
白黒つけりゃあいいってものでもない
2024年8月31日(土)朝の6:00になりました。
夕方5時のチャイムが、今日はなんだか胸に響いて。
どうも、高倉大希です。
演技派俳優がいるということは、
演技派ではない俳優がいるということです。
純文学があるということは、
純ではない文学があるということです。
親友がいるということは、
親しくない友人がいるということです。
昭和くらいまでは、「大衆文学」と「純文学」は、はっきりと分かれていました。その二つの間に位置する「中間小説」と言われたものは、純文学の世界で非常に軽蔑されていました。中間小説を書くことは、弾圧されたキリシタンか何かのように、”転ぶ”と表現されていたくらいです。
何かに名前をつけるということは、他のものと切り分けるということです。
その瞬間、あわいにあるグラデーションが消え失せて二項対立が生まれます。
もともとは、繋がっていたはずなのに。
ただ、線を引いてみただけだったはずなのに。
まるではじめから、べつのものだったかのように扱われるようになるわけです。
切り分けるのは簡単ですが、繋ぎ直すのは大変です。
その休み時間には遊んでよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。それ以来、学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶ時は、勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つにわかれてしまった。
時間割が生まれたことで、
国語と数学がべつのものになりました。
国境を定めたことで、
自国と他国がべつものになりました。
高倉大希と名乗ることで、
自分と他人がべつのものになりました。
ぼくは親として娘たちが将来、束縛の少ない人生を送るためにできることがあるとすれば、くだらない雑用を言いつけて時間を分断してしまわないことだと考えました。
べつに、分けることが悪いと言いたいわけではありません。
むしろ分けなければ、わたしたちは考えることができません。
大切なのは、便宜上分けているに過ぎないと強く認識しておくことです。
さもなくば、既存の分類の中でしかものごとを考えられなくなってしまいます。
いまある分け方が最適かどうかなんて、誰にも保証することはできません。
繋ぎ直す術を知らなければ、小さく分けられた世界で暮らすしかありません。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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