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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(番外編1)

第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動


 今回からの3回は、本編の続きではなく、前回(13回)の内容の補足を書いていきたいと思います。

13回では、高祖から洛陽への赴任を命じられた李世民が、房玄齢ぼうげんれいら旧北斉出身の山東さんとう豪族とともに自立し(李世民政権)、旧北周出身の豪族で構成された高祖・李建成の「長安政府」と対立するまでを取り上げました。
 

 先日、その投稿を読んで下さった、僕の尊敬するnoteクリエイターのお一人・吉峯 盾さんから、「李世民政権の成立のプロセスと、房玄齢の人となりについて詳しく説明してほしい」という、嬉しいご要望がありました。

そこで、吉峯さんからご要望のあった2つのテーマについて、さらに深く掘り下げてみます。


 なお、吉峯さんはご自身のnoteで、全81回に及ぶ歴史小説・『古代の薩摩940年』を掲載されています。

僕も全話を拝読させて頂きましたが、ドキュメンタリー調で紡がれた、「リアルな古代日本の世界観」に引き込まれました。

薩摩の地方政権の「名もなき庶民たち」の視点から、彼らが、時の王や強大な中華王朝と渡り合っていく攻防のドラマは必見です。古代中国の英雄たちも多数登場します。↓ぜひ、皆さんもご覧になってください!



🟥 房玄齢編 Ⅰ、少年時代の予言

 

 のちの唐の太宗たいそう・李世民の右腕として、やがて皇帝の座へと導くこととなる、名臣・房玄齢。しかし、李世民に仕える以前の半生は、決して順風満帆ではありませんでした。

ですが、この半生に直面した「一つの事件」こそが、房玄齢をして、「自らの手で新たな理想の君主を擁立しよう」という考えに至る転機となったのではないかと、僕は考えます。

 この番外編では、玄武門の変への道を、房玄齢の半生を中心に辿りながら、隋から唐への混乱期を「地方豪族たちの視点」から捉え直してみます。


 房玄齢(名は房喬ぼうきょうあざなは玄齢※1)は、北周時代の578年、旧北斉領だったさい州(現・山東省)に生まれます。その一族は、清河せいか房氏※2と呼ばれる、漢人(漢民族)の名門豪族でした。


番外編1関連地図 (隋国内の黒線内は旧北斉領)


幼少期から賢く、歴史や古典に精通した少年・房玄齢は、隋の天下がまだ安定していた時期に、このような発言をして父親を驚かせました。

「隋の皇帝は何の功徳くどくもなく、人民をあざむき、世継ぎの長期的な計画を立てず、嫡子と庶子※3 を互いに争わせ、浪費を競い、結局は殺し合いをして、国を保つには不十分である。 今は世が穏やかと言っても、衰退の時を待っているだけだ」

『旧唐書・房玄齢伝』


やがて、18歳で科挙※4 に合格した房玄齢は、その後、県尉けんい(県の警察部長)の職に就きました。そして、27歳の時に、漢王・楊諒ようりょう(文帝の五男・煬帝の末弟)【575~605】の反乱が起こります。

「隋の宗室で兄弟間の争いが起こる」という、少年時代の予言が現実となったのです。これが、先述の「房玄齢の人生の転機」となったと考える事件です。

房玄齢は、この反乱に連座して、流罪となってしまいます。なぜ彼は、煬帝の弟の反乱に関与したのでしょうか。


 文帝の次男・煬帝は、父の在位中、讒言ざんげん※5 によって兄から皇太子の座を奪い※6  、楊諒とは別の弟も讒言で追い落としました。楊諒は、兄たちが次々と粛清されていくことに恐れを抱きます。


隋宗室系図


楊諒は文帝の存命中から、「東突厥への防備」と称して兵を集め、謀反を準備し始めます。そして、604年に煬帝が即位すると、都へ上るよう命じられた楊諒は、これに従わず、ついに挙兵に踏み切ったのです。

この時、挙兵を勧めた配下の王頍おうき【551~604】から、「全軍で長安を目指す」、または「旧北斉領を拠り所として独立する」という二つの策を提示された楊諒は、二つを併用することにします。

また、別の配下・裴文安はいぶんあんは、「山東の士も、私の手中にあります」と述べました(『隋書・庶人諒伝』)。

裴文安は、煬帝の下で東突厥外交を担った裴矩はいく※7 を輩出した、漢人の一流名門豪族・河東かとう裴氏の出身と考えられます。

このため、裴文安は、「名門豪族の一員としてのネットワーク」を利用して、旧北斉地域の豪族たちを楊諒の支配下に置こうとしたのだと、僕は推測します。

旧北斉地域には、房玄齢の住むさい州(現・山東省)も含まれました。楊諒が挙兵すると、旧北斉地域をはじめ、実に19もの州がこれに応じて立ち上がります。

即ち、房玄齢は、自身が積極的に反乱に加担していないにせよ、斉州が楊諒の支配圏になったことで、「謀反に連座した一人」とみなされたのでした。


 では、楊諒配下の裴文安や王頍らは、どのような目的でこの反乱を押し進めたのでしょうか。

裴文安は、先述の河東裴氏のうちの「旧北斉系」であり、王頍は「南朝系」※8 の出身でした。

ですが、隋は「北周」を継いで成立した王朝でした。そのため、隋は旧北周の豪族を重視し、滅ぼした北斉や南朝の豪族よりも上位に置きます。

堀井裕之氏が、「隋政権成立後、なおも北斉系人士が不安定な地位にいた」と言われるように、北周の統治下で冷遇され、隋の建国に期待を寄せた旧北斉豪族は特に、隋への不満を抱いていたのです。

裴文安については、河東裴氏は主に北周に仕えた者が多く、同族の裴矩も初め北斉に仕え、北斉の滅亡後は北周・隋に仕えました。裴文安もまた、裴矩と同様の経歴を辿ったと想像します。

しかし、裴文安が隋代にどのような官職だったかという記録はありません。裴矩が隋代でも上手く立ち回り、煬帝の信任を得て出世したのと異なり、裴文安は不遇の日々を送っていたと想像します。

同じく、旧北斉系の房玄齢の場合も、県尉の職は、当時としては決して彼の能力に見合った高い官職とは言えませんでした。

一方、じゅ学者(儒教の学者)だった南朝系の王頍は、初めは文帝に気に入られて、国家の博士に任じられましたが、ある事件に連座して流罪となり、その後は中央に戻されることはありませんでした。

また、かねてから王頍は、「兵法にも通じ、将軍になる野心を持っていたが、今はその時期ではないと失望することが多く、いずれ将軍になるとよく自負していた」とされます(『隋書・王頍伝』)。

つまり、「楊諒の乱」は、隋代になっても変わらず苦汁を味わっていた旧北斉・南朝系豪族の一部が、楊諒を担ぎ上げて、北周出身者が中心の中央政府から自立し、自らの再起を賭けて起こした反乱だったと、僕は考えます。

(番外編2につづく)



※1 あざな・・・ 近代までの中国で、元服げんぷくの際に付けられた、実名とは別の名前。中国では、親や主君など目上の者を除いて、実名(下の名前)で相手を呼ぶことは無礼にあたった。
※2 「清河郡(現・河北省)で発祥はっしょうした房氏」の意味。同様に、後述の河東かとうはい氏も、「河東郡(現・山西省)で|発祥した裴氏」。
※3 嫡子は嫡男(跡継ぎとなる、正妻の産んだ長男)、庶子は嫡子以外の息子のこと。
※4 隋からしんの末期(1905年)まで続いた、官僚を登用するための国家公務員試験。合格者の平均年齢は30代後半とされる。
※5 相手を陥れるための偽りの悪言。
※6 煬帝は即位後に、兄に自殺を命じた。
※7 以下を参照。

※8 南朝・・・ 南北朝時代に北朝と並立した、漢民族の諸王朝。

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