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「そういう人だよな」でやり過ごせない幼さ
2024年11月22日(金)朝の6:00になりました。
仕事が佳境に入ろうとも、毎朝6:00はやってきます。
どうも、高倉大希です。
自分は、とても嫌な思いをした。
だから相手に、ここを直してほしい。
子どもの喧嘩の仲裁に入ると、こんな発言をよく耳にします。
自分ではなく相手に対して、変われと主張するのです。
他者を、変えることはできない。
そんな事実に気がつくまでには、案外時間がかかります。
子どもがケンカをすると、すぐに大人が割って入って仲裁しようとするけど、緊急性が高くないならまずはそっと見ていなさい、と。子どもたちは、人間関係を自分で磨き直す力を持っている。にもかかわらず、大人が「やめなさい」「謝りなさい!」などとすぐに介入するので、人間関係を自力で修復する機会を奪われ、かえって恨みを募らせることにもなるのだと。
悪口を言われるのは、興味をもたれている証拠である。
よく聞く言葉ですが、あながち間違いでもないのだろうなと思います。
「そういう人だよな」でやり過ごせない幼さが、表れているというわけです。
自分と違うところをみつけたら、突っかからないとどうにも気が済まないのです。
他者を、変えることはできない。
そんな事実に気がつくまでには、案外時間がかかります。
人生のなかに存在する多くの対極に対して、安易に善悪の判断を下すことなく、そのなかに敢えて身を置き、その結果に責任を負うことを決意するとき、その人は大人になっているといっていい。
そうならざるをえない、何かがあった。
どうしても合わない人に出会ったときは、こう考えるようにしています。
その人には、棘のある言葉をつかわざるをえない何かがあったわけです。
その人には、マウントをとらざるをえない何かがあったわけです。
そんな背景を想像しないままに拒んでしまうのは、あまりにも失礼です。
「そういう人である」という事実が、そこにあるというだけです。
いいですか、信じるという行為もまた、課題の分離なのです。相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。
それなのに、誰かを悪者にして仲間をつくりたくなります。
それなのに、誰かのことを見下して自分が優位に立ちたくなります。
「そういう人だよな」で、やり過ごす。
いい意味で、興味をもたない。
簡単なようでいて、じつは結構難しいことだったりします。
自分の足で立つための、強さがなければ実現しません。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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