい壁を片っ端からぶっ潰してやるから待ってろよ! と思っている。(と、大口を叩いてるけれど、まだ障がい者歴の浅い私の理想論でもあるんだけどね🙈)

 だから、当事者が望んでいない壁を勝手に作って乗り越えさせることで感動を与えるみたいなことは、まじでやめてくんない? 
と、そこに関しては私は本気マジで憤っている。


 と、まあここまでは某チャリティー番組について書いてきたけれど、お次はこちら。

【障害者情報バラエティー番組】


 この番組もたまに見ていたけれど、これはこれで当事者の意見に偏りすぎというか……仕事柄見ているという人の話を聞いたこともあるけれど、何とも言えない思いを抱いている人の方が多かった印象だ。

 ここ数年だけでも、病気・障害・LGBTQ・呼称はあるけれど病気とも障害とも診断されないもの(パーソナリティー障害やアダルトチルドレン、○○症候群等々)が増えすぎてそれを細分化することで、よりマイノリティを増やしている気がしてならない

 マイナーな病気や障害を知るきっかけになることもあるから発信すること自体を否定したいわけではないけれど、今の世の中は一人一人の名前や性格よりも、特性や診断名が肩書きみたいになっているようなモヤモヤ感がとてもある。(人様を傷つけるような嗜好は早急に治療すべきだとは思うけれど、それによるセカンドレイプもまた心配の種……)


 私自身も当事者になり気づいたことがたくさんある。

例えば、当事者は自分のことだから時間とともに受け入れられるようになることも、家族(特に両親)や近しい人だからこそ、どんなにその病気や障害について詳しくても簡単には受け入れられないこともあるということ。

これに関しては仕事場でもたくさん見てきたけれど、受け入れられるまでにかかる時間完全に受け入れられるかは人それぞれだから、家族といえど無理強いする必要はないと私は思っている。

だから今は「完全に理解してもらえなくても寄り添ってもらえるだけでありがたい!」と考えを切り替えることにした。

 私は自分の病状に“おクチくん”等と呼び名をつけていて家族や支援者さんには浸透されているけれど(支援者さんは「好きな呼び方で説明してくれていいよ~」と言って下さるけれど、よくよく考えると気軽にそう呼んでいるのは家族だけなんだよね……)、それは当事者が了承しているから使える呼称であって同じ病気でもそんな風に呼ばれたくない人だってきっといると思うし、どれだけ当事者があっけらかんとしていても遠慮してそう呼べないこともある。(私も逆の立場だったらたぶん呼べないかな……)

 それ以前にこちらのダウン症の女性で大学を卒業した方の著書にも

「ダウンちゃん」という呼び方について指摘されていて反省したことがある。いくら敬称をつけていても、そんなつもりがなくとも、自分の病名を名前のように呼ばれたらいい気持ちはしないよね……(これもまた病気を肩書きのように扱っている一例だとも……)

そして「ダウン症で初めて大学を卒業した」というのも、私としては「卒業した方がたまたまダウン症だったくらいでいいような?」と感じた。

(ご本人も“ひとつの通過点に過ぎない”とおっしゃってるし、まだ読んでない本がたくさんあるから読みたい! と思っていたら……私、子どもの頃に岩元綾さんが翻訳した絵本読んだことあるかも!


 だいぶ話が逸れてしまったけれど、それはブラックジョークもたぶん同じで、その人の本来の性格を知っていれば、笑っていいかどうかの判断がつくけれど、初対面かつ画面上の人だとそこまで判断するのは難しいというのが大きい気がする。(コンプライアンス&ハラスメントだらけのこの世の中では、どんな人でも笑いを取るのは厳しくなっているとも。今や“ハラスメント・ハラスメント”もあるんだってよ、桐島くん!)


 これまでは「癌の治療しながらも働く」というCMを見て「そこまで無理して働かなくても治療に専念したらいいのに……」と思って見ていたけれど、当事者になってみて「働くことで病気のつらさを一時的に忘れられ、社会とのつながりを持つことで生きる活力が湧いたり、自分の存在価値を肯定することもあるんだ」ということが身に沁みるほどよくわかった。


 “障害”という言葉の表記問題も取り沙汰されるけれど、そんなことは当事者やそういう方面の専門家の中では

「ぶっちゃけどうでもいい。
 議論するだけ時間の無駄」

と思っている人が大半だ。
(意図的なのかはわからないけれど、番組名も“障害”と表記されている。)

 障害だろうが、障がいだろうが、障碍しょうがいだろうが、問題なのは社会的障壁であって、大なり小なりサポートが必要でも、特性による困り事を抱えていても、今を生きているなら、そこそこ社会生活が送れているなら、とりあえずOK👌くらいのゆるさでもいい、と私は思っている。(ていうか、それも障害の有無とか関係ないべ!)(ただ強度行動障害の場合はそうも言っていられないのも事実……


 このたとえは視覚障がい者に対して、大変失礼で申し訳ないのだけれど……

「あなたも普段、眼鏡やコンタクトレンズをつけて生活しているよね? そういった補助具がないと日常生活に支障を来すのであればそれも障害になり得る。補助具を使っても見えないことや盲導犬とともに移動することを理解してもらえなかったり、配慮や環境が整っていなかったりすることが社会的障壁なんだよ」

と説明することが多い。障がい者に限らず電車のホームの転落事故や踏切のない場所での事故などは社会的障壁が整ってない実例だとも思っている。(鉄道関係の問題ばかり取り上げてしまったけれど他にも山ほどある。)

視覚に関して例に取り上げるのは、視力に問題を抱えている人が多いから、イメージしてもらいやすいというのが理由であって、視覚障がい者の方達を差別しているわけではないことをご理解頂きたい🙇🙇

同じ視覚障がい者でも見え方に差はあるし、何なら健常者より色の名前に詳しい人もいたり、スマホもすいすい使いこなせてたりしている好奇心やチャレンジ精神は障害の有無に関係なく、素晴らしいことだと思う。

 そしてこの本のような支援がいつかできるかもしれないと聞いた気がするのだけど……

それこそ、そうなったらいいのにな~♪ である。

 病気や障害の種類や、障がい者(児)・健常者(児)といったくくりにしばられず、もう少しおおらかに受け入れて、ボーターレスでノーマライゼーションな世界になってほしいと、私は心から願っている。(性別に関することや人を傷つける行為などは、おおらかにと言っていられないこともあるので、それはまた別の機会に……)

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