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極端なポジションをとる


2024年2月22日(木)朝の6:00になりました。

苦しくなるとどうしても顔を出す「保留」という名の逃げ。

どうも、高倉大希です。




祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

あらゆるものごとは、時と共に変わります。


すべてのものごとは、暫定的です。

自分の外見はもちろんのこと、内面も同じように変化します。


いまの自分が抱えているものなんて、べつに大したものではありません。

変わらないものを探すことよりも、変わりやすさを保つことが大切です。


画風の変化も含め、僕は変わったということ。ポジティブに考えています。この年になって新しい画風を手に入れた、これは大いに喜ぶべきことでしょう。

横尾忠則(2023)「時々、死んだふり」ポプラ社


どうせ変わる。

この前提に立ったとき、わたしたちは半端なポジションをとるようになります。


いざ変わったときに、どちらにも対応できるようにするためです。

1〜5で答えるアンケートがあれば、3に丸をつけるわけです。


気持ちはわかりますが、きっとこの考え方には大きな誤りが含まれています。

どうせ変わるからこそ、1か5に丸をつけなければなりません。


デューイによれば、「興味(interest)」の語源であるラテン語の inter-esse は、「あいだにある」ことを意味している。彼は、「興味」を「人とその人の行為の題材や結果とのあいだの距離」を消滅させる「有機的統一」として見ている。興味は、しばしば私たちの心の内側に内在化しているもののように思われるが、彼にとってそれはその人と対照との「あいだ」や、現在と、将来に引き起こされるであろう結果との「あいだ」にあるものとして理解されている。

上野正道(2022)「ジョン・デューイ 民主主義と教育の哲学」岩波書店


こう思っていたのに、実際はまるで違った。

この落差にこそ、発見が生まれます。


落差が大きければ大きいほど、発見も大きくなります。

最初のポジションが半端だと、落差も当然小さくなってしまいます。


これが、1か5に丸をつける理由です。

どうせ変わるからこそ、極端なポジションをとるのです。


私の考える敗者というのは、失敗を犯しても反省せず、教訓も学ばず、失敗を恥ととらえる人たちだ。新しい情報を活かすのではなく、保身にに回り、前進する代わりに失敗の言い訳をする人たちだ。そういう連中はたいがい、自分を大がかりな陰謀、卑劣な上司、悪天候の“被害者”だと考えている。

ナシーム・ニコラス・タレブ(2017)「反脆弱性 上」ダイヤモンド社


最初のポジションが合っていたかどうかなんて、べつにどうでもよいわけです。

重要なのは、そのポジションをとったことでどれだけの発見があったかです。


合っていたかどうかを気にしてしまう気持ちも、わからなくはありません。

しかしそんな気持ちも、どうせ変わりゆくということが前提であったはずです。


どうせ変わるから、半端なポジションをとるのではありません。

どうせ変わるから、極端なポジションをとるのです。






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高倉大希
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