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みんな書きなよ


2024年8月24日(土)朝の6:00になりました。

書くという仕事は毎日、10円玉を貯金箱に積み立てていくようなこと。

どうも、高倉大希です。




この文章を、読んでいる。

当たり前のようでいて、なかなかにすごいことだなと思います。


文章なんて、この世にはごまんと溢れていて。

note を書いている人も、わけがわからないくらいいます。


そんな中で、たまたまこの文章を読んでいます。

とんでもない、巡り合わせです。


大笑いするということのなかには、理屈では説明できない何か神秘的な、圧倒的なものがひそんでいる。ともに笑いを味わえるかどうかが、人間関係において決定的にたいせつな、何かなのだ。

山口路子(2021)「サガンの言葉」大和書房


自分で書く文章の、ひとり目の読み手は自分です。

そんなひとり目の読み手は、日々の文章をおもしろいと思っています。


同じように、おもしろいと思ってくれる人がいたらいいな。

ふたり目以降の読み手に期待することは、「いたらいいな」くらいのものです。


それがいまや、そこそこの数の方が読んでくださるようになりました。

それはもう、とんでもない巡り合わせです。


大笑いするうということのなかには、理屈では説明できない何か神秘的な、圧倒的なものがひそんでいる。ともに笑いを味わえるかどうかが、人間関係において決定的にたいせつな、何かなのだ。

山口路子(2021)「サガンの言葉」大和書房


一体どんな人が、読んでくれているのだろう。

そう思って覗きにいくと、投稿がほとんどありません。


この人はきっと、自分と同じものをおもしろいと思っているはずだ。

でも、情報がないからわからない。


これが、日常茶飯事です。

その人は何も悪くないのですが、ちょっとくらいは読ませてくれよと思うのです。


『わたしの日記』やら『うちの赤ちゃんの写真』も含めて、認める立場です。出てしまったものは出してしまえばいいと思います。自己満足が表出することを、ぼくは肯定しています。

糸井重里(2014)「インターネット的」PHP研究所


読むだけの人を、否定するつもりはありません。

遅筆な人を、否定するつもりもありません。


これは、ただの個人的な願望です。

ちょっとくらいは、読ませてくれよと思うのです。


書けたら、送りつけてください。

ふたり目の、読み手になります。






サポートしたあなたには幸せが訪れます。