【桃太郎】 第四話「湯治場にて」
「どうした? 桃太郎」
「……」
柿珍念は、桃太郎と離れで布団を並べていた。
この日の夕刻、奥多摩山中で桃太郎とばったり出会った後、熊一、ヨネのもてなしを受け、ここで一泊することになったのだ。
母屋からヨネのひときわ大きな絶叫が止んで、しばらく経つ。
それを見計らってか、和尚は、元気のない桃太郎を問いただす。
桃太郎は、ぽつり、ぽつりとキヨとのやりとりを白状した。
「わっははっ……、いやいや笑い話ではないな。お主にとっては死活問題じゃ。お主の一物は、釈迦如来様のように貫禄があるからのう。キヨの奴も驚いたんじゃろ」
和尚はそう言って、自分の禿頭を、ぴしゃりと叩いた。
シロは寝返りを打っている。
「なぁ、和尚さん……」
「なんじゃ?」
「坊主は、肉を食わないんじゃないのか?」
夕餉で猪肉の鍋が振舞われた。
「馬鹿たれが。坊主も所詮は人間。酒も飲めば、女も抱く。年中、坊主は疲れるわ」
「そうなのか……、なぁ、和尚さん。強くなるにはどうしたらいい?」
その少年にとって、よほどその出来事が堪えたのであろう。和尚は言った。
「そうじゃのう、強さとは、弱さの種。弱さとは、強さの種。いや、難しいな」
和尚は、一拍おく。
「小難しいことより、どうじゃ、体でも鍛えてみれば」
「鍛える?」
「そう、剣術とか、木樵とか、身体を鍛えることじゃ。清らかな魂は、健やかな肉体に宿るからのう」
「剣術……」
「わしの弟に、弁慶という奴がおるんじゃが、荒くれ者での、一向に寺に戻りゃせん。奴が寺に居れば、お主の師匠となって稽古をつけてやれるんじゃが……」
「弁慶……、今どこにいるんだ?」
「そこの雲取の頂きで、剣術の腕を磨いておるわい……。もう遅い、寝ようぞ……」
和尚は、そういうと軽く寝息を立て始めた。
弁慶……。
そう呟いた桃太郎は、寝返りを打った。
翌朝、桃太郎が起きると、すでに和尚は集落に出立していた。
この朝、桃太郎とシロは狩りに出かけたものの、不発であった。そこで取って返して、畑に向かった。
最近、マクワウリが盗まれるのだ。いい加減、その下手人を捕らえなければならない。
そこで、桃太郎とシロは二手に分かれて待ち伏せをすることにした。
果たして……。
不届き者は、抜き足、差し足てやって来た。首を振ってあたりを窺う。そして、畑を囲う縄を潜ってマクワウリに近づく。
——。
草むらから躍り出る、シロ!
がぶりっ、と不届き者の腕に噛みつく。
「あ痛たたっ! なんやこの犬畜生め!」
と叫んだ不届き者は、もがきながらシロの懐に拳を叩き込む。
シロは、もんどり打って畑を囲う縄まで飛ばされた。
——やばい……。
不届き者は草むらに飛び込んだ。
どんっ!
何かにぶつかった。
あっという間に後ろを取られると、羽交締めにされた。
締め上げられる。
霞む視界……。
「ま、待て、こ、降参や……」
不届き者は、後ろ手に縛られて座らされていた。
目の前に仁王立ちする者が言った。
「おい盗人、名は? 俺は、桃太郎、こっちはシロだ」
身動きが取れない不届き者は、観念した。
「……猿のエテ吉。嵐山のエテ吉…」
ぼそっと言った。
「なぜ盗む?」
「ちっ、しゃあないやろ、兄貴とはぐれて、食うもんもあらへんし……」
「だからといって人様の物を黙って持っていちゃあ駄目だろう!」
「はいはい、そうですね。もう好きにしたらええやん」
開き直るエテ吉の頭を、桃太郎は鷲掴みにして、何度も激しく揺さぶった。
エテ吉のちょうど目の前に桃太郎の股間が迫った。その褌から見たこともない大きさのふぐり(キンタマ)が二つ、はみ出していた。
しばらくすると、桃太郎は「もう懲りただろう」そう言って、シロに縄を解かせた。
「……勘弁してくれんのか?」
「許すとは言ってない。お前は罰を受けた。それだけだ」
あの大きなふぐりが、エテ吉のまぶたに焼きついていた。
帰り支度の桃太郎に駆け寄ると、その耳元に囁いた。
「……なに、馬鹿かお前は……、そんな……、俺をみくびるな……、そうなのか……? 考えておいてやる……」
そんな桃太郎と猿のやり取りを、シロはニコニコと見つめていた。
* * *
セツが亡くなった翌日、誰かが里長に告げ口をしました。
アイとシユが蔵から食べ物を盗み、セツに与えていたことが里長に知られてしまいました。
里長は、カンカンになって怒りました。
兄弟を力一杯、鞭で打ち据えました。
「病の小娘になんともったいないことを! あんなものには、ニワトリの餌でも食わしておけば十分なんじゃ!」
アイの胸の中で何かが弾けました。
正直、この後起こったことは、兄弟にとっては夢心地でした。
夢か現か幻か……。
正気を取り戻した時、兄弟の足元には、血まみれになった里長が、冷たくなって横たわっていました。
* * *
夕刻、桃太郎は一人で集落の近くまでやって来た。
「来ると思ったで」
エテ吉は、ニヤニヤしながら桃太郎の顔を覗き込んだ。
「勘違いするな。俺はお前がまた、不逞を働かないか見張りに来ただけだ」
「ええで、ええで。犬畜生には留守番さしとるんやな」
互いに声を潜めていた。
ここは集落の湯治場。
その湯を囲う茂みに、二人は身を屈めていた。
ぞくぞくと集落の女衆が湯船に浸かる。
桃太郎は目を見張った。
湯浴みする女体……。
肌を這う、水滴……。
水滴を弾く、肌……。
エテ吉の趣味は、覗きであった。
かがり火がゆらゆらと湯煙を映し出し、女体の艶かしさを際立たせていた。
むく、むく、むくり……。
釈迦如来に生気が宿る。
ふと隣のエテ吉を見やると、同じく起立させた釈迦如来を懸命に擦っている。
「何やってんだ、おまえ?」
「はあ? 知らんのか。女体を見た時にするまじないや。これをやらんとふぐりが腐って落ちる」
「本当か?!」
「はよ、桃もやってみい」
慌てた桃太郎は、自らの釈迦如来を激しく擦り出した。
なにやら不思議なまじないであった。
痛くはないのだが、こそばゆいような、宙を浮いているような……、それになぜだか分からないが、擦る手が止まりそうにない。
よく見ると、向こうの茂みに禿頭が見える。
柿珍念であった。
和尚もまた、熱心に釈迦如来を擦っていた。
三者は、ほぼ同時に果てた……。
落ち着いた頃、エテ吉は大きめの木片を取り出し、筆をさらさらと走らせた。
彼の特技は、絵を描くことであった。
これが浄土なのか……。
茫然となっていた桃太郎は、我に返ってエテ吉に言った。
「なにやってんだ?」
「何って、今日の獲物をこうやって残すんや」
女の裸体が描かれていた。
「桃、特にあのおなご、行く末はこんな感じのええおなごになるでえ」
エテ吉の視線の先を桃太郎は手繰った。
なんと、キヨであった。
エテ吉は、キヨの裸体を見て、その将来を妄想して描いたのだ。
桃太郎は昼間のように、エテ吉の頭を掴んで激しく振った。
「い、いきなり、なんやねん!」
「いいかエテ吉、よく聞け。あのおなごは描いちゃ駄目だ」
「なんでや」
「なんでもだ」
桃太郎の目は血走っている。
「分かったから、怖い顔すな」エテ吉は折れた。
「いいかエテ吉、大事なことだからもう一度言うぞ。あのおなごだけは、絶対に駄目だ」
「しつこいやっちゃなあ」
「いいかエテ吉、大事なことだから……」
「……」
同じやり取りが、この後、三度続いた。
キヨの艶絵を、描くごとに俺に持ってこい……。
エテ吉は、桃太郎がそう言っていると受け取った。
その湯治場の上空、二羽の雉が、満月を背に夜空を遊弋していた。