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おもしろきこともなき世をおもしろく


2024年7月28日(日)朝の6:00になりました。

真理はいつも、おもしろいわけでない。

どうも、高倉大希です。




おもしろい先生の授業と、おもしろくない先生の授業。

どちらかに出席しろと言われたら、迷うことなく前者の授業を選びます。


ただし、ここで気をつけなければならないことがひとつあります。

それは、自分が何をもっておもしろいと判断しているのかということです。


場合によっては、自分の知識が足りていないからおもしろさがわからないだけだという可能性もあります。

場合によっては、まわりの人の意見にただ流されているだけだという可能性もあります。


ここで言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が思っているよりも無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。

スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック(2021)「知ってるつもり」早川書房


おろしろいかどうかではなく、おもしろがれるかどうかだ。

このような言葉を、巷ではよく耳にします。


きっとこの考え方は、あながち間違いではありません。

コントロール可能な自分を変えた方が、豊かな時間を過ごせるはずです。


そんな中でも、どうしてもおもしろいと思えないこともあるというのが現実です。

おもしろがろうと思っても、疲労だけが残ります。


強制的に展開される「歌合戦」の空間は、曲の選定や順番、聴き手としてのリアクションなどに暗黙のコードが走ります。その見えない空気のような慣習が抑圧的で、本来は創造的かつ主体的な表現行為である「歌うこと」が、儀礼的な「空気の読み合い」になりさがる。

安斎勇樹(2024)『キャリア目標を捨て、「探究テーマ」を持とう』note


これまでは、場のルールに合わせることをおもしろがることだと思っていました。

カラオケで言えば、歌ってマラカスを振ることをおもしろがらねばならないと思っていました。


ところが、最近になってこう思うようになりました。

おもしろがれていない自分をも、対象として内包すべきなのかもしれない。


要するに、おもしろいと思えていない自分も含めてその場をおもしろがるのです。

おもしろがれていないというその事実を、じっくりと観察するわけです。


今ある前提をひっくり返すことを得意とする学問なので、僕は「文化人類学を学ぶことは、ダブルチャンスなんだ」と学生によく言っています。現在の文化の中で、良い商品を提供したり職場の人間関係に生かしたりするのにも役立つし、仮に社会が大きく変わって今の常識が通用しなくなっても、文化人類学特有の、視点をシャッフルする力をもってすれば、慌てずに対応できるはずです。

深井龍之介、野村高文(2022)「視点という教養」イースト・プレス


おもしろくない状況に、ただ文句を言っていても仕方がありません。

おもしろがれていない自分を、ただ責めていても仕方がありません。


短所は長所、ピンチはチャンス、失敗は成功です。

その場だけの良し悪しに振り回されても、よいことはありません。


おもしろきこともなき世を、おもしろく。

おもしろきこともなき世そのものも、本当はおもしろいのかもしれません。






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高倉大希
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