「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(番外編2)
第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動
🟥 房玄齢編 Ⅱ、二人の「李氏」
604年、煬帝の即位直後に起きた、漢王・楊諒の乱。しかし、楊諒は、配下の王頍や裴文安の「まず長安を取るべき」という献策を遂行できず、反乱は瞬く間に鎮圧されます。
王頍は東突厥への亡命を図るも、叶わず自害します。裴文安のその後は分かっていません。楊諒自身は、煬帝の温情によって助命され、庶民に降格となり、翌年、失意の内に世を去ります。
さらに、房玄齢をはじめ、反乱に連座して死罪・流罪となった者は、併せて「二十余万家」に及びました。房玄齢はその後、煬帝の治世において再び官職に就くことはなく、静かに半ば隠居の日々を送ることになります。
ところが、617年、太原起義で挙兵した高祖と李世民が長安を制圧すると、房玄齢は突然、李世民の軍営に駆けつけます。両者はすぐに意気投合しました。流罪となってから13年、房玄齢、40歳の秋のことでした。
房玄齢は、なぜ唐に仕える道を選んだのでしょうか。それを考えるには、楊諒の乱ともう一つ、房玄齢の生き方に影響を与えた「親族」の存在がありました。
房玄齢の一族・清河房氏の中には、隋末に、唐の宗室・李氏とは別の群雄に仕えた者もいました。房玄齢のおじ、または父の従兄弟とされる、房玄藻です。
房玄藻は、房玄齢と同じく、隋代は県尉(県の警察部長)の職に留まり、これに不満を抱いていました。やがて、隋の将軍・楊玄感の乱※1 に参加し、お尋ね者となっていた時に、李密【582~618】と出会います。
李密は、唐の宗室・李氏とは別系統ですが、その一族は、北魏時代の貴族集団では唐の李氏と同格にあった名門貴族でした。李密も隋に仕えますが、その才略を煬帝に危険視されたこともあり、官職を辞します。
その後、楊玄感の乱を参謀として支えますが、やはり楊玄感も李密の「まず長安を取るべき」という献策を聞かず敗死し、李密は房玄藻と同様、逃亡生活を送っていました。
この頃、世間では、「隋の楊氏が滅びて李氏の天下となる」という予言が噂されていました。
617年、李密と房玄藻は各地で同志を集め、高祖の太原起義より5ヶ月早く、李密は「魏公」と称して独立を果たします。その勢力圏は最終的に、旧北斉領の大部分を占めました。
勢力拡大の一方、房玄藻は李密に勧め、元は李密の同盟者でのちに配下となった翟譲を暗殺します。翟譲の部下に、翟譲を担いで李密に取って代わらせようとする動きがあり、先手を打ってのクーデターでした。
やがて、李密は隋の副都・洛陽の攻略を目指し、隋軍の王世充【?~621】※2 と死闘を繰り広げていきます。こうした中、西方では、高祖が洛陽の攻防を横目に長安を制圧します。
李密が洛陽に固執した背景には、李密が洛陽近くの隋軍の食糧倉庫を押さえていたこともありました。しかし、あくまで首都・長安ではなく洛陽の攻略を急ぐ理由を、配下にこう述べています。
かつて、洛陽は北魏(の後期)の首都であり、北斉は首都とはしなかったものの、村元健一氏いわく、北斉の首都・鄴 は、「北魏洛陽を都城だけでなく、周辺の景観も含めコピーしたもの」※3 でした。
ですが、隋代になると、文帝が洛陽をあまり重視しなかったのに対し、煬帝は洛陽を「東京」として生まれ変わらせ、物流の拠点としても、長安に並ぶ副都として繁栄させます。
即ち、旧北斉豪族たちにとって洛陽とは、旧北周の首都でもあった長安よりも、馴染み深い旧北斉の都市であり、「極めて特別な都」だったのです。
地方豪族を重視してきた李密にとって、洛陽を隋軍から旧北斉豪族の手に取り戻すことは、自身の政権の支持層を守るための、「最大にして最難関の課題」でした。
そのため、他の群雄に帝位に就くことを勧められても、「洛陽を平定するまでは」と断りました。ところが、次第に傲慢となった李密は、古参以外の配下を軽んずるようになり、人心が離れていきます。
618年、房玄藻は、使者として往来中に群盗に襲われ、命を落とします。その後、李密は王世充に大敗して本拠を失い、最終的に、唐を建国したばかりの高祖に帰順しました。以下は、李密が李世民と初対面した際の言葉です。
李密は高祖から礼遇されますが、唐の一臣下としての立場に耐え切れず、「高祖のため旧臣の旧北斉豪族を招集する」との名目で長安を去り、ついに離反します。ほどなく彼は唐軍に討たれ、37年の激動の生涯を終えました。
さて、房玄齢が、房玄藻や他の旧北斉豪族と異なり、李密に仕えず、いきなり唐に仕えた理由は、「長安攻略の成功」と「組織の不完全性」の2点にあると僕は思います。
振り返ると、楊諒や楊玄感の乱の失敗は、配下の献策を聞かず、長安を取れなかったことにありました。他方、旧北斉豪族を従えた李密の場合は、彼らのために長安ではなく、まず洛陽を攻略する必要が生じました。
また、隋の滅亡後、禅譲という手段で正式に隋を継いだ唐の高祖だけでなく、王世充など他の有力な群雄も、それぞれ皇帝を自称しました。しかし、李密はあくまで諸侯の位である「魏公」に留まり続けます。
その背景にも、李密が「旧北斉豪族らに遠慮した向きがある」と僕は考えます。旧北斉豪族の多くは李密に仕える以前、隋の将軍に従っており、13回で書いたように、隋打倒を目指す反乱勢力とは「敵対関係」にありました。
これまで、旧北斉豪族は「隋から冷遇された」と述べてきましたが、先述のように、煬帝の治世には洛陽(東京)が副都として復興されたほか、旧北斉豪族の中央政府への進出も増えていました。
さらに、村元氏によれば、「煬帝は大興よりも明らかに東京を重視しており」※4 、「大興に代わる実質的な新たな都城として洛陽を築いていたと見なすことができる」とされます。
このことから、彼らが反乱勢力と敵対していたのは、少なからず「恩恵を受けた煬帝に報いたい」という思いもあったと想像します。
その旧北斉豪族らが従っていた隋の将軍を討ち、山東の地に入ったのが、隋打倒を目指す李密でした。
ですが、李密は、煬帝に恩義を感じる彼らの手前、煬帝に代替する皇帝を名乗れば、彼らの支持を損なう可能性があったのです。
そのため、先述のように他の群雄に即位を勧められても、「洛陽を平定するまでは」と先延ばしにするほかなく、洛陽を平定して旧北斉豪族の納得を得た上で、即位しようと考えていたと推測します。
その結果、あとから台頭した高祖に後れを取り、その焦りもあって洛陽攻略も失敗し、李密政権は衰退へと向かいました。
一方、高祖父子は、挙兵時から着実に帝位を目指してきました。初期の唐軍を構成したのは旧北周豪族ですが、彼らは煬帝に恩義を感じる旧北斉・山東豪族と違い、高句麗遠征などで使役された煬帝に辟易していたのです。
また、晩年の煬帝は、長安を離れて洛陽や南方の江都などに滞在したため、旧北周豪族にとって煬帝は、もはや遠い存在になっていました。そのため、高祖は煬帝亡き後、はばかりなく帝位に就くことができました。
そして、何と言っても長安を手に入れたことこそが、高祖父子に最大の飛躍をもたらしました。
故・森安孝夫氏いわく、「(長安には)文帝以来蓄積された財貨や武器が隋末の戦乱に遭わず、無傷のままで残っていた。それを易々と手中に収めたことが、李淵一派が他の群雄より抜きんでる大きな要因になった」のです。
このように、「天下を狙うための最大の要地」と、「煬帝に不満を抱く旧北周豪族の支持」の2つを確実に得たことで、高祖は天下の覇者に王手をかけました。
また、李密政権が、元は翟譲が形作った組織を取り込んだ「既存の組織を糾合した政権」だったのに対し、唐政権は、高祖父子が一から作り上げた「叩き上げの政権」でした。
唐政権は、旧北周豪族に限らず、帰順してきた群盗などを配下として温かく迎え、李世民はその中で優れた者を幕僚(将軍を補佐する参謀)としました。
後年、李世民が臣下に、「国家の創業と守成※5 はどちらが難しいか」という質問をした際、房玄齢は「創業」であると述べました。房玄齢は、李世民の天下取りをその右腕として支えことを、自身の誇りとしていたのです。
即ち、房玄齢は、「既存の組織を糾合した李密政権」ではなく、未だ不完全な「叩き上げの唐政権」に仕え、その創業の道に加わることで、「自らの力を生かして天下の国事に尽くす」という夢を叶えようとしたのです。
そして、長安を基盤とし、旧北周豪族以外の者も寛容に迎え入れる唐政権に、旧北斉豪族の新たな活路を見出すべく、自ら率先して李世民の軍営に駆け込んだのだと、僕は思います。
房玄齢の、「隋の楊氏が滅びて「唐の宗室・李氏」の天下となる」ことを目指して奔走する戦いの日々は、ここに幕を開けたのです。
(番外編3につづく)
※1 613年の第三次高句麗遠征の最中に起き、隋軍は鎮圧のために高句麗から撤退した。
※2 はじめ隋の将軍だったが、煬帝亡き後、群雄として独立した。
※3 北周末期の580年、楊堅(文帝)の専制に対し、北周の有力武将の反乱が起きた際に、戦場となった鄴城は焼失した。
※4 大興・・・ 隋の首都・大興城(長安)のこと。このシリーズでは隋・唐の首都の呼称を「長安」で統一している。
※5 創業者のあとを受け継ぎ、固く守って維持すること。