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盛り上がらなきゃいけないのか?


2025年1月27日(月)朝の6:00になりました。

『ルックバック』の原画集を、プレゼントしてくれる方を募集しています。

どうも、高倉大希です。




盛り上がっている場が、苦手です。

いや正確に言うならば、場そのものが苦手なわけではありません。


盛り上がっているというパフォーマンスを、強要されることが苦手なのです。

必要以上に声を出さなきゃいけなかったり、手を叩かなきゃいけなかったり。


せっかくの、楽しい時間だったのに。

強烈なストレスを抱えて、家に帰ることになります。


自分が思っている「自分」が本当の自分だと思っているところにまず問題がありそうだ。ストレスを作っている要因はだいたい自我というやっかいな存在である。

横尾忠則(2018)「アホになる修行」イースト・プレス


これは、捨てるべきプライドだ。

思い切ってやってみたら、案外楽しめるかもしれない。


そう思って、頑張ってみたこともありました。

みんなに合わせて声を出し、みんなに合わせて手を叩きました。


ところが、これがまあ難しい。

家に帰ったら、全身が蕁麻疹だらけになるのです。


競技力を合理的に高めようとすることは、必ずしも苦しさに耐えることを意味しない。人格の育成に主眼を置くと、技能向上よりも「努力感」があるトレーニングを選びがちになり、合理性から離れていってしまう。

為末大(2023)「熟達論」新潮社


ときどき、自分の身を削ってでも場を盛り上げようと頑張る人に出会います。

きっと「盛り上げてくれる人」は、世間的には「いい人」です。


盛り上がることは、善である。

そんな前提の上で、ものごとが動きます。


盛り上がっていない人がいれば、どうにかして盛り上げなければなりません。

盛り上がっている状態こそが善なのだと、信じて疑わないのです。


“おとなしい参加者”に発言させるための施作をあれこれ考え、「何か意見はありせんか?」と尋ねたり、盛り上げ役としてグループに入り込んで空気を変えようとしたりします。(中略)ファシリテーションの経験年数が浅いうちは、参加者の全員が大きな声で発言をする盛り上がりこそが良いワークショップだと思い込んでしまいがちです。

安斎勇樹、塩瀬隆之(2020)「問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション」学芸出版社


本当に、盛り上がることは善なのか?

無理をしてでも、盛り上がらなきゃダメなのか?


もちろん、盛り上がりたい人のことを否定するつもりはありません。

上記の問いは、その場の善が自動的に決まってしまうことへの疑念です。


結果的に、盛り上がる分には何の問題もありません。

ただそれと同じように、盛り上がらない場があってもよいだろうと思うのです。






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高倉大希
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