うつ病で入院した私が人の言葉を信じられるようになるまで。
どん底を生きていた頃のことも、今のことも、赤裸々に書きました。親への感情については私が1番思い悩んでることでもあるので共感してくれる方がいれば嬉しいし、私がここまで回復したということが、誰かの希望になればと思います。
内容は目次の通りです。
少しづつ死んでいた私
私は中学2年の14歳の頃、うつ病と診断され、病気を抱えながら中学に通っていた。中学3年生になると、病気が悪化し、保健室登校をするようになった。深夜3時にベランダに出て体を乗り出してみたり、泣き叫んだりして度々家族を困らせるようにもなった。食欲もなくなり、頑張って1日3食食べていたが、身長160cmで体重は41kgまで落ちていた。学校に行けず日中は電気もつけずに暗い部屋でただひたすら呼吸することに専念していた。目を開けることすら苦しく、指先を動かすこともできず、吸っても吐いても息苦しくて、この頃の私は、きっと、少しずつ死んでいた。
全日制高校への受験と転学
高校受験では第1志望を諦め、学力的に余裕のある学校に合格し、沢山の期待を胸に高校生となった。でも環境を変えたら病気が治るなんてそんな都合のいいことは起こらなくて、入学から3ヶ月ほどで再び不登校に逆戻りとなった。
「このままでは進級できない」と担任に言われたのが夏。そこから通信制高校を沢山調べて、説明会にも参加して、冬には全日制高校を自主退学し、通信制高校に転学した。
通信制高校に通いながらの生活
週1回1時間の授業から始まった。授業数が少ないので家に居る時間が長いのは有難かったが、それだけ孤独だった。学校に頼れる先生や友達がいるわけでもなく、ただ授業を受けに学校に行って、終わったら誰とも話さず帰宅する生活だった。親が帰ってくるまでずっとひとりで、横になってただ天井を眺めていた。
摂食障害のきっかけと自殺企図
この頃から、夜中にスナック菓子を大量に食べるようになった。甘いもので孤独を埋め、ストレス解消し、満たそうとしていた。気づけば体重は過去最高になっていて、私はダイエットすることを決意した。
社会との繋がりが極限まで薄まり、自分の存在価値がなくなりかけていた私は、体重で自分の存在価値をつくろうとしていた。極端な食事制限が始まった。1日2食が当たり前で、低カロリー食品しか口にしなかった。結果が出るのは早かった。4ヶ月で12kgの減量に成功した。もちろんガリガリだった。肋は浮き出て手首も指も細くなった。極端な食事制限をするようになって、うつ病も目に見えて悪化した。死にたい気持ちや死のうとする衝動が抑えられなくなった。最初は充電コードで首を絞めることから始まり、それでも満足できなくなって、首吊り用にロープを買った。この辺りで、主治医から学校は休学するように言われて、私の中で社会との繋がりは完全に絶たれてしまった。
涙の味にはもう慣れた。毎日泣きながら首を絞めていた。でも、私は決して死にたかったわけではない。ただ、今ある苦しみから逃げたかった。楽になりたかった。楽になる方法は自殺しかないと思っていた。
買ってきたロープで首を吊ったが、上手くいかず意識がふわふわとするだけだった。首を吊ろうとしたことを主治医に何度も訴えていたけど、薬を増やされるだけでそれ以上のことは何もなかった。ある日の診察でいつも通りまた首を吊ろうとしたことを手紙で伝えると、「あなたは未成年だから命の危険があるときは保護者に伝えないといけない」と言って、母親に首を吊ろうとしていることを共有された。そしてその日は薬と大きな精神科病院の紹介状をもらった。
医療保護入院
次の日の朝一で大きな精神科病院に行った。これまでの経緯を話すと、「医療保護入院した方がいい」と言って母親に確認をとり、父親に電話で確認し、私は閉鎖病棟に連れていかれた。
知らない人、知らない環境ばかりの生活が始まった。医療保護入院は分かりやすく言うと親と主治医による強制入院で、いつ退院できるかもわからなかった。
入院初日の夜、父と母が入院の荷物をまとめて届けに来てくれた。面会時間は終わっていたが、鍵のかかったドアの向こう側には父と母がいた。声は届かないのでジェスチャーでありがとうと伝えた。まさか、このとき父も来るとは思わなかった。家事をしているのを見たことがないし、私の病気のこともたぶん何も知らなかったから、来てくれて、少し安心した。
こうして私は2週間を閉鎖病棟で過ごした。
私の幼少期と呪縛
少し時間を戻して、入院前の診察で、主治医に「あなたは真面目すぎるからそのせいで自分を苦しめているように見える」と言われた。心当たりしか無かった。私は小学校受験をして、国立の小学校、中学校に通っていた。周りには天才が沢山いて、でも負けたくなくて、ちゃんとやり抜きたくて、どんな些細な課題も全力で取り組んでいた。私がうつを発症した原因は「オーバーワーク」だった。
私が小学校受験をしたのは、親の希望ではなく、私の意思だった。電車で見かけた私立小学校の制服に一目惚れし、母親に「制服を着て学校に行きたい」と言ったのがきっかけだった。
私の小学校受験を機に、家庭が荒れ始めた。泣き叫ぶ声と罵倒する声が家に響いていた。暴言暴力は当たり前だった。私がずっと自分を許せていないのは、家が荒れて妹も巻き込んでしまってトラウマになるようなことをされて、今こんなにも生きづらさを抱えてしまっているのは、他の誰でもない、私のせいだと思っているからだ。私があのとき、「制服を着たい」なんて言わなければ、親も、家も、荒れずに、平和に過ごせて、今も精神疾患になんてならずに、普通の女子高生をしていたんじゃないかと思うと、親の過去の過ち、妹のトラウマ、私の生きづらさ、4人分の罪を私が全て背負わなくてはいけないと思うのだ。
大好きだけど大嫌い
「辛い気持ちを閉じ込めていると発酵する」と聞いたことがある。その通りだと思った。
今も辛さは軽減されないし、自責思考は激しいし、生きるのやめてしまいたいと心から思うし、これからも私は4人分の罪を背負って生きなければいけないと思っている。私だけの責任だと自分を責めているが、親のことも責めている。許せたことがなかった。虐待まがいのことをして、私にも妹にもトラウマを植え付けて、2人とも精神的に不安定になって、許せるはずがなかった。妹だけでも健康に健全にいてほしかった。
そういう気持ちを小学生の頃から自分の中だけに閉じ込めてきた私は、親に対する嫌悪感や憎しみが完全に発酵されて腐ってしまった。
最近になってようやく親との関係を理解してくれる素敵な主治医と出会って、過去のことも含めてたくさん話をする中で、少しづつトラウマや私の葛藤を客観的に考えることができるようになった。
鼻が曲がるような強烈な匂いと大量の虫が湧いている箱を開けたような気分だった。いっそのこと親を刺し殺すほど恨んだ方がマシだとさえ思った。なにより苦しかったのは、私が親のことを好きだという感情の存在だった。
入院したときには父と母揃って荷物を届けに来てくれた。
母は毎日面会に来てくれた。
それに対する嬉しさや感謝を、憎しみが上回ったことが怖かった。今もずっと怖い。このままずっとずっと憎しみばかりが膨れ上がって何もコントロールが効かなくなっていつか刺し殺してしまうのではないかと思ってしまう。
人の言葉を信じられるようになった
医療保護入院になって初めて母が面会に来たとき、泣きながら私に抱きついてきた。怒りで涙が込み上げた。虐待まがいのことをしてきたくせに。心無い言葉を散々浴びせてきたくせに。今更心配して、理解ある親を演じて、病気を持つ子どもの親という立場に酔って、そういう自分のために涙を流して。許せなかった。
その光景を見た担当看護師さんは私に「素敵なお母さんだね」と言った。私のこの怒りは誰にも知られてはいけないのだと思った。親に対する反逆、裏切り、親不孝者の証なのだと思った。
今の主治医は「早く一人暮らしするべきだよ」と言ってくれる。ストレスでご飯が食べられなくなったことも、うつになったことも、私のせいではないと言ってくれる。それだけで本当に救われた気持ちになれた。私が4人分の罪を背負う必要は本当はないのではないかと一瞬だけ思えた。
今もほとんど学校に行っていないし、ご飯もなかなか食べられないし、死にたくてたまらないほど苦しいけど、信頼する主治医からの言葉はそれを上回るほど重かった。
退院後、今の主治医と出会うまで、私の親に対する負の感情を理解してくれる人に出会ったことがなかった。私のこの葛藤は間違っていないのだと思えたことは、私にとっての救いだった。
精神疾患になると、感動する心を失う。感動する心を失うと、大切な人からの「生きていてほしい」という言葉の重みがわからなくなる。私がそうだった。何もわからないまま、自殺企図に及んだ。最近になって回復と同時に言葉の重みを理解できるようになってきて、死にたいと思う日があっても、行動に移さずに済んでいる。
主治医と出会ったばかりの頃は主治医の言葉に重みを感じなかった。色々な過程を経て、大切な人からの言葉を信じられるようになった。人の言葉を信じられるようになるだけでも格段に生きやすくなった。支援者を裏切りたくないと思えるようになった。
大切な人の言葉を信じられるようになるための方法はこの記事に書いてあるので気になる方は読んで見てほしい。
もはや、孤独を飼い慣らしてこの苦を愛し抜いて、生きたいとさえ思った。
この言葉はあまりにも前向きな気がするが、あえてわざとらしく前向きにした。
この言葉を、読んでいる方に強制するつもりは全くない。どん底を生きているときにこんな前向きに人生を捉えられるわけがないのはよく理解しているつもりだ。それでもこの言葉を選んだのは、自殺企図を繰り返して入院していた私でもここまで前向きになれるほど回復できたのだというメッセージでもある。今の私に辛さや苦しみがないわけではない。死にたいし消えたいと思う。でも、親を刺し殺すかもと思うほど苦しみながらも、それでも前向きになろうと思えるのは、入院した経験があるから。時間は絶対に裏切らないから。時間は私たちの味方だから。
時間が私たちの味方である理由は次の記事で詳しく書いている。
どちらの記事も、過去の私のように精神疾患や家庭環境などに苦しむ人に読んで欲しいと思っている。私がどん底を生きていた頃に知りたかったと思うことをまとめた。私が、私の経験を無駄にしたくないと思っているからこその自己満足でもあるかもしれないが、心の底から私のような人の救いになりたいと思っている。
藻掻き生きる貴方に敬礼を
今回紹介した記事ですが、春から東京の大学に進学予定ですが、交通費は自分で稼ぐように親から言われているため、有料記事となっています。300円で購入できます。
大学では発達心理などを学びます。私と似たような境遇の子どもたちの理解者になりたいと考え、選びました。応援してくださる方は購入していただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました🙇🏻♀️ ̖́-