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クリエイターなんておこがましい


2024年3月4日(月)朝の6:00になりました。

クリエイターと呼んでいいのは神様だけ。

どうも、高倉大希です。




クリエイターという言葉を、よく耳にするようになりました。

YouTube や TikTok などの、動画メディアの発達が影響していると思われます。


動画クリエイター、マルチクリエイター、ハイパーメディアクリエイター。

はじめて聞いたときから、クリエイターという呼び名には違和感がありました。


先日、そんな違和感を見事に表現している記事を発見しました。

マリオの生みの親である、任天堂の宮本茂さんのインタビュー記事です。


──そうした“新しいおもしろさ”というものを、宮本さんは、どう着想するものなのでしょうか?

宮本 いやいや、昔、糸井重里さんが言ったのかな? 「クリエイターとかクリエイションというのはおこがましい」と。そう呼べるのは神様だけ。誰もクリエイションなんてしていない。みんなエディットをしてるんだと。「それはいいなあ」と思って。だから、僕もエディターなんですよね。

林克彦(2020)「そうだ、任天堂・宮本茂さんに聞いてみよう」ファミ通


クリエイターと呼んでいいのは神様だけ。

インタビューを読む限り、もともとは糸井重里さんの言葉だそうです。


わたしたちは、クリエイションなどしていない。

わたしたちは、クリエイターではなくエディターなのだ。


この考え方が、冒頭で抱いていた違和感を見事に言い表してくれました。

新しいおもしろさは、創造ではなく編集によって生み出されているのです。


編集は遊びから生まれる。編集は対話から生まれる。編集は不足から生まれる。編集は照合である。編集は連想である。編集は冒険である。

松岡正剛(2000)「知の編集術」講談社


編集と聞いて真っ先に浮かぶのは、知の巨匠と呼ばれる松岡正剛さんの存在です。

彼が更新を続けている「千夜千冊」は、まさに編集そのものです。


これまでの人生で、何を考えてどう過ごしてきたのか。

新しい情報を、どう受け止めてどう解釈するのか。


自分というフィルターを通して、新しいおもしろさを生み出します。

だからこそ編集は、照合であり、連想であり、冒険であるというわけです。


コミュニケーションには、つねにおくり手とうけ手が存在する。情報には、かならずしもおくり手とうけ手があるとはかぎらない。さきに天体をも情報のおくり手であるといったが、正確にいえば、天体が情報をおくりだしているのではない。情報はその天体とともに存在するのである。その情報を情報としてうけとめ、それを解読するのは人間の側の問題である。

梅棹忠夫(1999)「情報の文明学」中央公論新社


編集するには、素材が必要です。

素材がなければ、編集することはできません。


自分らしさを表現するとか、オリジナリティを発揮するとか。

そんなおこがましいことを、言っている場合ではありません。


そんなひまがあるくらいなら、編集修行あるのみです。

まわりを見渡してみれば、生活の中に素材はいくらでも転がっています。






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