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【なぜ僕は詩を書いているのだろう】
「なぜ僕は詩を書いているのだろう」
以前からそんな疑問を漠然と抱いていた。
もう少しディティールを細かくすると
「なぜ僕の詩はこんなに不幸そうなのだろう」と
そう換言することもできる。
僕の書く詩はいつも不幸そうだ。
不幸そうだし、寂しそうだ。
実のところの自分と乖離するかのように、
いつも寂しそうだ。
いったい僕の中に潜むなにが
「不幸そうな詩」を生み出しているのだろう。
自分を客観視してみると、僕は大して不幸な人間には見えない。
人間関係に不満があるわけではなく、
むしろ自分で言うのもどうかと思うが、
人心掌握にかなり長けた人間であると思われる。
その結果仕事では非常に高い評価をいただいており、僕を慕ってくれる人も多い。
容姿を褒めてもらえることも多々あったし、
精神性を認めてもらえることもたくさんあった。
そんな僕が、なぜこんなに不幸せそうな詩を書いているのだろう。
僕は自分が今そこそこ幸せであることを自覚している。
置かれた現状に対して自分を過度に不幸せだと思い込むことほど悲しいことはないし、痛々しいこともないだろう。
そしてなにより危険だ。
「津島修治は太宰治に殺された」という持論を僕は持っている。
おそらくそういった芸術家は、彼以外にも少なくない数いるだろう。
僕は太宰治が大好きなのだが、
僕は太宰治のような天才ではないので、
僕が彼のような悲劇の人生を真似てみたとて、才能のない不幸者気取りの痛い奴が生まれるだけである。
芸術家の多くは自らの美学の上で人生を奔走する。
そういった性質を持つ「芸術家」という人種の人生は更に細分化することができ、自らが描き出したシナリオによって人生を完成させる類の人は小説家に多いような気がする。
僕のイメージだが、詩人はシナリオによって人生を完成させるというよりも、我武者羅に人生の美学を追い続けて、自然に力尽きる印象がある。
なんとなくだが、これは僕なりに説明できる。
小説家というのは客観の人達だ。
奥行きのある世界観の中で様々な人物を配置して、生きたドラマを描くというのは、相当に知的な作業であり、メタな視点を持っていなければできることではないだろう。
しかし人間の脳はそんなに賢くないので、自らが生み出した作品の色使いが、登場人物の思想や言葉が、自らの人格そのものだと思い込むようになる。
デカダンの作者であればあるほど、作品の世界はどんどん自らと崩壊的な色彩に融和していき、最終的には自分自身を以て作品に壮大な終止符を打つのだ。
一方詩人とは主観の人達だ。
自らが捉えた感覚を、深い精神世界に潜り込んで独自の言語で表現する。
これほどに客観性を伴わずとも遂行できる
芸術もなかなか見当たらず、即ち主観に則ってその時その時の情緒を我武者羅に歌い続けることこそが詩人の役割のようにも思える。
こうして考えてみると、上述した小説家と詩人の人生の歩み方の違いも、なんとなく納得していただけたのではないだろうか。
と、ここで本題に戻ろう。
先程の僕の仮説を踏まえた上で
「僕は不幸者としてのシナリオを描こうとしていないか?」と僕に問いかけてみたい。
いま現在そこそこ幸せそうなのに、生まれる言葉は常に孤独を彷徨っている。
一体この現象はなんなのか。
その疑問と向き合うために。
そして逆説的に、「本当にいま僕は不幸でないのか」という問題も解決しようと思う。
そのためにはまずそもそも幸せとはなんぞやという点を明白にしないといけない。
幸福論については非常に多様な思想があるため、本来幸せを定義することは困難を極めるが、問題をできるだけ捉えやすくするためにも、あえてここでは幸福をシンプルに捉えよう。
以下簡潔化した幸福の要素を箇条書きしてみる。
1.ストレスのない人間関係を築けているか
2.自分のなすことが適当に評価されているか
3.楽しみを満たすことができる環境にあるか
4.ある程度自由に選択ができる環境にあるか
5.健康的な生活が送れているか
さぁ、これらの側面から自分が幸せか否かを見つめてみよう。
1については冒頭で述べたように、良い人間関係が構築できているためまるでストレスフリーだ。
2についても同様、仕事では高い評価を得ている。
しかし欲張りな僕はそれだけでは足りないので、もっともっと名を馳せたいと考えてしまう。
3はもう少し満たしたいところだ。詩作についても読書についても、現在時間が十分に確保できてるとは言い難い。
4これはかなり満たされていない。
なにせ金がない。金がないので旅行にも行けないし好きなものもなかなか食べられない。
その原因は何かと問われれば、
「お金が入っても楽しいことのためにすぐに使い果たしてしまうからです」と苦い顔をして正直に答えるが、まぁしかしこれは必要経費とも言える。遊蕩税とでも名付けてやろう。
5.これについても不安が大きい。
今の所は非常に大きな病気があるわけではないが、酒を飲む量が多すぎるため少しは減らしていかないといけない。
ん?
なぜ僕はそんなに酒を飲むというのだ?
果たして幸せ者がそんなに酒を飲む必要があるのだろうか。
酒を飲む人は大きく分けて3種類の人がいる。
1に酒そのものが好きな純粋の酒好き。
2に孤独に対する麻酔として酒を飲む人。
3に酒の刺激から逃れられぬ快楽主義者。
僕の場合はどうやら2と3に該当しそうだなと我ながら思った。
しかし、先程の幸福の定義で考えた場合に1つめの人間関係は良好だと答えた僕が、なぜ孤独なのだろうか。
わかってきた。
なんとなく僕が「詩を書く理由」がわかってきた。
結局僕は、贅沢な孤独者なのだ。
幸か不幸かの結論をつけるとするならば
「ある程度の幸福者であると同時に贅沢な不幸者」と言ったところなのだろう。
幼い頃から異質な存在として見られてきて、
形而上学や芸術の話をしようとすれば周りからはより変な人間だと思われて、幼き時代にただ唯一僕の精神性を認めてくださったのは中学2年性の頃の担任の先生であった。
そして幼き日の僕はいつも現実ではなく、上の空の幻想を見ていたし、同じようにして幻想を眺められる人が欲しかったのだろう。
現実はあまりにも簡単すぎた。
異質な者として排斥されかけていた昔の僕は、周りを観察し、内省を繰り返すうちに高いコミュニケーション能力を手に入れた。
大人になった今では更に仏教の技や広義の自己啓発本や、勉強してきた心理学の知識を用いて、現実の人間関係をある程度自由に良好にできてしまう。
しかし、そんなことは僕にとってあまりにも退屈でつまらないことだった。
本来の僕はきっととんでもない快楽主義者で、
なおかつ美しい世界に魅かれていて……
つまりは現実を生きるようなタチの人ではなかったのだろう。
しかし未だにその美しい世界を現実に描きたくて、
そんな美しい世界を共有できる人がいてほしくて
僕は詩を書いているのだろう。
だから僕の詩は、いつもどこか寂しそうで
孤独を歌っていて、そして時にひたすら耽美な詩を目指しているのだろう。
あぁ、美しいファム・ファタールと一緒に
あの蒼い空の向こう側へ融けてしまいたい。
ある程度の幸福な現実なんかはすっ飛ばして
身体と精神が溶け合う、究極の甘美に身を投じてしまいたい。
そうだなぁ。
寂しいなぁ。
2025/02/09(日)