おもしろきこともなき世をおもしろく
2024年7月28日(日)朝の6:00になりました。
真理はいつも、おもしろいわけでない。
どうも、高倉大希です。
おもしろい先生の授業と、おもしろくない先生の授業。
どちらかに出席しろと言われたら、迷うことなく前者の授業を選びます。
ただし、ここで気をつけなければならないことがひとつあります。
それは、自分が何をもっておもしろいと判断しているのかということです。
場合によっては、自分の知識が足りていないからおもしろさがわからないだけだという可能性もあります。
場合によっては、まわりの人の意見にただ流されているだけだという可能性もあります。
おろしろいかどうかではなく、おもしろがれるかどうかだ。
このような言葉を、巷ではよく耳にします。
きっとこの考え方は、あながち間違いではありません。
コントロール可能な自分を変えた方が、豊かな時間を過ごせるはずです。
そんな中でも、どうしてもおもしろいと思えないこともあるというのが現実です。
おもしろがろうと思っても、疲労だけが残ります。
これまでは、場のルールに合わせることをおもしろがることだと思っていました。
カラオケで言えば、歌ってマラカスを振ることをおもしろがらねばならないと思っていました。
ところが、最近になってこう思うようになりました。
おもしろがれていない自分をも、対象として内包すべきなのかもしれない。
要するに、おもしろいと思えていない自分も含めてその場をおもしろがるのです。
おもしろがれていないというその事実を、じっくりと観察するわけです。
おもしろくない状況に、ただ文句を言っていても仕方がありません。
おもしろがれていない自分を、ただ責めていても仕方がありません。
短所は長所、ピンチはチャンス、失敗は成功です。
その場だけの良し悪しに振り回されても、よいことはありません。
おもしろきこともなき世を、おもしろく。
おもしろきこともなき世そのものも、本当はおもしろいのかもしれません。