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「ゆがめられる教育」

  以前のNOTEの記事で、わがマチでは、学力テストの数値が学力と規定され、それをもって子どもたちや学校の評価がなされるなど、議会や教育委員会によって学力偏重の教育政策が学校に押し付けられ、現場がそのプレッシャーと不当な介入によりきわめて窮屈な教育活動を強いられているという実情があることを書いた。(拙稿「全国学力学習状況調査の弊害」「金太郎飴授業」「数値の向上が目的になると」「学力学習状況調査の限界」など)

  狭い意味での学力の向上が教育の目的となることにより、子どもの人間的な成長という大きな目的がいつの間にかよそに追いやられ、学力テストの偏差値が高い大学に入ること、有名企業に就職することがよいこととされてきている。教育行政によって学校教育が矮小化され、教育の目的がねじ曲げられてしまっている。

   なぜこうした「教育の変質」が生じてしまったのか。
最近、昨年秋(2024年)に出版された『崩壊する日本の公教育 鈴木大裕 集英社新書』を読んだ。この本には国や自治体の政治によって公教育がゆがめられてきた経緯や背景などが著わされている。本書から学んだことを少し書いてみたい。

 鈴木氏は、歴史的には教育現場において直接的に教育が「変質」をきたすきっかけとなる事件がいくつかあり、その一つが2014年の教育委員会制度改革だと書いている。

 それまでは、教育委員会の教育委員の中から「教育委員長」が選任されていたのだが、教育委員長が廃止され、自治体の首長が任命する「教育長」が教育委員長の役割を兼ねることになったのだ。
つまり、各自治体の首長の意向が、教育行政に直接的に反映されやすくなったということになる。言い換えれば、行政の教育への介入が行われていく素地がここで作られたということだ。

 教育委員会は、もともと、戦前の教育(軍部を中心とした政治の教育への不当な支配)の反省に立って生まれた合議制執行機関だ。かつては市民を代表する教育委員が議論を交わし、合議によって教育政策を決定するというように、政治が教育に介入できないように、民主的であえて手間のかかるプロセスを踏んでいた。
 しかし、第二次安倍政権時の2014年、教育委員長を廃止し、首長が任命する教育長に権限を集中させることで、政治が教育に介入しやすい状況が生まれたのだ。

 わがマチでは、「なぜ子どもの(狭い意味での数値的な)学力が上がらないんだ!学力を上げろ!」そういう市長や議会からのプレッシャーを受け、教育長が学校現場に圧力をかけてきた。そうした圧力が横行するのは、この教育委員会制度改革に端を発しているということは間違いがないと思われる。

 では、なぜこのように、政治の教育への介入が容易に行われるようになってしまったのか。このことについては、また次の機会に書くことにする。

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